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静かな侵略 ― 情報後進国・日本の恐怖

作者: 東雲 比呂志

 ――あなたは知っていただろうか。

 この国に、十万人を超えるスパイが潜んでいることを。

 彼らは銃も爆弾も使わない。

 ただ、隣人の顔をし、留学生を装い、企業戦士に紛れて、日常の中から国の未来を盗み出していく。

 G7で唯一、スパイ防止法を持たない国・日本。

 「平和ボケ」と揶揄されるこの国は、知らぬ間に静かな侵略を受け続けている。

 本作はフィクションである。

 だが描かれる現実は、あなたのすぐ隣で起きているかもしれない。

 安心して読めると思うな――ここで描かれる恐怖は、すでに始まっているのだから。

プロローグ

 深夜の東京・品川。

 オフィス街の一角にそびえる防衛関連企業のビル。そのサーバールームに、ひとりの影が忍び込んでいた。

 黒いフードを被った男は、ためらうことなく端末にコードを打ち込む。数秒後、警告灯が点滅することもなく、機密データの転送が始まった。流れ出していくのは、人工知能を応用した次世代センサーの設計図。軍事転用も可能とされる技術だった。

 わずか五分。

 データは音もなく国外のサーバーに吸い込まれていった。

 翌朝。

 内閣情報調査室に着任したばかりの桐谷陸は、公安の先輩から分厚いファイルを渡された。そこには数え切れないほどの流出事件の記録が並んでいる。

「……これは全部、ここ一年のものですか」

 陸の問いに、先輩は無言で頷いた。

「十件や二十件じゃない。百件以上だ。そしてな――」

 声を潜め、先輩は言葉を続けた。

「この国には、十万人を超えるスパイが潜伏している」

 陸は思わず息を呑んだ。

 十万人。地方都市ひとつ分の人口に匹敵する数だ。

 だが、通勤電車で隣に座るサラリーマンも、街角で笑う学生も、誰がスパイで誰が無関係なのか、判別することはできない。

「日本は、世界で唯一スパイ防止法を持たないG7国家だ。つまり――スパイ天国だ」

 窓の外には、何も知らずに会社へ急ぐ人々の波があった。

 平和な日常。その裏で、国の未来を支える技術が次々と奪われていく。

 陸は無意識に拳を握りしめていた。

 この国は、情報戦の最前線にすら立てていない。

 静かな侵略は、すでに始まっているのだ。


第1章 スパイ天国ニッポン

第1節 静かな侵入者たち

 夜の羽田空港。

 国際線到着ロビーには、スーツケースを引く旅行者やビジネスマンが雑踏をつくっていた。その中に混じって、一人の若者が入国審査を通過する。中国から来た留学生――という肩書きを持つ彼は、片手にスマートフォンを握りしめていた。だが、その端末には最新型の暗号化通信アプリが仕込まれており、送受信するのは観光の記録ではなく、東京で活動する産業スパイ網の指令だった。

 特別な訓練を受けたわけではない。ただの学生。

 しかし、アルバイト先の研究室で扱うデータをUSBに落とし、それを仲介役に渡す。それだけで十分だった。高度な諜報活動など不要。たった一枚の図面、一つのアルゴリズムが、外国政府にとっては莫大な価値を持つ。

 桐谷陸は、その現実をファイルの中で見せつけられていた。

 内閣情報調査室の地下会議室。資料には「極秘」の赤い判が押されている。

「防衛装備、次世代電池、医療用AI……。盗まれた案件は、ここ一年だけで五十件を超える」

 隣席の公安警察官が、淡々と報告を続ける。

 陸は目を走らせながら、背筋が冷えるのを感じた。件数の多さだけではない。リストの横には「容疑者:日本在住の留学生」「容疑者:外資系企業社員」といった肩書きが並んでいる。つまり、彼らは銃を持ったスパイではなく、日常に溶け込む「普通の人間」なのだ。

「……まさか、こんな数とは」

「推定で十万人だ。実際はもっといるかもしれない」

 公安官は淡々と告げた。

 その声に、陸は言葉を失う。十万人。地方都市の人口に匹敵する数のスパイが、この国のどこかで暮らしている。電車に乗り、コンビニで弁当を買い、大学に通い、オフィスで働く。だが同時に、情報を吸い上げ、母国へ流している。

