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黒いケーキとカブのランタン

作者: にわこな
掲載日:2025/11/19

 夏の間はずっと明るかった空も、夜があっという間に訪れるようになりました。赤や黄色に美しく染め上げられた樹々の中を、少し丈の長い上着を羽織った赤毛の少年が歌いながら歩いています。

“もりのなかを ゆくのなら みっつ もってゆきなさい

 ひとつめ せんなきものたちへ

 ふたつめ わるいものたちへ

 みっつめ さいごはよきものへ

もっていって わたしなさい“

 自分で節を付けたので、ずいぶんでたらめな調子ではありましたが、灰色がかった緑の瞳は楽しそうに輝いています。薄くそばかすの浮いた頬は、この時期には珍しいよく晴れた空から吹く冷たい風で少し赤くなっていました。手には大事そうに小ぶりのバスケットを抱えています。バスケットの中には、足の悪いおばあさんに届けるためにかあさんが焼き上げた黒いケーキが入っていました。


「いいかい、フィン。けっして森の中に入ってはいけないよ。すっかり暗くなるのが早くなったからね」

 石床の台所でオーブンからケーキを取り出しながら、かあさんは言いました。ケーキは艶やかに焼きあがり、スパイスの香りが温かく台所に広がります。

「うん、わかってるよ。かあさん」

 ナイフが入れられ同じ大きさに切り分けられていくケーキから目を離せないまま、フィンは頷きました。ケーキには、濃い目に入れた紅茶とちょっぴりのウィスキーで戻したドライフルーツがたっぷり入っています。紅茶の色に染まったケーキの表面に顔を出したドライフルーツは焦げて少し苦いのですが、焼き立てにバターを塗って食べるとお茶にとても合うのです。ましてや明日は収穫祭です。一年中食べるこのケーキですが、今日は特別な工夫がされているのでした。

「お前は気になるものがあると、夢中になってしまうからね。おばあちゃんにケーキを届けたら、寄り道をせずに帰ってくるんだよ。収穫祭の前の夜に、子供は外に出てはいけないのだから」

 綺麗なハンカチに包んだケーキをバスケットに入れて、かあさんがフィンに言い聞かせます。

「大丈夫。ぼく、すぐに帰ってくるよ!」

 にいさんのお下がりを着こんだフィンは、バスケットを受け取って元気に答えました。まだ大きな上着は、ぶかぶかです。袖口を折ってやりながら、かあさんはやっと笑って言いました。

「おばあちゃんと一緒にケーキを食べるくらいは構わないよ。ちゃんとお前の分も入れてあるんだから。黒いケーキの占いが気になるんだろう?」

 バスケットの蓋を開けると、ハンカチに包まれたケーキが行儀よく並んで入っています。

「去年は、小さなにいさんのケーキにコインが入っていたよ。今年はなにが入っているの?」

「さあ、なんだろうねえ」

 かあさんは笑いました。収穫祭で食べるこのケーキには、さまざまなものが生地にこっそり入れられており、出てきたもので新しく始まる一年の占いをするのでした。

「かあさん、ケーキは三切れ入ってるよ。ぼくが二つ食べていいの?」

「三切れなのは、子供が一人で森の中を歩く時のおまじないだよ」

 かあさんの目が台所の窓から見える森に向けられました。ちらり、と不安げな影がフィンと同じ色の瞳をよぎります。この街には、収穫祭の前の夜に死者が戻ってくるという言い伝えがありました。この夜に森に入った子供は、姿を消してしまうといわれていました。

「ぼくのケーキは一切れだけ?」

「お前は食いしん坊だねえ」

 かあさんは、テーブルの上の残りのケーキを指して言いました。

「ちゃんと、夕食の後にみんなで食べる分も残してあるよ」

 フィンは目を輝かせました。とうさんと年の離れたにいさんたちは、収穫祭の焚火をするやぐらを立てに出かけています。今夜から村の司祭や当番の大人たちが収穫祭まで夜通し火を焚くのです。けれどフィンはまだ子供なので、大きくて綺麗だという焚火をまだ見たことはありませんでした。

