第42話 血濡れた過去
一希は兵士の頭部が弾け飛ぶであろう事を覚悟し、思わず眼を背けた。仮令、人の生死を何回も見ている一希であっても、そうそう人が死ぬ光景を見たい物ではない。
しかし、眼を背けた一希は、何時まで経っても血肉が飛び散る音はしない事に気付く。恐る恐る視線を元に戻すと、殺されると思ったのか、震えながら頭を手で押さえた兵士がいた。兵士の頭から僅か数センチしか離れていない地面からは、か細い煙が上がっている。
事態を把握する事が出来ず、呆然とする一希の視界の端から、誰かが雪華に駆け寄る。紛れもなく、冷泉葵衣その人だった。
「……葵衣」
何故、と言う様に雪華は葵衣を見る。否、見ると言う物では無い。雪華は親の仇でも見る様な眼で葵衣を睨みつけていた。
「…どうして―――」
「それは、私の台詞よ!!どうして、こんな事を!!」
静かに口火を切った雪華の言葉を遮って、葵衣は叫び、乱暴に雪華の肩を掴んで揺らした。無抵抗の雪華は、為すがまま。しかし、力の籠っていて、何処か光を失った薄蒼色の双眸は葵衣に向けられていた。
葵衣が作ったwindで雪華が築いた死屍累々の中央。異様な環境の中で、それを作り出した二人は、出逢って初めての口論を始める。
「……私が、あなたにwindを渡した時、言った事を覚えてる…?」
「覚えてる。今でも一文字一句違わずに諳んじる事が出来るわ。『出来れば、仕事であったとしても、これを使って人を殺めないで欲しい。』確かそう言った筈よ。違う?」
雪華の声は、別人に思えてしまう程、無機質で。心を持つ事が無い機械人形の様だった。否、本当に心を置き忘れているのかも知れない。殆ど雪華は、葵衣の言葉を諳んじただけなのだから。
機械的な雪華に微かに葵衣は動揺したのか、葵衣は雪華を掴んで居た手を離してしまう。晴れて自由となった雪華は葵衣に言った。
「葵衣こそ、何故割り込んだの?」
「…そ、それは…」
動揺していた所に予期せぬ切り返しを受け、葵衣はまともに受け答えが出来ない。何故なら、葵衣が割り込んだ理由は、既に雪華が答えてしまったのだから。
「仕事で人を殺して欲しくないのは理解してる。でも、これは、PGCとしての仕事じゃない。既に一希さんは古手鞠影人を殺した。そして、ここは、私達が銃を向け合った時点で戦場になった。」
「…戦…場…」
聞き慣れない言語を反復する様に、葵衣は呟く。呆然とした表情は、雪華の言葉を『言葉』としてではなく、『音』としてしか受け止められなかった事を語っていた。
「……でも、仮に戦場だったとしても、ここまでする必要は、無い筈!!……こんな、虐殺紛いの事…」
それはその通りだと、一希も思う。幾ら、銃口を向けられたとは言え、雪華は、得物の火力に任せ、相手を磨り潰した。過剰防衛すら通り過ぎてしまう様な所業。雪華程の射撃の才が有れば、殺さずとも無力化出来た筈だった。
雪華は、葵衣の言葉に溜め息を吐く。
「…戦場だとしても、ここまでやる必要は無い、か。葵衣、なら聞くけれど、貴方に戦場が分かるの?」
「……」
葵衣は勿論、一希も言い返す事は出来ない。
幾度となく、一希は犯罪者と銃を交えた事は有る。だがそれは、法に、何かの暗黙の了解が得られた『仕事』だった。
しかし、雪華が語る『戦場』と言う言葉は、何処か『仕事』との間に、決して越えられない境界が引かれていた。だから、一希は答える事が出来ない。『戦場』を語る事は許されない。
沈黙を肯定と取った雪華は、口を開いた。
「……戦場には、何もない。人間が生きていく上で必要な筈の秩序も規則も。…知ってる?戦場では、強い人間が死んで、弱い人間が生き残る事なんてよく有る事よ。死んだ者と生き残った者。彼らの違いは一つしかなかった。……運が良かったか、悪かったか。」
雪華は、淡々と語る。思えば、一希は雪華の生い立ちを全く知らない。何処で生まれ、育ち、ここに来たのか。聞く事自体忘れていたのか、単に興味が無かったのかも分からない。一希に取って、雪華の過去は、白紙の地図だった。
「だから、生き残るには、運が命運を支配してしまう前に、殺るしかない。」
雪華の言う事は、恐らく正しい。確かに、命が掛っている状態で躊躇するのは、死にたがりか阿呆のやる事だ。しかし、雪華の言葉は正論過ぎる。一希には、それが雪華を縛る『鎖』の様に見えた。
そして、幾ら正論でも、素直に納得出来ないのが人間の性だった。