 陸は窓越しに東京の夜景を見下ろした。

 煌々と輝く摩天楼の灯りは、繁栄の象徴のように見える。だがその光の裏で、目に見えない暗闇が広がっていた。

 侵入者たちは静かに、しかし確実に国を侵食している――。


第2節 防げぬ流出

 桐谷陸は、厚い資料をめくりながら、額に手を当てていた。

 そこに記されているのは、失われた技術のリスト。量子通信のアルゴリズム、防衛産業の新型センサー、さらには次世代電池の製造工程。日本が誇るはずの技術が、次々と外国へ流出していた。

「なぜ、止められないんですか」

 思わず声が漏れた。

 向かいに座る公安警察の捜査官は、肩をすくめる。

「現行法では、準備段階を取り締まれない。やれるのは実際に情報が持ち出された後だけだ」

「……つまり、被害が出てから?」

「そうだ。しかも被害が出ても、立証は難しい。特定秘密保護法や不正競争防止法で裁ける場合もあるが、網をすり抜けるケースの方が圧倒的に多い」

 陸は机の上の資料を叩いた。

 他国ではスパイ防止法があり、CIAやMI6のような対外情報機関が動く。準備行為の段階で摘発され、スパイは未然に排除される。だが日本では、目の前で技術が盗まれても、法律上は「まだ犯罪ではない」ことすらあるのだ。

「……まるで鍵をかけずに金庫を置いているようなものだ」

 陸の呟きに、公安官が頷く。

「その通り。そして日本は、G7で唯一、スパイ防止法を持たない国だ。だからスパイ天国と呼ばれる」

 陸の胸に重苦しい思いが広がっていった。

 政府は平和を誇りにしてきた。だが、その平和ボケが、いまや国の未来をむしばむ弱点となっている。

 彼の頭に浮かんだのは、大学時代の友人たちの顔だった。研究室で汗を流し、技術立国を支えると信じていた仲間たち。その成果が、明日の敵国の武器になるかもしれないのだ。

 会議室の時計が深夜を告げる。

 陸は椅子から立ち上がり、窓の外を見つめた。

 煌めく首都の街並み。その奥に潜む、目に見えぬ侵略。

「防げぬ流出……これが、この国の現実か」

 その言葉は誰に聞かせるでもなく、夜の闇に消えていった。


第3節 脆弱な国

 週末の午後、桐谷陸は公安の同僚に連れられ、郊外の山あいに立っていた。

 一見してただの草原。しかし、少し先に広がる土地には鉄塔が林立し、自衛隊の通信施設が建っている。そのすぐ隣の広大な敷地に、見慣れぬ看板が立っていた。

「……外国企業が買い取った土地だ」

 同僚の言葉に、陸は眉をひそめた。

 相続税のない外国人が、自由に日本の土地を購入できる仕組み。それが通信施設や水源地の周辺にまで及んでいる現実。国の中枢に隣接した土地が、いまや他国の思惑にさらされていた。

「法律上は問題ない。だが安全保障の観点からすれば、致命的な抜け穴だ」

 風が吹き抜ける。陸は寒気を覚えた。

 守るべき情報やインフラが、法の網から零れ落ちていく。

 その夜、陸は都市部の監視カメラ網についての報告を受けた。

 駅前、学校、空港、役所。至るところに設置された監視カメラ。その多くが中国製のHikvisionだった。

「これらのカメラにはバックドアが仕込まれている可能性がある」

 解析官の声が響く。

「映像データが国外に転送され、日本人の行動が丸ごと収集されているかもしれない」

 陸の頭に浮かんだのは、スマートフォンのアプリ。政府機関さえ導入した通信アプリLINEのサーバーが、かつて韓国に置かれていた事実。休戦状態にある国の政府が、日本の通信を覗ける状況――。

 土地、通信、監視。

 生活に密着した領域すべてが、外部の支配下にあるかのようだった。

 窓の外には、何も知らずに歩く人々の姿がある。

 彼らは休日を楽しみ、スマホで写真を撮り、子どもと笑い合っている。だがその笑顔の裏で、情報は静かに吸い取られていた。

 陸は拳を握り、心の中で呟いた。

「この国は、あまりにも脆い」


第2章 賛否の狭間

第1節 国会の攻防

 霞が関の冬空は、どこまでも鈍色だった。

 国会議事堂の中、与野党の議員が向かい合い、火花を散らすような議論を繰り広げていた。議題は「スパイ防止法」の制定。長年棚上げにされてきたテーマが、ついに本格的な審議に持ち込まれたのだ。