「今日の夜、焚火を見に行っちゃだめ? にいさんたちがとても綺麗だって自慢するんだ」

「今年はまだ、ね。でもすぐに大きくなって見られるよ。さあ、気をつけていっておいで」

 かあさんが柔らかくフィンを抱きしめました。フィンはバスケットを抱えていたので、代わりに頬をかあさんのエプロンにぎゅっと押し付けました。


 森と街の境の道を、フィンは進んでいきます。フィンの家から森に沿った東の道を行けば、おばあさんの家は遠くありません。けれど森の中を抜ければ、ずいぶん近くなるのでした。

「とうさんと一緒の時は森に入れるのに」

 陽が落ちるのが早くなったとはいえ、まだお茶の時間にも間があります。

「今日は天気も良いしさ」

 この時期はだんだんと冷たい雨が多くなるのですが、今日は雲一つない青空が広がり、秋と冬の間の澄んだ陽の光に秋色の森が輝いていました。

 足を悪くしたおばあさんにケーキだけでなく、まだ森に残っている秋の花を届けたら、とても喜んでくれるに違いないとフィンは思いました。森に目を取られながら歩くフィンの前に、分かれ道がやってきます。

 左に曲がる緩やかな広い道を行くと、おばあさんの家までもう少し歩かなければいけません。右に曲がる狭い道を行くと、かあさんの言いつけは破ってしまいますが、ケーキはこれ以上冷めずに届けられそうです。

 森の樹々が風に揺れています。葉の擦れ合う音が「おいで」と聞えたような気がして、フィンは分かれ道を右に曲がりました。


「……どうしよう」

 陽が落ちてから、いったいどれくらい経っているのでしょうか。月の出ない夜は森が真っ暗になることを、フィンはいまさらになって思い出しました。

 明るい森の中で花を探し、積もった落ち葉を両手ですくって空へ舞い上がらせ、切株に生えた茸に手を伸ばしかけ、けれど、おばあさんの家への道を真っ直ぐに進んでいたはずでした。ふと気づいた時には、辺りは真っ暗になっていたのです。

「ケーキ、冷めちゃった」

 フィンの体もすっかり冷え切っていました。上着の前を掻き合わせても、指先は暖かくなりません。

 それに、気のせいでしょうか。先ほどから周りに何かいるような気がするのです。

「──……?」

 風の音も鳥の声もしない森の中で、かさかさとこそこそと軽い足音を立てるものがフィンの後をついてきているような気がするのです。

「誰か……いるの?」

 その気配は一つではありませんでした。ですが、何度も振り返っても辺りを見回しても、黒い木の影や藪の塊がかろうじて薄ぼんやりと浮かぶばかりです。

 ここにいてはいけないことだけが、なぜかはっきりとフィンに理解できました。

「……森から出なきゃ」

 いますぐ走り出したいのですが、周りは真っ暗で森から出る方角など見当もつきません。そして、足を動かした途端に何かが起きそうで、フィンは一歩を踏み出せないでいました。