「…彼らは、銃を持つ意味なんて何も考えてなかった。あんな碌でもない所にいた人間でも、銃を持つ意味位は―――」
パチンッ、と言う音が、一希の耳朶を打つ。その音が、葵衣が雪華の頬を張った音だと気付くのには、数秒も要さなかった。
「―――痛ッ」
「……質問に答えなさいよ。」
触れただけで、切り刻まれてしまいそうな程、葵衣の声は冷えていた。一希の方からは、表情を窺う事は出来ない。しかし、僅かに震える背中から、表情を読み取る事は容易かった。
「…どうして…どうしてここまでする必要が有ったのよ!!戦場だの何だの、御託は沢山だわ!!」
葵衣は雪華の胸倉を掴み上げ、上下に揺らした。肩を揺さぶった時とは勢いが明らかに異なる。間違いなく、葵衣は、『怒って』いた。雪華は、同じく為すがままに揺さぶられる。今度は、葵衣すら見ていなかった。
「貴方の過去なんてどうでも良い!!」
時間が止まった。
時間が止まると言う事は絶対に有り得ない。それでも、一希の体感時間は、一瞬だけ停止した。
次の瞬間、葵衣が突き飛ばされる。突然の不意打ちに反応出来なかった尻餅を付かされた葵衣は、雪華を見上げた。そこで、葵衣の時間は止まる。
「……結局、私に味方なんて……居ない…か。」
静かに呟くと、まるで存在を忘れてしまったかの様に、一希や葵衣に眼を向ける事無く、雪華は歩き出した。その姿は、一目見ても何時もと何ら変わりは無い。
二人が声を掛ける時間も与えず、雪華は、闇の中に溶けていった。
「……もしかして、私…言い過ぎた…?」
葵衣が呆然とした表情で呟いた。地面に座り込む姿は、何処か母親に見捨てられてしまった子供の様で。
一希は、何も言えなくなってしまった。
葵衣が言った、『過去はどうでも良い』と言う事は、つまり、雪華が生きてきた道全てを否定する事になる。どう考えても、口論に関しては、葵衣が悪い事には間違いない。
しかし、恐らく雪華が傷付いたのは、その事では無い。葵衣の言葉は、雪華自身ではなく、雪華のトラウマを抉ったのだ。
「……風見…」
眼を向けると、葵衣が力無い眼で、一希を見ていた。迷える子羊は、もう一匹いた。
「冷泉、頼みがある。」
一希は、葵衣の縋る様な視線を感じ取っていた。それでも、一希は、敢えて気付かない振りをする。まずは、崖に近い方にいる人間を救う必要が有った。
「脱出の準備は、出来てるか?」
「……後少しよ。でも…」
葵衣が雪華が立ち去った方に眼を向ける。
「雪華さんは、俺に任せてくれ。…必ず、連れて戻って来る。」
「……貴方なんかに任せられるか、って言いたいけど…お願いするわ。雪華を…お願い。」
葵衣の言葉に、一希は頷く。
そして、痛む身体に鞭打ち、雪華が去った方向に走り出した。
数分間、走った末。
炎も、街灯の明るさも届かない様な暗闇の中に、雪華が座っているのを、一希は見つける。
研究所の外れ、敷地の隅の隅。そこは、敷地の半分程が一望出来る様な、中途半端な高さの丘の頂上だった。頭上には、満天の星空が広がっている。
「雪華さん。」
周囲の雑音が虫の音だけだった所為だろうか、余り大きな声で呼ばなかったにも関わらず、雪華は、ゆっくりと振り向いた。顔に張り付いている微笑も、今となっては、仮面にしか見えない。
やっとの思いで登り切ると、一希は雪華の横に腰を下ろした。
「……すみません、みっとも無い所をお見せしてしまって。」
「いや……」
会話は途切れた。一希自身、どう話を切り出せば良いか分からない。もし、下手に手を打ってしまえば、崖に突き落としてしまいかねなかった。
しかし、それは杞憂に過ぎなかった。
「……一希さんには、私の生い立ちは、話していませんでしたっけ。」
驚いた事に、話を切り出したのは雪華だった。一希は思わず雪華を見る。雪華の眼は、丘の麓、闇の中に向けられていた。
「…いや。聞いた事がない。俺だって訳の分からない生い立ちだし、無理に聞く物じゃないしな。」
「そう……ですか…」
雪華は眼を閉じ、開けた。瞬きにしては長過ぎ、思考を巡らせるには短過ぎる。それでも、気持ちを落ち着かせるには、充分過ぎる長さだった。
「……数年前。五つの都市の代表が集まり、数日間に渡って、会議が催されました。その会議で、締結された条約を、知っていますか?」
「……『アルカティア条約』、だったか?俺は、その頃を知らないが。」