「現行法では対応できない!」

 与党の若手議員が机を叩いた。

「国家機密の流出が相次いでいる。準備段階から取り締まれる法律がなければ、日本はもはや国際社会の笑いものだ!」

 野党席から冷ややかな声が返る。

「笑いものにしているのは誰ですか。特定秘密保護法も、経済安全保障推進法もある。十分に機能していないのは、政府と捜査機関の怠慢でしょう」

 議場の空気は張り詰めていた。

 与党議員は「備えなければ国が滅びる」と訴え、野党議員は「自由と人権が踏みにじられる」と警鐘を鳴らす。拍手と罵声が交互に飛び交い、議場は混乱に包まれていく。

 傍聴席に座る桐谷陸は、その光景を黙って見つめていた。

 自分が現場で目にした流出の実態は、この場にいる誰よりも知っている。だが議員たちにとって重要なのは「党の立場」や「世論の票」であり、現場の悲鳴は遠くかき消されていた。

「……法がなければ止められない。それでも議員たちは、まだ机上の議論を続けるのか」

 陸は拳を握った。

 議場のざわめきの中、彼の心には一つの思いが膨らんでいく。

 ――この国を守る覚悟があるのは誰か。

 やがて議場に響く鐘の音が、討論の一時中断を告げた。

 だが、その先に待っているのは、さらなる攻防だった。


第2節 市民の声

 永田町から少し離れたカフェ。

 ジャーナリストの篠原繭は、ノートパソコンの画面を食い入るように見つめていた。国会での審議を速報した記事に、次々とコメントが寄せられている。

 ――「スパイ防止法は絶対に必要だ。日本は無防備すぎる」

 ――「戦前の治安維持法の再来だ。自由が奪われる」

 肯定と否定が入り乱れ、SNSは嵐のような議論で埋め尽くされていた。

 繭は記事に追記しながら、思わずため息をついた。

 政府寄りでも野党寄りでもなく、彼女が書きたいのは「国民が真実を知る権利」についてだった。だが、その一文が賛成派からは「国を売る裏切り者」と叩かれ、反対派からは「中途半端だ」と非難される。

「……どうして、こうも極端に割れるのかしら」

 呟きながら、彼女はスマートフォンを手に取る。

 トレンドには〈スパイ防止法〉の文字。街頭インタビューを求めて人々に話を聞けば、「安心して暮らすために必要だ」という声と、「政府が監視社会を作るつもりだ」という声が、五分五分で返ってきた。

 その夜、ニュース番組の特集に繭はゲストとして呼ばれた。

 番組司会者が問う。

「篠原さん、あなたは法案に賛成ですか、反対ですか?」

 繭は一瞬、言葉を選んだ。

「私は……慎重であるべきだと思います。現状の法では不十分です。でも、新しい法律ができれば、政府が都合よく国民を監視する道具にもなりかねない」

 スタジオは静まり返った。

 それは賛成派にも反対派にも刺さる言葉だった。

 放送後、SNSには再び嵐が吹き荒れた。

 〈国家を守る気がないのか〉〈彼女こそ正論だ〉〈結局どっちつかず〉――。

 繭は画面を閉じ、冷めたコーヒーに口をつけた。

「市民の声は、二つに割れたまま。けれど、真実を知る声はどこにあるの……?」

 彼女の視線の先、窓ガラスに映った自分の顔が、疲れ切ったように見えた。


第3節 闇の妨害者

 国会の議論が白熱する一方、その裏側で静かに進む取引があった。

 桐谷陸は、上司から渡された極秘の調査報告を手にしていた。そこには、ある有力議員の資金収支報告書が記されている。

「この人物、外国企業から資金提供を受けている形跡があります」

 公安の担当官が淡々と告げる。

「企業を隠れ蓑にして、背後にいるのは某国政府だ。スパイ防止法が成立すれば困る連中だよ」

 陸は書類に目を走らせた。見慣れた政治家の名前。テレビで安全保障を語り、国民に向けて強気の発言を繰り返すその人物が、裏では外国勢力と繋がっていた。

「つまり……この法案を潰すために動いている?」

「そうだ。表では国民の人権を守るためと訴えながら、裏では外国の利益を代弁している」

 その言葉に、陸は背筋が凍る思いだった。

 日本の未来を守るはずの国会が、外からの圧力で歪められている。

 一方、篠原繭も別の情報源から奇妙な噂を耳にしていた。

 「アメリカのディープステートが日本に圧力をかけている」――。

 スパイ防止法が成立すれば、アメリカが日本から得ている情報の自由な流れが制限される。だから彼らは、表には出ない形で法案成立を妨害しているのだという。

 取材メモにその言葉を書き込んだ繭は、思わずペンを止めた。

「敵は国外だけじゃない……国内の中枢にまで入り込んでいる」

 夜の永田町は、ひときわ暗かった。

 政界の奥深くで蠢く影。その正体は国民の目に映らない。だが確かに、法案を握りつぶす力を持っていた。

 陸は窓の外を見つめ、低く呟いた。

「闇の妨害者は、この国の内側にいる」


第3章 監視の罠

第1節 目に見えぬ鎖

 新宿駅西口。

 人の波が絶えることのない大通りを、桐谷陸は無言で歩いていた。頭上のビル壁面には無数の監視カメラが取り付けられ、行き交う人々を見下ろしている。買い物袋を抱えた親子、スマートフォンを操作する若者、疲れた表情のサラリーマン――。彼らの日常が、全て無言のレンズに記録されていた。