──……い。おぉい。

 空耳が聞こえてきそうな張り詰めた静寂の中で、フィンの耳にはどんどん大きくなる自分の心臓の音だけが響いていました。

──おい、そこの小僧。

「っ‼︎」

 突然、背後からはっきりと聞こえた低い声に、フィンは跳び上がりました。歳を取りすぎたような濁った声でした。

 同時に、炎の揺れる明かりがフィンの背中を照らします。この真っ暗な森の中で人に会えたのです。泣きそうな、もうほとんど泣いていたフィンは、急いで振り返りました。

「⁉︎」

 暗闇に、不思議な色に輝く目玉と裂けた口を持つ、のっぺりとした顔が浮かんでいました。裂けた口が炎を吹き出しながら、にやりと笑います。

「一体こんなところで何をしている。収穫祭の前の晩は外に出てはいけないことを知らない訳ではなかろう?」

「──っっ‼︎」

 不気味な顔がしゃべった、と思った瞬間、フィンは声にならない悲鳴をあげて暗闇の奥へと走り出しました。


「親の言いつけは破る、無暗に駆け出す……。少し反省したか?」

「ごめんなさい……」

 真っ黒な森を照らす灯りを下げた男の後を、フィンは小さくなりながら付いて歩いていました。

 先ほどフィンを飛び上がらせたのは、男の手に握られた、カブをくり抜いたランタンなのでした。収穫祭が近づくと、よく家の軒先に飾られているランタンです。

 ランタンの顔に驚いて駆け出したフィンが、森の暗闇の奥に入り込む寸前、伸びてきた男の手が上着の裾を掴んで引きずり戻したのでした。その時、周囲の闇の中で残念そうにあがった小さな舌打ちは、フィンの耳には届きませんでした。

 かろうじて投げ出さなかったバスケットを抱えて、フィンは男の後ろ姿を見上げます。背の高い男の頭は闇にまぎれて、よく見えません。

「おばあちゃんの家に早く行きたくて……。花も摘んでいったら喜んでくれると思って……」

「おばあさんは、きみが無事に来てくれた方が嬉しいのではないか?」

 細い体にくたびれた黒いコートとズボンをまとった男の静かな声に、フィンはますます縮こまりました。止まっていた涙が一つ、頬を転げていきます。

 男が暗闇の中でフィンを振り返りました。ふっと気配が和らぎます。フィンは顔を上げました。とうさんも何かに夢中になりすぎて失敗したフィンを叱った後、そんな風に笑うのです。

「森の向こう側まで連れていこう。はぐれるな」

「……うん。ありがとう……」

 フィンは素直に頷きました。

 森の中を滑るように歩く男の後を追いかけるのは、フィンには少し大変です。足元をすくおうとする木の根や、盛り上がってきた地面のこぶを避けながら、できる限りの早足で追いかけます。どうしても森に足を取られそうになる時は、ちょうどよく男が振り向いて、ランタンでフィンの足元を照らしてくれました。にやりと笑うランタンが暗い森の道を照らします。

──ほうれ、これでよし。

 カブの灯りに照らされると、格段に地面は歩きやすくなります。けれども、なんだか腑に落ちません。どうしても声が二つする気がするのです。気になって気になって、仕方がなくなってきました。

「──おじさん。いま、しゃべった?」

 フィンはバスケットを抱え直して見えない男の顔を見上げ、遠慮がちに問いかけました。

「おじ……っ!」

 男が持つカブのランタンが、ぐわんと揺れました。

──ふぉっふぉぉう。

「! ねえ、いまは? おじさん、笑った?」

 ランタンが火の粉をまき散らしながら、さらに右に左にと揺れます。ランタンとは別の拍子で、黒いコートの肩が震えています。

──おじさんは……。

「……おじさん、ではないがっ⁉︎」

 男が振り向きかけた、その時。音のなかった森の暗闇が歌い出しました。

『マイゴ、マイゴ。コヨイ ノ モリ 二 ハイッタ、マイゴ』

 落ち葉が、それも土になりかけているような落ち葉が、擦れ合うような歌声が辺り一体に響きました。

「なにっ⁉︎」

──来たぞ、ジャック。

「来たな」

 足が止まったフィンの上着の襟を、男の長い指が掴みました。

「いいか、傍を離れるなよ」

 カブのランタンと男の体の隙間に挟まれて、フィンは震えながら頷きました。周りの森の黒い影がうねり、小さな声が集まって風のように響きます。

『ヨル ノ モリ ニ コドモ ハ イナイ。コドモ

デ ナイモノ コチラ ニ ヨコセ』

「もう少しで向こう側だったんだが……」

──あ奴らは、小僧。お主を逃がす気はなさそうぞ。

 カブのランタンが、くるりとフィンを振り返り、光る目と口でにやりと笑いました。

「‼︎ おじさん、カブがしゃべった!」

 途端に森の不気味さも忘れて、フィンは叫びました。

「しゃべった! しゃべってる‼︎ ねえ、おじさん、カブがしゃべってるよ!」

「……静かにしろ。いまはそれどころではない。が、俺はおじさんではなく、ジャックだ」

 ランタンに照らされた男が、フィンの大声にしかめました。真っ白い髪に縁取られたジャックの顔が、暗闇に浮かび上がります。とうさんより若く、大きなにいさんより年上のようでしたが、こけた頬とくぼんだ目のせいでひどく年を重ねたように見えました。

