第43話 写真
沈黙が下りた。
さっき迄、あれ程五月蝿くしていた虫の音も、まるで死に絶えてしまったかの様に、聞こえなくなっている。
「…今でも、考える時が有るんです。……あの雨の日、『戦え』と言われ、差し出された手。もう一回、同じ事を繰り返したのなら、私達は、どうしていたのだろうと。」
物事にifは無い。そんな事を考えるのは、己の選択に自身が持てない弱者のみ。
それでも、考えざるを得ないのだろう。
両親を失い師を失い、更には最愛の妹すらも失った。当時雪華が何を思ったか、一希には分からない。只、決して幸せでなかったのは確かだ。もしかすれば、辛いと言う気持ちすら、湧かなかったかも知れない。
辛い事が、苦しい事が、余りにも多く積み重なり、壊れてしまいそうになった時、人はそうなる様に作られているのだから。
「師匠がどんな気持ちで、私達の始末を引き受けたのかは、今でも分かりません。もしかしたら、苦渋の決断だったのかも知れないし、『仕事』として引き受けたのかも知れません。……公私混同を人一倍嫌う人でしたから。」
仮令弟子でさえ、『仕事』ならば、始末してしまいかねない師匠。それでも、尊敬していた師匠が、自分達を殺すのに、何の感情も抱かない筈は無いと思いたい二律背反。雪華の言葉には、希望と言う名の痛みが混じっていた。
一希は、何か雪華に言ってやりたいと思った。しかし、口から言葉は出て来ない。言った本人に取っては慰めや励ましでも、聞いた人間に取っては、酷く残酷に聞こえてしまう事は、良く有る事だ。一希は、雪華を崖の下に突き落とす様な真似はしたくない。
落ちたり、落としたりするのは、極めて容易だ。代わりに、そこから這い上がるのは、周りの人間の手を借りても、難しい。仮令、何か縋る物が有ったとしても。
「―――あの、一希さん。」
物思いに耽る事で、黙っている事を正当化しようとする一希に、雪華は、言った。
「お願いが有るんです。」
「…何ですか?」
「…私は、ここまで、自分の心中を誰かに話した事は有りませんでした。あそこに居た時は勿論、舞無さんにも、葵衣にも。」
全くお願いとは脈絡の無い話。それでも一希は真剣に耳を傾ける。それだけしか、今の一希に出来る事は無かった。
「だからこそ、貴方にお願いしたいんです。―――私の事を、これからは、呼び捨てにして下さい。」
「……分かっ、た。」
雪華がどんな思惑で、一希にこんな頼み事をしているかは分からない。もしかすれば、雪華に取って、只の現実逃避に過ぎないのかも知れない。
それでも良い、と一希は思う。
今まで、散々苦しめられて来たのだ。
だったら、少し位は、願いが通っても良いに違いない。
仮令、その願いが、一時的な逃避だったとしても。
「……一希さんは、何処か、師匠に似てる気がするんんです。」
少し黙った後、雪華が口を開いた。
「俺に?」
「はい。何処がどう似てるのかは、口で上手く言えないですけど…」
「そうか…」
雪華は、自分の意思で師匠を殺したと言った。しかし、それは、師を『越えた』だけで、『離れた』訳ではない。
知らず知らずの内に、雪華は、一希と師匠を重ねているのかも知れなかった。
「…写真、見ますか?」
「写真?」
一希の問いに、雪華は頷き、ペンダントを手の平に乗せた。丸い、少し大きめの銀のペンダントは、硝煙や煤、血飛沫を潜り抜けても、相変わらずの光沢を放っている。
「小さい頃、私と妹と師匠で、一枚だけ写真を撮ったんです。貴重な一枚ですよ。」
一希の答えを待たず、雪華はペンダントの錠を外し、開く。一希の方に向けられたそれには、三人の人間が写っていた。
「右から、師匠、妹、私です。」
写真の中の雪華は、未だ幼い雰囲気が残っていた。髪の色と長さは相変わらずだが、腰に手を当てて、武器を見えない様にしているのは、少しでも情報の漏洩を防ぐ為だろう。見れば、三人が三人とも、同じ様に、然り気無く武器を隠していた。
雪華の隣に写る、短めの髪の幼い少女―――これが妹なのだろう―――は、雪華と師匠、つまり、左右から肩を組まれていて、少し窮屈そうにしながらも、笑っていた。
心無しか楽しんでいた一希だが、その眼は、一番右側に立っている人物を見て、点になった。
「……これ、男か?」
「男ですよ?」
見た目は、今の一希達と同じ位だが、中性的な顔立ちの所為か、性別が判別出来ない。雪華程では無いが、男性にしては、髪は長めだった。少なくとも、外見的には、一希と似ていない。
「…私達姉妹は、生まれつき、遺伝子の突然変異の所為で、髪と眼の色が、普通とは違ってて。誰も拾ってくれなかった所を、偶々師匠が拾ってくれたんです。……もしかしたら、最初から決まっていたのかも知れませんね。」
「……そうかも、な。」
雪華の言葉に同意の意を示しながらも、一希は咄嗟に浮かび上がった考えに、恐怖を抱いていた。
―――なら、生きている意味なんて無いんじゃないか?
もし、ありとあらゆる様々な出来事が、予め定められていたとしたら。
誰かが決めた事に、自然と従ってしまっているのなら。
そこに生きる意味は、存在しない。
巡り始めた思考を、一希は軽く頭を振って掻き消す。幸いにも、雪華は写真を眺めていて、一希の様子には気が付かなかった様だった。
パチッ、と音を立て、雪華は、ペンダントの蓋を閉じ、狙撃銃を背負い直す。
「葵衣の所に戻りましょうか。…多分心配していると思いますし。」
「そうだな。戻ろうか。」
そう言って、二人が丘を下りた時だった。
爆発音と、断続的な銃声が、夜空に響き渡ったのは。
更に悪い事に、音が聞こえた方角は、一希や雪華が、進もうとしていた、恐らくは葵衣が居るであろう方向だった。
「しまった…!!」
一希は、一瞬で何が起きたかを悟った。
この研究所は、隔離壁に囲まれた都市の中ではない。当然、周囲の森には『侵入者』が生息している。
そして、今まで遠慮無しに轟かせてきた爆発音に銃声。
それは、『侵入者』達を集めるのには十分過ぎる物なのだ。
「くそっ…」
駆け出そうとした一希を激痛が襲う。遂に、今まで誤魔化して来た痛みが、押さえ切れなくなったのだ。
「一希さん!?」
一緒に走り出そうとした雪華が、膝を突いた一希に寄る。
「……先に行ってて下さい。…後から…追いますから。」
「そんな…でも…」
「今は、俺よりも冷泉を優先するべきでしょう!」
「っ…!」
一希の強い押し切りに、雪華は動揺する。
しかし、流石は元兵士。素早く今の状況を天秤に掛けた。
「……分かりました。なら、先に行ってます。」
雪華は立ち上がり、一希に背を向ける。今にも走り出しそうな背中に、一希は声を掛けた。
「気を付けろよ―――雪華。」
「っ!!」
雪華が一瞬震えた。そのまま数秒間硬直する。
しかし―――
「…分かりました。…先に行きますね。」
そう言って、僅かに見えた横顔は、何処か嬉しそうに見えた。