「これらのカメラの多くは、中国製だ」

 同行していた公安技官が小声で囁いた。

「Hikvision社の製品。バックドアを仕込まれている可能性が高い」

 陸は眉をひそめ、頭上を見上げた。

 カメラはただの街の風景。誰も疑問を抱かない。だが、その映像が国外のサーバーに転送され、日本人の動きが逐一解析されているかもしれないのだ。

 その日の夜、陸は庁舎のモニタールームで解析映像を見せられた。

 駅前を歩く人影が赤い枠で囲まれ、性別・年齢・行動パターンまで自動で分類されていく。AIによる行動分析が進むたび、陸の背筋に冷たい汗が流れた。

「……まるで檻の中だ」

 呟いた言葉に、技官が頷く。

「しかもこれは日本が監視しているのではない。日本人が監視される側に置かれている」

 陸は思わず拳を握った。

 街頭のレンズは、いつの間にか「見えない鎖」となり、この国の暮らしを縛りつけていたのだ。

 窓の外には、無邪気に歩く人々の姿がある。

 彼らは自分がどこで見られ、どんなデータを抜き取られているのか知らない。

 その無知こそが、最大の武器となって敵に利用されていた。

 闇の中で光るレンズの赤い点が、陸には不気味な監視者の眼に見えた。


第2節 口封じ

 その青年は、まだ二十代前半だった。

 中国からの留学生で、東京の理工系大学に通いながら、研究室でアルバイトをしていた。彼のノートパソコンには、誰にも見せられないデータが隠されていた。

 ある夜、彼は震える指でメールを打った。

《至急、会って話したい。重要な情報がある》

 送信先は、公安当局が設けた匿名窓口だった。

 彼は葛藤していた。仲間から頼まれ、研究室の成果を外部に渡す役目を負わされてきた。だが、そのデータが「軍事転用可能」だと気づいた瞬間、彼の心は耐えきれなくなった。

「これは……人を殺すために使われるかもしれない」

 彼は、真実を告発しようと決意した。

 だが、その約束の日。

 夜の環状七号線を、彼の乗る自転車が走っていた。ヘッドライトの明かりが一瞬揺れたかと思うと、背後から黒いワゴン車が迫る。

 次の瞬間、鋭いブレーキ音とともに彼の体は宙に舞った。

 道路に叩きつけられた青年の瞳から、光が消えていく。

 翌朝の新聞には、小さな記事が載った。

《留学生、交通事故で死亡》

 桐谷陸はその報せを受け、愕然とした。

 公安のデスクには、未送信のまま残された青年のメールが表示されていた。

「……間に合わなかった」

 陸の声は掠れていた。

 事故は偶然だったのか、それとも計画された口封じだったのか。確証はない。だが、告発を試みた者が命を落とした事実だけが、重く突き刺さった。

 もしスパイ防止法が存在し、準備段階から保護と摘発が可能であったなら――。

 青年は救えたのかもしれない。

 陸は机を叩いた。

 だが、その怒りを受け止める法律は、この国にはまだ存在しなかった。


第3節 消える真実

 夜の庁舎。

 桐谷陸は、青年が残したはずの証拠データを確認するため、公安のサーバールームに駆け込んだ。

 研究室から持ち出されたファイルの断片、暗号化された通信ログ――。それらが保存されているはずのフォルダを開いた瞬間、陸は息を呑んだ。

 空白だった。

 フォルダは存在する。だが、中身は何も残っていない。

「……消えている?」

 背後で解析官が顔を青ざめさせた。

「あり得ない。昨日までは確かに存在していた。だが……誰かがリモートから侵入して、完全に消去した」

 陸は画面を凝視した。ログを追うと、海外のIPが複数同時に跳び回っていた。中国、ロシア、そして見覚えのある北米のサーバーまで。

 削除の痕跡は巧妙に隠されており、犯人を特定するのは不可能に近かった。

「これは……国家規模のサイバー部隊の仕業だ」

 解析官が低く呟く。

 陸は拳を握った。

 現実世界では青年が事故で命を奪われ、サイバー空間では証拠が抹消される。口を塞ぎ、記録を消す。二重の口封じが同時に進行していたのだ。

 ディスプレイに映る真っ白なフォルダが、陸には冷たい嘲笑のように見えた。

 敵はすでに、現実と仮想の境界を自由に行き来し、日本を弄んでいる。

「……この国は、情報戦の最前線にすら立てていない」

 陸の声は、深夜のサーバールームに虚しく響いた。

 残されたのは、消えた証拠と、消された者の沈黙だけだった。


第4章 影の政治

第1節 操られる議員

 永田町の高級料亭。

 個室の障子の向こうからは、低く抑えた笑い声が漏れていた。

 円卓に座るのは、有力与党議員・神谷浩一。テレビ討論では「国防の守護者」を名乗り、強硬な安全保障論を振りかざす男だ。その彼が、今夜は外国企業の代理人と杯を交わしていた。

