生きる意味について
若者は「生きる意味」について真剣に悩む。
自分はこの世界に対し、いったいどのような爪痕を残し、影響を及ぼすことが出来るのかと四苦八苦する。まるで自分という存在には大義でもあるかように錯覚し、夢想する。
そう、すべては「錯覚」なのである。
時折、社会的に大きなことを成し得る人間もいる。だが、これも私から言わせれば、錯覚の産物に過ぎない。自己を妄信する人間が偶然、結果を出しただけのこと。
もちろん、他人のために尽くす人生というのは、素晴らしいことだと個人的にも思う。が、尽くしたという事実よりも先に評価を求める人間のなんと多いことか。結果は結果であり、結果は他人が評価するものである。
スポーツ選手などがよく口にする「感動を与える」という言葉がある。
私はこの言葉を吐く人間が現れるたびに、その者の評価を下げる。見た者がその者の表現に感動し、それを伝えるということ自体は全く問題ない。だが、それはあくまでも受け取り手側のからの評価である。にもかかわらず「与える」とほざく表現者の何と多いことか。勘違いも甚だしく、烏滸がましい。それが感動であったとしても、押し売りほど不愉快なものはない。
自分の人生の意味づけなどという者は他者に委ねてしまえばいい。自分がどれほど高潔に生きてきたつもりでも、他人から見れば品性下劣などということもままあるのだから。逆にいえば、他人からの評価を無視し、自分が振舞いたいように生き、その上で認められたいという願望は自己矛盾に他ならない。
意味などというものを真面目に考えるのは時間の無駄である。
自分好みの評価をつけてくれる奇特な人間たちと知り合い、気分よく生きることにこそ、人生の楽しみがある。大した行動力もないのに、先に結果ばかりを求めるという行為こそが「無意味」というものだ。




