エピソード4:血染めの誓い、裏切りの刃
酒場「ブラッド・オアシス」は、まさに地獄絵図と化していた。
瓦礫と化したテーブルや椅子の破片、飛び散る血飛沫、そしてギャングたちの怒号が入り乱れ、俺の耳朶を打ち続ける。
ゼウスさんは血を流しながらも、その体術だけで次々とギャングを無力化していた。
彼の動きは、舞い踊るようにしなやかでありながら、鋼鉄の拳のように重い。
「ゼウスさん!こっちはもう限界です!」
ガストンの叫びが聞こえる。
彼もまた、傷つきながら必死に戦っている。
しかし、ギャングの数は減るどころか、外から次々と侵入してくる。
壊れた窓枠から、あるいは半壊した扉から、新たな敵が雪崩れ込んでくるのだ。
「諦めるな!彼らを、ここには入れさせない!」
ゼウスさんの声が、荒れ狂う戦場に響き渡る。
その言葉は、疲弊しきった俺たちの心に、かろうじて残された希望の炎を灯す。
俺もまた、護身用の棒を振り回し、ギャングの一人を地面に叩きつけた。
しかし、すぐに別の敵が迫ってくる。
ゼウスさんは、ヴァルガスの手下の一人が振り下ろしたメイスを、寸前で体をひねって回避した。
その男の背後を取ると、流れるような動きで相手の腕を関節で固め、悲鳴と共に地面に投げ飛ばす。
次の瞬間には、別の敵が背後から迫るのを察知し、振り返りざまに肘打ちを叩き込む。
彼の動きには、一切の迷いも淀みもない。
まるで、彼自身が嵐の中心にいるかのように、全ての攻撃を吸収し、ねじ伏せていく。
「ちくしょう、あのおっさん……なぜ武器を抜かないのに、こんなに強いんだ!?」
ギャングの一人が、恐怖に引きつった顔で叫んだ。
彼らの目に映るゼウスさんは、まるで人間離れした存在に見えているだろう。
だが、彼の体には、斧の刃が掠めた深い傷に加え、拳や蹴りを受けた無数の痣が刻まれていた。
疲労は確実に彼を蝕んでいた。
「さすがだな、ゼウス。だが、それもここまでだ!」
ヴァルガスの声が、酒場の奥から響き渡った。
彼の巨体が、破壊されたカウンターを乗り越えて、ゼウスさんの前に立ちはだかる。
その手には、血濡れた巨大な斧が握られている。
「貴様との決着は、今日ここにつける!」
ヴァルガスは叫び、斧を大きく振りかぶった。
その一撃は、まるで地を割るかのような重さだ。
ゼウスさんは、その巨大な斧を、わずかな身のこなしでかわす。
斧の刃が、ゼウスさんの頬をかすめ、冷たい風が肌を撫でる。
「ヴァルガス……」
ゼウスさんの声は静かだが、その瞳はヴァルガスの憎悪を真っ向から受け止めていた。
「黙れ!俺には、貴様を殺すというただ一つの目的がある!兄弟の仇だ!この十年の苦しみを、貴様にも味わわせてやる!」
ヴァルガスは狂ったように斧を振り回す。
ゼウスさんは、その激しい攻撃を捌き続ける。
時に相手の懐に飛び込み、時に体幹を崩し、巨体を揺さぶる。
彼の体術は、相手の力を利用し、無効化する術の極致だった。
ヴァルガスが再び斧を振り下ろした瞬間、ゼウスさんはその斧を持つ腕を掴み、驚くべき速さでヴァルガスの巨体を地面に叩きつけた。
酒場全体が揺れるほどの衝撃音だ。
ヴァルガスは呻き声を上げながらも、すぐに起き上がろうとする。
ゼウスさんはその隙を見逃さず、ヴァルガスの首筋に手のひらを突き立てた。
寸止めだ。
もし本気ならば、ヴァルガスは即死していただろう。
「貴様は、これ以上血を流すべきではない」
ゼウスさんの言葉に、ヴァルガスは嘲笑した。
「ふざけるな……!貴様が、俺の何を理解するというのだ!」
ヴァルガスの顔には、屈辱と怒りが入り混じっていた。
彼はゼウスに組みかかろうとするが、ゼウスさんは冷静に距離を取り、次の攻撃を待つ。
俺は、二人の死闘を食い入るように見つめていた。
ゼウスさんは、常にヴァルガスを殺す寸前のところで止めている。
それは、彼自身の「二度と人殺しの剣を抜かない」という誓いを、こんな状況でも守ろうとしているからだ。
その信念が、彼をどれほど強くしているのか、俺には理解できなかった。
ヴァルガスとの死闘が最高潮に達したその時だった。
「ゼウス!!」
背後から、聞いたことのある声が響いた。
俺が振り返った瞬間、視界の隅に、見慣れた男の姿が映った。
酒場の用心棒の一人、バルボだ。
彼は、ゼウスさんの味方だと信じていたはずの男。
その手には、血に濡れたナイフが握られている。
ゼウスさんは、ヴァルガスとの攻防の最中だった。
彼は、背後からの殺気に気づいていたはずだ。
だが、ヴァルガスとの距離、そして彼の攻撃を捌く体勢……。
一瞬の逡巡が、命取りとなった。
グサッ――!
鈍い音が、酒場に響き渡った。
バルボのナイフが、ゼウスさんの背中に深く突き刺さった。
ゼウスさんの顔が、苦痛に歪む。
彼の口から、血が、とめどなく溢れ出した。
「ゼウスさん!?」
俺は叫び、バルボに飛びかかろうとする。
だが、バルボはすでにナイフを引き抜き、恐怖に引きつった顔で後ずさりしていた。
彼の目には、後悔と、それでも生き残りたいという醜い欲望が入り混じっていた。
「ゼウス……!貴様を差し出すしか、俺たちが生き残る道はなかったんだ……!」
バルボは震える声で言い訳する。
その背後には、ヴァルガスが冷酷な笑みを浮かべていた。
「ほう、見事な裏切りだ。褒めてやろう」
ヴァルガスの声が、嘲るように響く。
ゼウスさんは、膝から崩れ落ちそうになる体を、かろうじて踏ん張り、ヴァルガスと、そして裏切ったバルボを睨みつける。
彼の背中からは、大量の血が溢れ出ていた。
「ゼウス……貴様は、その義の心が、結局貴様自身を滅ぼしたのだ!」
ヴァルガスは勝利を確信したように、斧を構え、倒れかかったゼウスさんに最後のとどめを刺そうと踏み出した。
俺は絶望に打ちひしがれた。
ゼウスさんは、こんなにも強いのに、仲間を信じすぎたばかりに……。
「ゼウスさん!俺が守ります!」
俺は、無我夢中でゼウスさんの前に立ち、護身用の棒を構えた。
震える足で、俺はヴァルガスを睨みつける。
ヴァルガスの斧が、容赦なく俺に振り下ろされる。