「法案は難航しそうだな」

 代理人が流暢な日本語で囁く。

 神谷は煙草の煙をくゆらせながら、口元に薄い笑みを浮かべた。

「心配はいらん。人権を守るためという大義名分を掲げれば、世論は分断できる。野党も乗るだろう」

 代理人の目が光る。

「我々としては、日本にスパイ防止法など成立しては困る。情報はこれまで通り、自由に流れてくれなければ」

 神谷はグラスを傾け、無言で応じた。

 代金はすでに別口座に振り込まれている。選挙資金、秘書給与、そして個人の豪奢な生活費――。すべてが、見返りとして彼の手に入る。

 一方その頃、桐谷陸は庁舎の資料室で同じ名前を目にしていた。

 資金収支報告書に刻まれた数字。表向きは合法な企業献金。だが背後にあるのは、外国政府からの資金洗浄だった。

「……やはり、繋がっている」

 陸の心臓が強く打った。

 国の未来を決める法案が、外国勢力の操り人形によって握り潰されようとしている。しかも、その議員は国民の前で「自由と人権を守るため」と堂々と演説するのだ。

 窓の外には国会議事堂のシルエットが浮かんでいた。

 だがその姿は、もはや主権国家の象徴ではなく、糸で操られる操り人形のように陸には見えた。

「操られているのは議員か、それとも日本そのものか」

 陸の問いは、静まり返った資料室に消えていった。


第2節 外圧の影

 ワシントン郊外のホテル。

 薄暗い会議室で、数名のスーツ姿の男たちが低い声で会話を交わしていた。肩書きは明かされない。名刺もない。ただ一言で片づけられる――「国家の深部にいる者たち」。

「日本はスパイ防止法を議論し始めたらしいな」

「愚かなことだ。我々にとって、日本は情報供給国であるべきだ。余計な壁を作られては困る」

 テーブルの上には、東京から送られた最新の審議状況が映し出されていた。彼らは一瞥するだけで内容を理解し、次の指令を決める。

「日本の与党議員には、もう理解者を用意してある。人権を盾に反対論を強めさせろ。世論を分断させろ」

 その声に、周囲の男たちは頷いた。

 ――同じ頃、東京。

 桐谷陸は外務省の非公式レポートを手にしていた。そこには、アメリカ政府の表の顔とは別の圧力構造が克明に記されていた。

「スパイ防止法の成立は、米国の対日情報収集に不利益をもたらす。ゆえに協力的な議員を通じて妨害工作を行う」

 陸の胸に冷たいものが走った。

 アメリカは同盟国であるはずだ。だが、裏側では自国の利益のために日本を縛りつけている。

「これでは……日本は独立国とは言えない」

 呟いた声は、自分自身への問いかけでもあった。

 国会の議論がどれほど熱を帯びても、その背後で外圧が糸を引いている。陸には、議員たちの言葉が操り人形の台詞にしか聞こえなくなっていた。

 夜風が庁舎の窓を叩いた。

 見えない影が日本を覆い、国の未来をじわじわと締め上げていく。


第3節 沈黙の代償

 編集部の会議室に、篠原繭の声が響いた。

「この記事を出さなければ意味がありません。外国勢力と癒着する議員の証拠、これ以上のスクープはないはずです」

 机の上には、桐谷陸から密かに渡された資料が並んでいた。資金の流れを示す裏帳簿、代理人との接触記録、そして密談を録音した音声データ――。確かに、動かぬ証拠だった。

 だが、編集長は腕を組んだまま首を振った。

「篠原、気持ちは分かる。だが、この記事は載せられない」

「どうしてですか!」

「上から圧力がかかった。掲載すれば国家機密漏洩の疑いでお前も逮捕されかねない。雑誌そのものが潰される」