「ジャックは、おじいさん……だった?」

「……少し黙っていろ……」

──ふぉっ。なかなか肝が据わった小僧ではないか。

 ランタンがぐるぐると揺れて笑いました。

──年寄りではなかったが、時は長く経ち過ぎたからの。ちなみに儂が話せるのは、カブのランタンの顔のお陰でな──」

「話はそこまでにしておけ」

 フィンとジャックとランタンを囲む森の木は、いまは全てが黒い人影に見えました。

 影は次々と手を伸ばして、フィンを捕まえようとします。

 伸びてくる黒い手をジャックがランタンではたき落とすと、手は暗闇に溶けます。けれど、すぐにまた次の手が伸びてくるのでした。

──きりがないの。で、どうする? ジャック。というても、お前にはどうにもできぬが。

 ランタンの炎がジャックの色の薄い瞳に映って、黄に緑に紫にと輝きます。

「こいつさえ森の外に出せればいい。走るぞ」

 言うが早いかジャックはフィンの体を担ぎ上げ、走り出しました。

「うわっ!」

 フィンは、片手でバスケットを握りしめ、片手でジャックの首根っこにしがみつきます。ジャックがあまりにも早く空を切って走るので目を開くのもやっとですが、風の音はしません。フィンの赤い髪の毛がちりりと逆立ちました。

 飛ぶように走るジャックの前を、森の樹々が幹をねじって塞ぎました。どこにそんな力があるのかわからない細く痩せた腕でフィンを抱えたジャックは、踊るようにかすかな隙間を縫って走ります。けれども、声は遠くなりません。

『ヨコセ、ヨコセ。ヒト デ ナイカラ コチラ ヘ ヨコセ』

 自分が走っている訳ではないのに、フィンはだんだんと息をするのが苦しくなってきました。恐ろしいこの時間を終わらせることができるなら、もう、どうなってもいいような気持ちにさえなりました。

「──ねえ、おじさん」

「ジャックさん、だ」

「ぼくのことは……もう置いていって。おじさんだけ逃げて」

「──……っ」

──喰われるだけでは、すまぬぞ。

 ジャックは何も言いませんでした。ランタンは一言だけ呟きました。

「森に入ったのは……かあさんの言いつけを破ったのは、ぼくだから」

 固くバスケットを握った手の感覚がよくわからなくなっていました。おばあさんに会えないなら、もうバスケットを握りしめる意味はないのかもしれません。

──小僧が泣きべそをかいておるが。

「──馬鹿を言うな」

「ジャックさん、なんで……」

「誰かが待っているなら、帰れ」

 フィンを抱えるジャックの手に一層の力が込められました。樹が振りはらう枝、伸ばされてきた黒い手を、寸前のところで避けます。

──こ奴はなあ、小僧。どこにも帰れぬのさ。

火の粉を吹いてジャックの走る先を照らしながら、ランタンが口の端を持ち上げました。

「……帰れない?」

──そう、昔この地で飢饉があったろう。その時、こ奴は他人を騙し、盗みを働いた。家族に食い物を持って帰ろうとしてな。だが、飢饉はいつまで経ってもおさまらなんだ。こ奴は、とうとう──おっと!」

