第4話 狩る者と狩られる者
四散する肉片が血液と共に、交差点の中央を紅く彩る。一秒にも満たないその瞬間をスコープ越しに、何処か呆けた様に雪華は見ていた。
普通の銃ならば、どの口径であっても、生物の身体を挽き肉にするパワーは無い。雪華のwindもまたしかり。射程こそ長いが、オーバーキルする程の威力は無い。
しかし―――
狙撃手として雪華は、これ程の惨状を弾丸一発で作り上げる事が出来る銃を知っていた。
「……対物…ライフル…!!」
五十口径と言う他のライフルとは一線を隔てる対物ライフルならば、普通のライフルに於ける不可能を可能にする事も無理ではない。
不意に雪華は、殺気を感じ、横へ跳ねた。次の瞬間、たった今まで居た所の床に穴が開いた。元々老朽化していた所為か、周囲の床まで崩れ、階下へと落ちていく。
そんな中、雪華は階段へ向かって逃げながら、時間を数えていた。
狙撃銃の弾丸は音速を越える。それは、相手に場所を悟られる事なく葬る為だ。しかし、初弾を外せば音に因って、距離が―――下手すれば居場所すらも―――分かってしまう。狙撃者には、最も忌むべき事だ。
非常階段を転がる様に駆け降り、ブルーシートに覆われた屋内に身を潜めた雪華は、銃声を耳にし、愕然とする。
「…六、七…秒」
音の速さは大雑把に計算すると、秒速三百メートル。つまり、雪華は約二キロ先から狙撃されたのだ。
狙撃は、長距離であればある程難しい。仮令どんな銃を使ったとしても、だ。
第四都市では、かなりの射程を誇る雪華でも、千五百メートルが関の山。
自分よりも五百メートルも遠くから正確に狙撃出来る相手に、場合によっては、反撃を考えていた雪華は、逃げる事を決意する。無謀な勝負に命を掛ける程、雪華は戦闘狂でもなければ、勝負師でもない。
幸い、ブルーシートが雪華の姿を隠している。細心の注意さえ払えば、逃げる事も無理ではない。その筈だった。
壁面を覆っていたブルーシートが半分剥がれ落ち、数秒後、風に持って行かれた。シートに遅れて、ブルーシートを固定していた金具が壁の一部と共に落ちていく。差し込んできた日光が眼を差した。
相次いで飛来する弾丸の嵐。雪華はそれらを絶え間なく不規則に移動する事で躱していた。まるでダンスをしている様だと雪華は思う。だが、ペナルティは大口径の弾丸だった。
回避と言う名のダンスを踊りながら、雪華は下へと向かっていく。重機の影に隠れ、数秒にも満たない短い休息を鳥ながら、逃げ続ける。後に残るのは、スクラップと化した重機だけだった。
「はあっ、はあっ…」
何時撃たれるかと言う恐怖。自分は反撃出来ない苛立ち。その様な精神状態の中動かし続け、何時もよりも格段に早く疲労を訴える身体。雪華を支えているのは、生への渇望。
こんな所で死ぬ訳には行かないのだ。時折雪華の中で燻り、焦がすある感情が今、雪華を生かそうとしていた。
胸元のペンダントを祈る様にきつく握り締める。
「桜華……師匠…」
もうこの世には居ない妹と師に祈る。基本的に雪華は神を信じていない。こんなに苦しんでいるのに、手すら差し伸べてくれなかった神など、信じるに値しなかった。
雪華は再び跳躍する。隠れていた柱に大穴が開く。階段に飛び込む。何時の間にか、一階に辿り着いていた。柱のコンクリートは所々が欠落し、錆びた赤茶色の鉄骨が剥き出しになって居る。
その柱の中で雪華は、一番まともそうな柱に隠れた。しかし、その時に気付いた。今まで、走ってきた道筋を見る。
何処にも、弾痕は無かった。
恐らく相手は、柱から飛び出した時に雪華を狙撃するだろう。隠れていても、柱が破壊される事は間違いない。雪華は、まんまと誘い込まれたのだ。疲弊した身体と、磨り減った精神。仕留めるには、容易すぎる相手に違いなかった。
だが、雪華も指を咥えて見ている積もりはない。狙撃銃は、特に対物ライフルとなると、一発撃つと隙が生じる。その一発を柱に任せ、逃げるしかない。強制的に、ルーレットは回されてしまったのだ。
逃げる方向を右と定め、雪華は待ち構えた。背中を任せる柱を擦りながら。
限界まで集中した雪華の聴覚を、ガキンッ、と言う硬い物同士がぶつかり合った音を捕らえる。柱に異常は無い。千載一遇のチャンスを物にする為に、雪華は飛び出した。
―――不意に、身体が突き飛ばされた。バランスを崩した身体は、為す術無く床に叩き付けられる。
「っ!!」
立ち上がろうとしても手足に力が入らない。腹部が異常に熱く、身体が寒い。視線を身体に向け、周りを見渡し、全てを理解した。
撃たれたと。
左脇腹が無くなっていた。息を継ぐ度に、血が噴水の様に溢れ、windと制服を血で汚していく。そのwindも、真っ二つに折れ、制服は、脇腹と共に『消失』していた。
回らない首を回すと、剥き出しになった鉄骨が欠けている。跳弾狙撃。それが、雪華を死に至らしめるであろう業だった。
心臓の鼓動がやけに大きく、ゆっくりに聞こえる。目蓋が鉛を付けた様に重くなった。死に間際に雪華は、仰向けの体勢から何時も自分が眠る体勢―――右を下にした体勢―――に変える。裂けた腹の中で内臓が揺れ動く感触がしたが、気にしない。最期くらいは、好きな体勢で死にたかった。
脇腹からの出血は、少なくなっていた。それが、血液の凝固を意味するのか、只単に出る血液が無くなってしまったのか。最早、雪華に取ってはさしたる問題では無かった。
真っ二つに折れたwindを見て、雪華は、葵衣の事を思い出す。あの一件以来、雪華は葵衣と顔を合わせていなかった。
葵衣は泣くだろうか。怒るだろうか。それとも何も思わないだろうか。壊れた銃の方を嘆くだろうか。
そもそも。
雪華が死んで、悲しむ人間はどの位いるのだろうか。彩萌雪華と言う人間が、存在したと言う事を覚えてくれている人間は果たして居るのだろうか。只それだけが怖かった。
世界と言うのは、一つの時計だ。人一人一人が歯車になって居る。しかし、歯車が一つ欠けた程度で、時計は止まらない。代わりは幾らでも居る筈だ。
「まあ…良いや…」
どうせ自分は碌な人生を歩んでいない。最初から、一人で、こんな所で死ぬ事は、決まって居たのかも知れない。
意識を、二度と浮かび上がれない底なし沼に浸す。霞んだ視界は、この上なく美しかった。
「―――、―――」
何かが、聞こえた気がした。