エピソード1始まりの物語
西日を浴びて、酒場「ブラッド・オアシス」の看板が赤く染まる。
今日も変わらぬ喧騒が店内に満ちていた。
エールがグラスに注がれる音、荒々しい男たちの笑い声、そして、アコーディオンの陽気な旋律。
俺、コウは、磨き上げられたカウンターの向こうで、ゼウスさんの隣に立っていた。
「おい、コウ。そのグラスの拭き方じゃ、泡立ちが悪くなる。もっと丁寧にやれ」
ゼウスさんの声は、いつも通り静かで、しかし芯が通っていた。
俺は慌ててグラスをもう一度、慎重に磨き直す。
「すみません、ゼウスさん!」
「ったく、お前は本当に不器用だな」
そう言いながらも、ゼウスさんの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見るたびに、俺の胸は温かくなる。
ゼウスさんは、この荒野で野垂れ死にそうになっていた俺を拾い、この酒場で生きる場所を与えてくれた恩人だ。
彼は、かつて冷酷無比な暗殺王だったと聞いている。
だが、今のゼウスさんは、この酒場の誰もが信頼を寄せる、温かく、そして圧倒的に強い男だ。
酒場の入り口の上に飾られた、彼のショートソード。
あれは、この酒場では決して武器を抜かせないという、ゼウスさん自身の過去への戒めであり、同時に俺たちを守るという決意の象徴だった。
俺はいつか、ゼウスさんのように強く、そして誰からも信頼される男になりたいと心から願っていた。
その日の夕暮れ時、酒場の扉が乱暴に開け放たれた。
陽気な喧騒が一瞬で止まり、全ての視線が入り口に集中する。
そこに立っていたのは、見慣れない男たち。
彼らの纏う空気は、この酒場の明るい雰囲気とは似ても似つかない、凶悪なものだった。
そして、その先頭に立つ男を見た瞬間、ゼウスさんの表情から、いつもの穏やかさが消え去った。
「ヴァルガス・スカルフェイス……」
ゼウスさんの声が、まるで凍りついたかのように低く響いた。
ヴァルガス・スカルフェイス。
この荒野で悪名を轟かせるギャングのリーダーだ。
彼の顔には無数の傷跡が刻まれ、その冷酷な瞳は、俺たちを値踏みするように射抜いていた。
「まさか、貴様がこんなところでまっとうな商売なんぞをしているとはな、ゼウス」
ヴァルガスは嘲るように言った。
その声には、底知れない憎悪が込められている。
「随分と落ちぶれたものだ。伝説の暗殺王も、今じゃただの酒場の親父か」
「何の用だ、ヴァルガス」
ゼウスさんは、一歩も引かずにヴァルガスを見据える。
その瞳の奥には、いつもの鋭い光が宿っていた。
「用だと?ふざけるな!」
ヴァルガスは一歩踏み出し、その巨体が威圧的に迫る。
「貴様が俺の兄弟を殺したことを、忘れたとでも思ったか?この十年、貴様を捜し求めてきたぞ、ゼウス!」
酒場にいた客たちは、ヴァルガスの言葉に動揺を隠せない。
兄弟を殺した?ゼウスさんが暗殺者だったという話は聞いていたが、まさかこんな深い因縁があったとは。
「俺は、過去の因縁をここに持ち込むつもりはない」
ゼウスさんは静かに言い放った。
「ここは、荒野のオアシスだ。争いを望むなら、ここを出て行け」
「ハッ!相変わらず面白いことを言うな。だが、残念だったな、ゼウス。今日は貴様を、そしてこの酒場を、血の海に変えてやる!」
ヴァルガスの言葉を合図に、彼の部下たちが一斉に動き出した。
酒場内に緊張が走る。
俺は反射的に、カウンターの下に隠してあった護身用の棒を握りしめた。
手が震える。まだ未熟な俺にとって、この状況はあまりにも絶望的だった。
「ゼウスさん……!」
俺はゼウスさんに呼びかけるが、彼の目はヴァルガスから離れない。
その時、ヴァルガスは一歩、また一歩とゼウスさんへと近づき、酒場の入り口に飾られたゼウスさんのショートソードを、ニヤリと見つめた。
「おや?そう言えば面白いルールがあるんだったな。武器を抜かせない?ならば、貴様もその剣を抜くなよ、ゼウス」
ヴァルガスの言葉に、酒場内の空気が一瞬で凍りついた。
ゼウスさんのショートソードは、この酒場のルールそのものだ。
それを抜くことは、彼自身の過去の戒めを破ることに他ならない。
「ルールは、この酒場を訪れる全ての客に適用される」
ゼウスさんは低い声で答えた。
「俺自身も例外ではない」
「そうか。ならば、俺は遠慮なくこのルールを破らせてもらうぞ」
ヴァルガスはそう言い放つと、腰に提げていた巨大な斧を抜き放った。
その刃が、酒場の照明に鈍く光る。
酒場内の人々から悲鳴が上がる。
俺も思わず息を呑んだ。
「貴様ら、全員殺せ!」
ヴァルガスの号令と共に、ギャングたちが酒場内に乱入し、客たちに襲いかかった。