 背後からフィンの赤毛を掴もうとした黒い手を、ジャックがランタンで払いのけました。

「ずいぶん余裕があるようだ。手を貸していただけると大変助かるのだが」

──儂にもそんな力はないでのう。ついでに手もない。まあ、生やすぐらいなら任せておけ。

 ランタンは、けたけたと笑いました。

 フィンはランタンの話が気になって、投げやりだった気持ちを少し忘れました。

「……悪いことをしたから家に帰れないの?」

──生きている間にした悪いことと良いことが、ぴったり同じ重さになってしまったのよ。こ奴は光の中にも地の底にも、どちらにも行けぬのさ。

「…………」

 フィンには、ランタンの話のすべてはわかりませんでした。ただ、森の中で迷子になって感じた寂しく心細い気持ちを、ジャックはずっと抱えていることだけがわかりました。

「それに、お前のためだけでもない。追いかけてきている連中に、これ以上……」

 ジャックが言葉に詰まります。なんと言うべきなのか考えているようでした。

「──これ以上、彷徨ってほしくない。俺が言うのもおかしいが」

──そういう訳じゃて、小僧。気にせず、ジャックの世話になれ。とはいえ、そろそろ追いつかれそうだがのう。

「少しでいいから連中の気を逸らせればいいんだが」

 邪魔をする森の樹々を右に左にと避けるせいで、背後の気配はもうすぐそこまで近づいていました。黒い手が鼻先をかすめましたが、フィンは悲鳴をぐっとこらえます。かあさんがフィンの帰りを待っています。とうさんもにいさんたちも、おばあさんもかならず待っているでしょう。フィンは家に帰らなければいけませんでした。

 その時ふとフィンは、かあさんの言葉を思い出しました。

「──『子供が一人で森の中を歩く時のおまじない』……」

「“もりのなかを ゆくのなら”という、あれか?」

 ジャックの痩せた顔を、フィンは目を真ん丸にして見つめました。

「ぼく、持ってる‼︎」

 握りしめすぎて固くなった指でなんとかバスケットの蓋を開けたフィンは、母さんの焼いた黒いケーキを一切れ、背後に放り投げました。

「これ、あげる‼︎」

 走るジャックの肩越しに、暗闇の中で何本もの黒い手が一切れのケーキを掴んだのが見えました。

『タベモノ、タベモノ ダ』

『ホントウ ノ タベモノ ダ』

 暗闇に消えたケーキを、影が貪る気配がします。

『……たべもの、くれる ひと が いた』

 黒い手の何本かがぱちんと光って消えたのを、ジャックとランタンだけが知りました。ランタンが、ぐるんと揺れて叫びました。

──ふぉっふおう! これは負けておられぬわ。籠の中身がケーキであれば、儂も同じ焼かれ仲間として言葉が通じるわい!

「──焼かれ……仲間?」

「……ランタンさん。焼かれ仲間って、何?」

──細かいことは気にするな。ほうれ、炎で焼かれた同胞はらからよ!

 立ち上がれ、とランタンは言いました。吐かれた炎がバスケットを照らすと、もう一切れのケーキが今度は自分で飛び出してきました。よく見ると、二本の足が生えています。

「かあさんのケーキが‼︎」

 笑っていいのか怒るべきなのか、フィンはよくわからなくなりました。

──そうれ、ゆけぇい!

 ケーキはドライフルーツが見え隠れする小さな足でフィンの持つ籠から飛び降りると、ジャックが走る方向と逆向きに駆け出しました。

「早いっ⁉︎」

「早いのか⁉︎」

 あっという間に見えなくなったケーキを、黒い人影が追っていきます。

『タベモノ、タベモノ ダ。オレ ニ ヨコセ』

『チョウダイ、チョウダイ。アタシ ニ チョウダイ』

 重なり合った声が小さく遠くなっていきます。ずっと怖いと思っていた声の中の醜く悲しい響きに、フィンの胸はずきんと痛みました。

 その声が聞こえなくなった途端、フィンの耳に走るジャックが風を切る音が聞こえてきました。森は暗いままですが、見上げる夜空には月と星が輝いています。

「抜けたか」

──ああ、こちら側の森だの。

 森の樹々の重なりが薄くなった向こう側に、赤い大きな焚火が見えました。

「収穫祭の焚火だ!」

 フィンは叫びました。ジャックは足を止めると森の端まであと少しというところで、フィンを森の地面に降ろします。 

 地面に着いた足の下のやわらかな落ち葉の感触に、フィンは思わず大きな息を吐きました。

「ここまで来ればいいだろう」

──村の者らは、小僧、お主を探しているのではないか?