 繭の手が震えた。

 真実を書こうとすれば、法と権力が立ちはだかる。守るべき「国民の知る権利」は、表向きは掲げられながら、裏では簡単に封じられる。

「……結局、この国は何を守っているんですか。国民ですか? それとも政治家ですか?」

 問いかけに答える者はいなかった。

 会議室の時計の針だけが、乾いた音を刻んでいた。

 その夜、繭は記事の原稿をパソコンに残したまま、編集部を後にした。

 街の灯りは眩しいほどに明るい。だが、その光に照らされるのは「沈黙を強いられた現実」だった。

 カフェの窓辺で冷めたコーヒーを見つめながら、彼女は唇を噛んだ。

「沈黙の代償は、きっともっと大きい」

 その呟きは、夜の雑踏に紛れて消えていった。


第5章 情報後進国の代償

第1節 流出の瞬間

 夜の研究都市つくば。

 国立研究所のサーバールームでは、量子通信の実験データが記録され続けていた。軍事転用すれば、敵国の暗号通信を一瞬で解読できる――まさに世界の均衡を揺るがす技術。

 その日、システム管理者は異変に気づいた。

 アクセスログに、あり得ない接続が並んでいた。国内IPを経由しているが、ルートをたどれば北京、モスクワ、さらには中東の匿名サーバーへとつながっている。

「……誰かが侵入している!」

 緊急遮断を試みた瞬間、画面が暗転した。

 数秒後、復旧したモニターに表示されたのは、空っぽのフォルダ。十年以上積み上げてきた研究成果が、一瞬にして消え去っていた。

 その報告が、深夜の庁舎に届いたのは午前二時。

 桐谷陸は資料を受け取った瞬間、血の気が引いた。

「量子通信……まさか、それまで」

 公安の解析官が青ざめた顔で付け加える。

「しかも同時刻、アメリカの情報機関も同じデータを入手した可能性がある。流出先は一つじゃない。複数だ」

 陸は拳を握り締めた。

 技術は盗まれるだけでなく、国際的な駆け引きの道具として各国に分配されていく。日本が守り抜くはずだった切り札は、もはや世界の舞台にさらされてしまった。

 翌朝の外電ニュースには、匿名の軍事関係者のコメントが並んだ。

 〈極東で技術的均衡が崩れた。日本は情報管理能力を持たない〉

 〈同盟国であるにもかかわらず、日本にデータを委ねるのは危険だ〉

 テレビ画面に流れるその言葉に、国民はただ唖然とするしかなかった。

 気づいた時には、すべてが手遅れだったのだ。

「これが……情報後進国の現実か」

 陸の呟きは、誰にも届くことなく研究都市の冷たい夜風に消えていった。


第2節 最終対峙

 深夜の湾岸倉庫。

 桐谷陸は、防弾ベストの上からコートを羽織り、闇に潜んでいた。公安の突入部隊が周囲を固める。だが、陸が狙うのはただ一人――スパイ網の中心人物、リュウ・チャン。

 数分後、足音が響いた。

 現れたのは、黒いスーツに身を包んだ男。無駄のない動き、冷ややかな視線。彼がリュウ・チャンだった。

「桐谷陸……噂は聞いている」

 流暢な日本語。

「だが、お前たちの国には法律すらない。俺を裁く法は存在しないのだ」

 陸は一歩前へ出た。

「たとえ法がなくても、俺は止める。これ以上、日本を食い物にさせない」

 その瞬間、倉庫内の照明が点滅した。

 ノートパソコンの画面が勝手に開き、無数のコードが流れ始める。リュウの組織が操るサイバー部隊が、同時に攻撃を仕掛けてきたのだ。公安の通信網が次々と遮断され、突入部隊は孤立する。