酒場は一瞬にして地獄絵図と化した。
悲鳴、怒号、そして血飛沫が飛び散る。
「みんな、隠れろ!コウ、客たちを守れ!」
ゼウスさんの声が響く。
彼は自らの身を顧みず、ヴァルガスへと飛びかかっていった。
武器を持たないゼウスさんと、巨大な斧を振り回すヴァルガス。
その戦いは、一見すると不利に見えた。だが、ゼウスさんの体術は、まさに神業だった。
ヴァルガスの斧が振り下ろされる直前、ゼウスさんは紙一重で身をかわし、ヴァルガスの懐に飛び込むと、流れるような動きで相手の肘を固め、関節を極めた。
ヴァルガスの顔が苦痛に歪む。
「ぐっ……このっ……!」
ゼウスさんはヴァルガスの腕を捻り上げ、その巨体を軽々と投げ飛ばした。
ヴァルガスはテーブルを巻き込みながら床に叩きつけられる。
その圧倒的な体術に、ギャングの部下たちも一瞬怯んだ。
「ゼウスさん……!」
俺は息を呑んだ。
やはりゼウスさんは強い。
どんな状況でも、彼は俺たちの希望だ。
しかし、ヴァルガスはすぐに立ち上がった。
その顔には怒りがにじみ出ていた。
「このっ、貴様……!」
ヴァルガスは再び斧を構え、今度はさらに苛烈な攻撃を仕掛ける。
ゼウスさんは、その全ての攻撃を、卓越した体術と読みで捌き続ける。
時に相手の腕を取り、時に背後を取り、その度にヴァルガスを翻弄した。
だが、多勢に無勢。
他のギャングたちが、ゼウスさんに襲いかかってくる。
「邪魔だ!」
ゼウスさんは、ヴァルガスの部下の一人を鮮やかな回し蹴りで吹き飛ばし、もう一人の拳を避け、カウンターで顎を打ち抜いた。
男たちは呻き声を上げて倒れる。
しかし、次から次へとギャングたちが襲いかかってくる。
ゼウスさんの額には、薄っすらと汗が滲んでいた。
彼は酒場の仲間たちに目を向け、小さく頷く。
それは、全員に「戦え」とではなく、「生きろ」と告げているようにも見えた。
「ゼウスさん!俺も戦います!」
俺は叫び、護身用の棒を構えてギャングの一人に飛びかかった。
まだ未熟な俺の棒術は、ゼウスさんのようにはいかない。
それでも、俺は必死に棒を振るい、ギャングの動きを封じる。
ゼウスさんと俺、そして酒場の用心棒たちも加わり、一時的にギャングを押し返した。
しかし、ヴァルガスの数は圧倒的だ。
酒場の中は、ひっくり返った椅子やテーブル、割れたグラスの破片で足の踏み場もない。
「ふん、小賢しい真似を……」
ヴァルガスは冷酷な笑みを浮かべ、部下たちに指示を出した。
「おい、窓を壊せ!中から火を放て!」
ギャングたちが、酒場の窓ガラスを叩き割り始めた。
そして、何人かがたいまつを手に、油のようなものを撒き散らす。
このままでは、酒場が火の海になってしまう。
「ゼウスさん!火を!」
俺は叫んだ。
ゼウスさんも状況を把握している。
彼は一瞬、迷うように酒場の入り口に突き刺さった自身のショートソードに視線を向けたが、すぐに目をヴァルガスに戻した。
「ヴァルガス!お前たちも道連れだ!」
ゼウスさんは、怒りの声を張り上げた。
彼の体から、凄まじい闘気が迸る。
ヴァルガスは舌打ちをした。
「ちっ、思ったよりしぶといな、元暗殺王。だが、このままではジリ貧だぞ」
ヴァルガスは周囲を見回した。
酒場は既に壊滅状態。
彼の目的はゼウスへの復讐だが、この場所で完全に殲滅するには、こちらも犠牲を払うことになる。
ヴァルガスは眉間に皺を寄せた後、不敵な笑みを浮かべた。
「面白い。ならば、ここは一旦引いてやろう。だが、覚えておけ、ゼウス。貴様の首は、必ずこの俺が獲る」
ヴァルガスはそう言い放つと、部下たちに撤退を指示した。
ギャングたちは、壊れた窓から、あるいは正面の扉から、次々と酒場の外へと出て行く。
俺は呆然とそれを見送った。
酒場に残されたのは、荒れ果てた空間と、恐怖に震える人々、そして傷つき、それでも立ち続けるゼウスさんだ。
ギャングたちが去った後の静寂が、耳鳴りのように響く。
「ゼウスさん、大丈夫ですか!?」
俺は駆け寄り、ゼウスさんの肩を支える。
彼の体には、斧の刃が掠めたような深い傷がいくつもあった。
息も荒い。
「ああ、なんとか……な。だが、奴らは必ず戻ってくる」
ゼウスさんは、静かに言った。
その瞳の奥には、変わらぬ鋭い光が宿っていた。
「ここを、守らなければならない」
酒場の外からは、ヴァルガスたちの罵声が聞こえる。
彼らは決して諦めないだろう。
俺たちは、今、この荒野のオアシスに籠城することになったのだ。
これから始まる戦いは、俺たちが経験したことのない、過酷なものになるだろう。
だが、ゼウスさんがいる限り、俺たちは希望を捨てない。
俺は、ゼウスさんの隣で、固く棒を握りしめた。