 収穫祭の焚火の周りでは、大人たちが松明を手に慌ただしく動き回っていました。フィンの名前が風に乗って何度も耳に届きます。

──そういえば名を聞いておらなんだ、お主、フィンというのか。

「良い名前だな」

 焚火の光があと少し届かない森の暗闇に紛れるように立ったジャックは、赤い炎を眩しそうに見やります。カブのランタンは、フィンの目の高さで静かに揺れていました。

「……ジャックさん、ありがとう。ランタンさんも……」

 フィンはもっと他に言いたいことがあったのですが、その気持ちにぴったりの言葉が見つかりませんでした。

「さあ、フィン」

 痩せた白い手に背中をそっと押され、フィンは焚火に向かって歩き出しました。夜の森に慣れた目に、焚火はとても明るく映ります。

 けれど、にいさんたちが言うほど綺麗ではないかなと、フィンは思いました。カブのランタンから零れる火の粉の方が、綺麗だと思いました。

 焚火のそばにいた大人が、フィンに気づいたようでした。

「──……フィン? フィンか⁉︎」

 なんだかもう何年も聞いていなかったような、とうさんの声でした。

「とうさん!」

 叫んだ途端に炎の光がゆらゆらと揺れ始め、フィンは自分が泣いていることに気づきました。

 森のこちら側に帰ってこられたからでしょうか。音のない夜の森の黒い人影が悲しくて怖かったからでしょうか。それだけではない気がしました。

 駆け出そうとしたフィンの腕の中で、バスケットがかさりと音を立てます。

「──!」

 残ったみっつめのケーキが立てた音でした。

「ジャックさん‼︎」

 駆けてくるとうさんに背を向けて、フィンは走り出しました。いまになって膝小僧が震えてきて、何度も転びそうになりました。

「ランタンさん‼︎」

──‼︎

「⁉︎」

 すんでのところで森の闇に消えそうだったジャックに、フィンは飛びつきました。ランタンが大きく揺らいで火の粉をまき散らし、自分の長い足にしがみついているフィンを、驚いた顔をしたジャックが見下ろします。

「これっ! かあさんのケーキ、あげる!」

 フィンは、バスケットをジャックに差し出しました。

「──っ」

 ジャックは、ぽかんと口を開けたままです。そういう顔をしていると、ジャックはまるで幼く見えるのでした。

「フィン!」

「フィンがいた‼︎」

 吠えるようなとうさんの声と、大きなにいさんの泣きそうな声が近づいてきます。

 おずおずと伸ばされたジャックの手にバスケットを押し付けるように渡すと、フィンは焚火の方に向かって駆け出しました。

「今度は、焼き立てを持っていくね!」

 赤毛の小さな頭が遠く去っていきます。駆け寄ってきた二つの影に抱きとめられるのを、木の影にそっと身を寄せてジャックとランタンは見届けました。


──ケーキか。ジャック、お主食えるのか? もう人の身体でなくなっておるぞ。

「………」

 ランタンのからかう声を聞き流して、ジャックはバスケットから最後の黒いケーキを取り出しました。一瞬迷って、おそるおそる一口かじってみます。

 人でなくなって随分経ったジャックには、もう味はわかりません。それでも、そのケーキは何か温かい味がするように思いました。その温かさに心が緩んだのか、ジャックは昔まだ子供だった頃のことを珍しく思い出しました。