「現実の戦場とサイバーの戦場は、もはや一つだ」

 リュウの声が倉庫に響く。

「お前の国は後進国だ。守れない。俺たちが証明してやろう」

 陸は歯を食いしばり、端末に向かった。

 緊急防御システムを手動で起動させ、サイバー攻撃の一部を遮断する。

 だが同時に、銃口の冷たい金属音が背後で鳴った。リュウの部下たちが、陸に照準を合わせていた。

 汗が滴り落ちる。

 肉体と電子の両方で追い詰められる中、陸は心の奥で自問していた。

――この国を守る覚悟が、本当に自分にあるのか。

――法がなくとも、命を懸けて立ち向かえるのか。

 銃声が轟く直前、陸は叫んだ。

「ここで止める……日本の未来のために!」

 倉庫の暗闇に、閃光が走った。


第3節 崩れゆく国

 量子通信技術の流出から、わずか数週間。

 その影響は、想像を超える速さで広がっていった。

 まず、株式市場が揺れた。

 防衛関連、半導体、エネルギー――日本の中核を担う企業の株が軒並み暴落した。海外投資家が一斉に資金を引き上げ、「日本には機密を守る力がない」と烙印を押したからだ。

 次に、外交の舞台。

 G7首脳会議で、同盟国の代表が冷ややかな視線を向けた。

「重要技術を日本に預けるのはリスクだ」

「我々の情報網から、日本を外すべきではないか」

 日本の首相は必死に弁明したが、握手の裏で交わされる視線には、もはや信頼の色はなかった。

 さらに、国民生活にも影響が及んだ。

 電力網に不審なサイバー攻撃が相次ぎ、一部地域で停電が頻発。病院のシステム障害により、手術が延期される事態まで起きた。政府は「因果関係を調査中」と繰り返すだけだったが、誰の目にも報復的な攻撃であることは明らかだった。

 庁舎の会議室で、桐谷陸は報告書を握りしめていた。

「経済は疲弊し、外交は孤立し、国民生活は脅かされている……。これが、流出の代償か」

 同僚の公安官が苦い顔で呟いた。

「国民の大半はいまだに実感していない。だが、このままでは……国家そのものが崩れる」

 窓の外、霞が関の街灯が頼りなく揺れていた。

 平和と繁栄を謳歌してきたはずの国が、静かに、しかし確実に足元から崩れていく。

 陸は心の中で呟いた。

「日本は、もはや情報後進国ではなく――情報破綻国だ」

 その言葉が現実になるのに、もう時間はかからなかった。


終章 恐怖の実態

第1節 真実の公開

 冬の夜明け前。

 都心のビル群がまだ眠りに沈む時間、桐谷陸と篠原繭は小さな編集プロダクションの一室にいた。窓の外には雨が降り、街灯の光が滲んでいる。

 机の上には、膨大なデータが並んでいた。

 防衛装備の設計図、外国企業から議員に流れた裏金の記録、サイバー攻撃の痕跡――。本来なら国家機密として封印されるべき証拠。しかし彼らは、そのすべてを公開する覚悟を固めていた。

「ここで出さなければ、日本は変わらない」

 陸の声は低かったが、決意が込められていた。

 繭は震える指でキーボードを叩く。

 記事のタイトルを打ち込み、送信ボタンの上で手を止めた。

「……出したら、私たちは終わるかもしれない」

「分かってる。それでも真実を知らなければ、この国はもっと早く終わる」

 二人の視線が交わった。

 わずかな沈黙の後、繭は深く息を吸い込み、送信キーを押した。

 瞬間、サーバーが点滅し、全世界にニュースが配信された。

 「日本はスパイ防止法なき情報後進国である」

 「政界に巣食う外国の影」

 「10万人以上のスパイが潜伏する実態」

 記事はSNSを通じて瞬く間に拡散した。

 朝の通勤電車の中で、人々はスマートフォンを覗き込み、驚愕の表情を浮かべる。テレビ局は緊急特番を組み、街頭では「真実を知れ」と叫ぶ声が響き始めた。

 やがて国会前には群衆が集まった。

 「スパイ防止法をつくれ!」

 「国を守れ!」

 怒号と拍手が渦を巻き、政治の中枢を揺さぶっていく。

 雨上がりの空に、朝日が差し込んだ。

 窓辺に立つ陸は、光に照らされる群衆を見つめながら呟いた。

「これが……真実を公開するということか」

 その瞬間、彼の胸に去来したのは安堵ではなく、次に訪れる嵐の予感だった。


第2節 希望と罠

 国会前の群衆の熱は、日を追うごとに大きくなっていた。

 「スパイ防止法を制定せよ!」――その声はテレビでもラジオでも連日報じられ、政治家たちの背中を押していた。

 やがて、国会は動いた。

 臨時国会で提出された「スパイ防止法案」は、与党と一部野党の賛成多数で可決へ向かって進み出した。議場では「これで日本はようやく一歩前に進める」との声が上がり、拍手が響いた。

