第45話 グランドクガー
銃剣を収納する音が不自然に大きく響く。
雪華は、後ろ―――自分が作り上げた惨禍―――を確認する様に見た。
ついさっき迄生きていた筈のクガー達からは、何の生気も感じられない。
只、何かが『喪われた』空気が漂っていた。
「……用意は出来たの?」
葵衣を見て、雪華は言った。その言葉は、冷たく凍て付き、乾いている。
「まだ、よ…」
「そう。」
そう言うと、雪華は踵を返し、歩き始めた。
「……何処行くの?」
「…一希さんを迎えに。」
「…私も―――」
「―――準備しておいて。時間が無いから。」
「でも…」
「必要ない。」
葵衣を冷たく雪華は突き放す。雪華には、さっきの喧嘩をうやむやの内に済ます積もりは無かった。
闇の中に再び消えていく雪華に、葵衣は声を掛ける事が出来ない。
血に汚れた雪華の背には、強い拒絶が現れていた。
脚を引き摺る様に動かす。最初の鈍痛は、歩けば歩く程酷くなっていた。
背中に巻かれた治癒促進パッチも、傷口が開いた所為か、只の布切れと化しており、血液を吸って紅く染まったそれは、重りの様に感じられた。
更に、出血に因って、血圧と体温が低下、意識は半分朦朧とし、端から見れば、死に体である。
雪華と別れて数分後。雪華の物と思われる、連続した、しかし短い銃声は、一希の耳にも入っていた。その短さが、一希に不安を抱かせるには十分過ぎた。
一見所構わず爆発物を使用する様に見える葵衣だが、実を言うとそうでもない。火薬の扱いに長けた葵衣は、火薬の威力も恐ろしさも知っている。
その葵衣が、爆発物を使った。
そこまでしなければならない程の相手に対し、あれだけの銃声で事が済むのだろうか?
勿論、弾切れと言う事も考えられる。しかし、そんな安易な考えでは、不安を払拭出来そうになかった。
故に、一希は歩き続ける。痛みに苛まれようと、眼の前に死が迫って来ていても。
脚を動かし、引き摺る。
そんな一希を嘲笑うかの様に、『それ』は立ち塞がった。
「……グランドクガー、か。」
見た目的には大型の軍用犬なそれは、最も危険な『侵入者』の一匹。
大半の金属を噛み砕く事が可能な強靭な顎と鋭い牙を持ち合わせ、漆黒の体表は、生半可な刃物は勿論の事、拳銃弾でも、まともには通用しない。
仮令、一希の武器と身体が万全であったとしても、勝ち目は薄い。
「…喰われるのは趣味じゃないんだけどな…」
左手で脇腹を庇い、震える右手でアイギスを構え、身体の所々から血を流す一希は、グランドクガーに取って、食料にしか見えないだろう。
「……来いよ、犬が。」
アイギスの安全装置を外し、引き金に指を掛ける。
策も弾も無い。
待っているのは、死。
それでも―――
「ここで死ぬ訳にはいかないんだよ。」
―――約束した。
一希の人生を変え、都市に残る、少女と。
涙を流してまで、一希を止めようとした妹と。
孤独に怯え、迷い続ける少女と。
何のメリットも無いのに、手を貸した少女と。
生きて変えると、約束した。
だから、死ねない。
こんな所で、殺される訳にはいかないのだ。
血に染まった左手を脇腹から離し、構える。
停滞は、一瞬。
グランドクガーが、跳躍し、斜め上から一希に飛び掛かる。紙一重でそれを避け、一希は左手を腹部に叩き込んだ。生物特有の柔らかさとは無縁な、固い感触が伝わる。余りの固さに、拳が軋んだ。
着地したグランドクガーが、再び跳躍する前に、一希は、アイギスを撃つ。眼を狙った弾丸は、手振れの所為で逸れ、頭部に当たり、耳障りな音を立てた。しかし、皮膚と頭蓋に阻まれ、怯ませる事しか出来ない。やはり、拳銃で相手をするには、最悪の相手に違いなかった。
殴打は勿論の事、拳銃も通用しない。身体はボロボロで、長くは持たない。
まさに絶体絶命。万事休す。
「くそ…どうする…?」
悪態を吐いた一希に考える時間を与える事無く、グランドクガーは、動く。殴打される事を恐れているのか、跳躍せず、右、左と交互に跳びながら、迫っていた。
避けるか、迎え撃つかの二択の内、迎え撃つ事を選択する。一希は、ホルスターから、壊れたロンギヌスを取り出した。左手で、それを握り締め、グランドクガーを待つ。
一希を喰い千切らんと、グランドクガーは、鋭い犬歯が生え揃った口を開け、一希に正面から飛び掛かる。その口目掛けて、一希はロンギヌスを左手を半端口の中に入れる様に一閃した。
グランドクガーの歯は、鋭く、硬いが脆い。ダイヤモンドをイメージすれば、分かり易い。
ロンギヌスの銃身は、傷付きながらも、歯を次々と砕いて行く。しかし、口の中に有る一希の左手も無事では済まなかった。
四散する歯の欠片が、流れ弾の如く一希の左手を抉っていく。刃物で切り刻まれる様な痛みに、一希は息を漏らした。
それはグランドクガーも同じだった。予想外の反撃を受け、口から血を滴らせながら、後方へ飛び退いた。口に血が溜まっているのか、威嚇の唸り声に、嗽をしている様な水音が混じっている。
負傷した左手に少しだけ力が入る事を確認し、一希は、左手にアイギスを持ち変える。偶然にも、弾倉には、一発しか残っていなかった。
「…やっぱり、これしかないか…」
実を言うと、一希は、先程の攻撃で、とある事を実験していた。その結果は、言うまでもなく、眼の前のグランドクガーが示してくれている。
一希は、覚悟を決めた。
これが最初で、最後のチャンス。
どう行こうとも、結果に勝利はない。これからする事は、悪ければ死に、良くても相討ちと言う策なのだから。
グランドクガーがまた突撃する。今度は、小細工もなかった。只真っ直ぐに、一希の元に向かってくる。
口を開けて。
どんな生物だろうと、脳を破壊されれば死ぬ。
しかし、外部から脳を破壊する事は極めて困難だ。
ならば、内部から脳を破壊すれば良い。
「喰らい、やがれぇぇぇぇ!!」
グランドクガーの口に、一希はアイギスを握った左手を突っ込む。異物の侵入に、グランドクガーは口を閉じた。欠けた歯が、左手首の皮膚や血管を裂いていく。血の吹き出る感触が、生々しい感触となって、一希を蝕んだ。
一希は、それを無視して、引き金を引いた。
―――パンッ
グランドクガーが一瞬大きく揺れる。意志を失った口が、最早使い物にならないであろう一希の左手を解放した。
一希の左手が抜け出した拍子に、巨大な体躯は倒れ、二度と動く事はなかった。
一希もまた同じく、左手首から溢れ出る血液を見遣り、動かなくなったグランドクガーを見遣り、倒れて。
一希は、意識を、常世の闇に手放した。