「小さい頃、弟や妹たちとケーキを取り合った。中に何か入っていれば、良いことが起きると……。あの頃は……」

 豊かとは言いきれませんが、家族でケーキが食べられたのでした。

 やがて、ジャックが大人として認められるという年に、長く続くあの飢饉が起こったのです。

 温かい家、手をかけた畑、可愛がっていた家畜たち、そして、守りたかった家族。全てが、ジャックの手からこぼれ落ちていきました。

──お主一人でどうにかなると思うたか。結局、独り永遠に彷徨っておろうが。

「……それでも」

 何もしない、なんてことはできなかったのです。

 命の火は、小さく弱い者から順番に消えていきました。ジャックは食べ物を手に入れ、家に持ち帰りました。手に入れるためなら、瘦せ細った体でなんでもしました。

 そして、ある日。赤く染まったパンの欠片を手にしたジャックが、家の扉を開けて帰ったと思った先は、暗く冷たい炎の燃える地の底の国だったのです。

 地の底の国の門番は言いました。生きている間にした悪いことと良いことが同じ重さになったジャックは、光の中にも地の底にも行けないと。どこにも行けずに永遠に彷徨うしかないと。

 ジャックの手から赤いパンが落ちて、冷たい炎の燃える地面で炭になりました。大事なものを守れなかったことを、ジャックは知ったのです。

 ジャックの顔を長く見つめた門番は、パンの炭を拾い上げて息を吹きかけました。炭の中に残っていた微かな熱が、炎になって吹き上がります。果てのない旅のせめてもの供にと門番から渡された不思議な色の熾き火を掌で受け取っても、ジャックはもう熱さを感じませんでした。熾き火を手に、地の底の国を後にするジャックの背中に、門番は声をかけました。

 もし、もしも。この先、ジャックが誰かから光る贈り物をもらうことがあったなら。その時、扉は開かれる、と。

 もう生きてはいないジャックが彷徨うのは暗闇の中なのに、門番はそう言ったのです。そして、数えきれないほどの月日を、ジャックは熾き火と共に彷徨ってきたのでした。

 ジャックはもう一口ケーキをかじり、かつんと歯に響いた固い音に目を見開きました。

──……? っ⁉︎ ジャック、それは‼︎

 見れば、ケーキから鈍色の鍵が顔を出しています。鍵はランタンの炎を反射し、きらきらと光りました。

「“光る贈り物”……」

──鍵だ! 開くぞ、ジャック! 扉が開く‼︎

 ランタンが叫びました。もう彷徨わなくていい、休んでいいのだと叫びました。

 ケーキを掴む指先が暖かい光に包まれました。ジャックは目を見開いて、赤毛の少年の好奇心に満ちた泣きべそ顔を思い出し、かすかに微笑みました。

 そして、黒いケーキを鍵ごと、ランタンの中の炎にくべました。

──っ⁉︎

 じゅっ、と音がして、ケーキと鍵が燃え尽きます。

「──俺は何も……受け取っていない」

 ジャックの指先に微かに灯っていた光は、森に吹く風がさらっていきました。ランタンが、ぐるぐると回ります。ケーキと鍵を呑み込んだ炎の欠片が、涙のように零れ落ちました。

──ジャック、なぜだ⁉︎

「……まだ森に残された者がいる」

──……終わらぬぞ。いなくなることはない者たちだ。

「そうだな。──それでも」

 ジャックは、森の暗闇から収穫祭の焚火を見やりました。

「俺がいることで、家に帰れる迷子もいるようだから」

──……。わからぬな、わからぬよ。ジャック。

「飽きたか? お前だけなら地の底へ帰れるかもしれないぞ」

──……まったくわからぬのは、口惜しいでな。もう少し見極めてやるとしよう。これでも、お主から産まれた熾き火だからの。

 ぶつぶつと呟くランタンを見て、ジャックは笑いました。もう一度だけ、あの少年の赤毛のような収穫祭の焚火を振り返ります。ランタンに聞こえないように、ジャックはそっと唇を動かしました。

 ありがとう、というその小さなちいさな声を、ランタンは聞き逃しませんでした。けれど、何も聞こえなかったふりをしました。

 そして。

 カブのランタンを手にした白い髪の男は、森の暗闇に溶けるように姿を消しました。


おしまい

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