 傍聴席にいた桐谷陸も、その光景を見つめていた。

 確かに、ここまで来るのに多くの犠牲があった。命を落とした告発者、封じられた記者、消された証拠。だが、その全てが無駄ではなかったと信じたかった。

 しかし、資料室に駆け込んできた篠原繭が耳元で囁いた。

「陸、条文を読んだ?」

 渡された草案を開き、陸の表情が凍りついた。

 第十七条――「外国勢力に関わる政治活動は規制対象外とする」。

 第二十三条――「特定の経済提携分野については適用を留保する」。

「……これは」

「外圧よ。アメリカも中国も、この条文を通して自分たちの自由を確保している」

 陸は奥歯を噛みしめた。

 国会は確かに動いた。世論も高まった。だが、法案の中身には「抜け穴」が巧妙に仕組まれ、スパイ防止法は形ばかりの鎧にすぎなかった。

 議場で響く拍手を、陸は冷たい目で見つめた。

「これで守れると思っているのか……。希望の影に、また罠が潜んでいる」

 議事堂の天井を仰ぎながら、陸は深く息を吐いた。

 日本はようやく法を手に入れた。だが、その法が国を守るものかどうか――まだ誰にも分からなかった。


第3節 終わらぬ影

 冬の東京駅。

 クリスマス前のイルミネーションに彩られたコンコースは、人々の笑い声で溢れていた。旅行者、買い物客、通勤客。誰もが日常を生き、真実など知らない顔をしている。

 桐谷陸は群衆の中に立ち、雑踏を見渡した。

 あの国会で法案は通った。新聞は「日本、ついにスパイ防止法を制定」と一面で報じた。人々は安心したように拍手を送り、政治家は胸を張って記者会見をした。

 だが――陸の目には、別の現実が映っていた。

 スマートフォンで会話をしながら歩くサラリーマン。スーツケースを引く外国人の一団。ノートPCを開き、慣れた手つきでタイピングする留学生。

 誰がただの市民で、誰がスパイなのか。境界線はあまりにも曖昧だった。

 そのとき、視線が交わった。

 人混みの向こう、黒いコートを着た男が立っていた。鋭い眼光、わずかな笑み。陸は即座に悟った――リュウ・チャンだ。

 だが次の瞬間、男の姿は群衆に紛れて消えた。

 追うことはできなかった。駅のアナウンスと足音の洪水にかき消され、影はどこへ行ったのか分からない。

 陸は立ち尽くし、胸の奥で苦く呟いた。

「……スパイ防止法があっても、彼らは消えない」

 冬の冷たい風がホームを吹き抜けた。

 その風に運ばれるように、不気味な声が耳の奥に響いた気がした。

――日本国内には、いまも10万人以上のスパイが潜伏している。

 イルミネーションの光の下で笑う人々の背後に、無数の影が揺れていた。

 それは、この国が抱える恐怖の実態を静かに物語っていた。


エピローグ

 数か月後の早春。

 霞が関の街路樹には、淡い緑の芽吹きが見え始めていた。

 桐谷陸は、人通りの少ないカフェの窓際に座り、熱いコーヒーを口にした。新聞の一面には、連日のように「スパイ防止法施行」の文字が踊っている。だが、法の裏に仕込まれた抜け穴を知る陸の表情は硬いままだった。

「結局、俺たちが守らなければ意味はない……」

 独り言のように呟いたとき、向かいの席に篠原繭がやってきた。

 ラフなジャケット姿。手にしたノートパソコンは、相変わらず原稿の文字で埋め尽くされている。

「また記事を書くんですか」

「ええ。あの法案が本当に国を守るのか、監視を続けなきゃ」

 二人の視線が一瞬交わる。

 長い闘いの果てに、互いが背負う重荷を理解していた。

 法はできた。世論も変わった。だが、それで全てが解決するわけではない。影は今も人々の間に潜み続けている。

 カフェの外を、ビジネスマンや学生たちが足早に通り過ぎていく。

 何も知らず、平和な日常を生きる彼ら。その背後に、目に見えぬスパイの影が混じっているのかもしれない。

 繭はカップを置き、静かに言った。

「終わったんじゃない。始まったのよ」

 陸は頷いた。

 窓の外の空は、薄曇りの向こうにかすかな青をのぞかせていた。

 それは、この国の未来を映すかのように、希望と不安の境界線を曖昧に揺らしていた。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 物語の中で描かれた「静かな侵略」は、決して絵空事ではありません。

 技術流出、土地買収、監視カメラ、通信アプリ――。どれも現実に存在し、法の不備と国民の無関心に支えられて拡大しています。

 本作で問いかけたのは一つ。

 「あなたは、この国を誰に委ねるのか」。

 スパイ防止法の是非をめぐる議論は終わらないでしょう。

 けれど、本当の意味で国を守るのは、法律だけではなく、危機を直視する私たち一人ひとりの意識なのだと思います。

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