「正解です。アルカティア条約。内容は、十八歳以下の少年兵、少女兵の軍としての運用を禁止すると言う物。この条約で、地域によっては、約四割の兵士が消えました。」
「そんなにか…」
雪華の言葉が本当なら、半数の兵士が、十八歳以下の人間だったと言う事になる。一希に取って、それは、驚き以外の何物でもなかった。
「実は、条約締結の際、最後まで渋った都市が一つだけ有りました。その都市は、内乱が終結したばかりで、少年、少女兵の廃止は、戦力の放棄と同意義だったからです。」
「第五都市か。」
第一から第五都市。番号に特別な意味は無い。只、成立した順番が数字になっていたのだ。
「条約が締結された日、第五都市で、非公式の戦争が有りました。どうしても、都市に組み込まれる事を拒んだ街が有ったからです。」
雪華は、そっとペンダントの鎖に触れた。金属特有の冷たさが、今は心地よかった。
「一日で終結したとは思えない程、戦闘は激化して。得た物も多かったけれども、失った物の方が大きかった。」
「……」
一希は、黙って、闇に眼を向けている雪華の話を聞いていた。
「その戦場に、とある少女兵の双子の姉妹が居ました。二人は、早々に両親を亡くし、スラム街で、生きるか死ぬかのその日暮らしをしていて。ある日、姉妹は、後に師と仰ぐ人に拾われました。妹は狙撃手として。姉は、護衛としての才を見出だされ、持たされた銃で、命令されるがままに、戦っていました。」
懐かしむ様に、雪華は語る。恐らく、当時の姉妹は幸せだったのだろう。仮令、その幸せが数多の屍の上に成り立っていたとしても。
「姉妹は、自分達の為とは言え、人を殺す事には一種の抵抗を持っていました。…でも、姉妹は、それを勝手に正当化したんです。姉は、人に持たされた銃だと責任転嫁。妹は、大好きな姉と一緒に居る為だと考えて。……互いに独自の解釈で自らを納得させ、あの、最後の戦場にも立っていました。」
雪華は、一旦言葉を切り、溜め息を吐いた。その溜め息が、姉妹に向けられた物なのか、雪華自身に向けた物なのか、一希に知る術はない。
「……師の手解きが良かったのか、只単に、運が良かったのか。姉妹は何度も戦場に立たされ、敵を殺しては、生き残り。何時しか、姉妹は、望みもしないのに、『死神』と呼ばれ、敵は勿論、味方からも忌み嫌われる様になっていました。……恐らく、その頃から、破滅は約束されていたのでしょう。」
仮に優秀だとしても、出る杭は、打たれてしまう。妬みや羨み。そんな、下らない感情の所為で。
「先にも言った通り、戦闘は、激しくて。妹を護って姉は、救援要請を受け、前線へと向かいました。……けれども、前線で待っていたのは、敵ではなくて……」
何時の間にか、雪華の肩が、一目で分かる程に震えていた。その震えは、決して、夜の寒さの所為では無い。
「……自分に銃を向ける、尊敬していた筈の師でした。…そう、救援要請なんて、真っ赤な嘘。姉妹は謀られたんです。」
震えを通り越し、雪華の言葉には、所々、小さな嗚咽が混じっていた。
「…妹が危ない事を悟った姉は、躊躇いませんでした。生まれて初めて、自分の意思で、人を……師を殺めたんです。…でも、もう遅かった…」
「師を殺し、手傷を負い、血に塗れながらも必死に妹の元へと向かう姉が無線で聞いたのは……ひたすら姉の名を連呼する最愛の妹の声…でした。」
機械の様に、淡々と雪華は言った。そうでもしなければ、壊れてしまう、と言わんばかりに。
「…妹を失った事で、身の危険を感じた姉は、亡命をせざるを得なくなりました。酷い人間不信に陥り、その戦い以来、前線にも立てなくなった姉が手に取ったのは、狙撃銃で。…姉は、銃を手離せなかった。争いとは殆ど無縁な第四都市に逃げた後も。」
背中に背負われた大型狙撃銃。それは、戦場に囚われてしまった哀れな少女を繋ぐ鎖でもあり、光でもあった。
「……自分が銃から解放される事は無い。そう悟った姉は、銃を持つ事の意味を考える様になりました。もう、誰かに持たされたからと言う理由では、許せなくなったから……しかし、何年経っても、自分が納得出来る理由を、姉は得る事が出来なかった。」
雪華は、一希の方を向いた。薄蒼色の相貌に、一瞬だけ、哀しみが過る。
「……これが姉……彩萌雪華と言う名の…狙撃手の生い立ちです。」
見られてる方も多いと思いますが、活動報告にお知らせなど書いて居ます。