棘の少年と傭兵04
「着いたぞ」
目の前には、すぐそこに故郷が広がっている。幾つかの家の煙突からは煙が出ている。暖炉に火をつけているのだろう。夜だから分かりにくいが薔薇の畑も小さく見える。村の入り口には東西南北に銀のアーチが置かれているから分かりやすい。複数の店が並ぶ通りにはさすがに光はなかった。
「帰って、来たのか……」
進んでいけば「ようこそ」と書かれた看板が立っていた。これを書いたのは弟だ。当時は幼くて、けれど弟はすでに文字をマスターしていた。両親は喜び弟を褒めたものだ。
遠くの教会が目に映った。薔薇の畑の中央付近に建てられたその教会は普段は使われない。それは誰かが死んだ時のみに使われるもので、いつもは村の村長の家の隣にある小さな教会を使っている。一つの村に二つの教会があるのは珍しいことだと、仲間と話していた時に気が付いた。
思えば僕はこの村を出たことがなかった。軍隊に徴兵されて初めてここを出た。最初で最後の遠出が戦争とは皮肉なことだ。これに関しては弟も同じ。両親は弟を可愛がるあまり、危険な目にあってはいけないと言い弟を村から出そうとしなかったのだ。
……僕の場合はただ行く場所がないから出なかっただけだが。
「依頼は遂行された。これで終わりだ」
そういえば、そうだった。僕はレオンに村までの護衛を頼んだわけで、着いてしまったら終わりだ。
「ああ、えっと、その、ありがとう」
本音を言えばもう少し一緒にいて欲しい気もした。誰だってこんな真夜中に一人ぼっちにはなりたくない。でも、旅人である彼を引き留めていいものか。
「…………俺はこの村を知らない。案内を頼む」
もしかしたらレオンは僕の顔を見て気を使ってくれたのかもしれない。提案はレオンから出されたのだった。
「もちろんだ。任せてくれ」
そうして案内を開始する。
「あそこは昼間は八百屋だよ。野菜を売っているけれど、たまにパンも売っているんだ。陽気なおばあさんがやっている店さ。あっちは木材を扱っているんだ。火を焚くためにね。そうでなくても、ちょっとした家具もあるよ。あそこは教会のシスターの家。教会の隣の他よりも大きい家が村長の家だよ。村長は五十代のおじさんでね。怒らせると面倒な人だ。昔、僕も怒られてさ。大したことじゃなかったのに、三時間もこってり怒られたんだ」
話していくうちに、自分は意外とこの村について語ることがあったのだなと気が付いた。こんな村に、思い出も思い入れもないはずなのに。故郷とはそういうものなのだろうか。
「あの家は、ちょっと頭のおかしい人が住んでいる。昔は優しい婆さんだったけど、戦争で息子が死んでから狂ってね。仕方がないといえば仕方がないけれど、二十代の男を見るとたまに息子と勘違いして家に呼ぶんだ。本当に可哀そうな人だよ。……とにかく、レオンも気を付けたほうがいい。二十代でしょう?」
後ろを付いてくるレオンに忠告する。
「俺は、大丈夫だろう」
「……レオンって、何歳なの?」
筋肉質だが細い、よく鍛えられた身体。肩につかない長さの髪は銀髪に見えるが月の光によく反射していて優しい青にも見える。何色なのかは朝になって明るくならないと分からなさそうだ。瞳は淡い月の色で宵闇ではよく目立つ。まるで猫の目のように敵を鋭く見つめるはっきりとした二重の目。旅をしているという割には少ししか焼けていない健康的な肌。
見た目から推測するに三十歳にはなっていないだろう。二十代後半といったところだろうか。最後に故郷へ行ったのが十年ほど前ならば、十代後半の時に家出でもしたに違いない。
「二十八だ」
「じゃあ、ちょうど婆さんの息子くらいだよ。気を付けて」
「その青年は、どんな人だったんだ」
「どんなって、そうだなぁ、誰にでも優しい奴だったよ。僕のことを馬鹿にしなかった。助けも、しなかったけれどね、はは、でもあいつは生まれつき身体が弱くて、戦争なんて無理があった。行けば死ぬことなんて分かりきっていたんだ」
「ならば俺と間違うことはないだろう。俺は優しくなどない」
「じゃあ、なんで僕を助けたんだ……?」
見捨てればよかっただろうに。僕も敵も殺してしまえば。彼にはその強さがあるのだから。それなのにレオンは僕を助けた。報酬は金銀財宝じゃないのに。
「依頼だからだ」
素っ気ない返事だったが、どうしてかレオンの表情は悲しげだった。そして僕が何かを言う前にレオンが話題を変えてしまった。
「親に会わなくていいのか」と。
「会った方がいいぞ。どんなに嫌いな相手でも、お前の、ティナの親だ」
──例え偶像だとしても、崇拝した方が良いのだろうか。
故郷も、家族も、仲間も。
薔薇よりも鋭い棘を持つ者たちでも、愛した方が良いのだろうか。
もしかしたら、壊れているのは僕なのかもしれない。
家族は愛すべきだと昔から人は言う。
子供は親を敬い、愛し、守る。
それが普通だとしたら弟が例外だっただけで、他の子供たちは親の理不尽さすらも愛しているのかもしれない。
──おかしいのが僕ならば、どうすればいいのだろうか。
「会ったら……喜んでくれるのかな」
その問いに、レオンは一瞬戸惑って、そして言った。
「喜んで、くれるさ」
彼は僕を見ずに、薔薇の咲き誇る方角を見つめていた。
「じゃあ、会ってこようかな」
「ああ、それがいい。俺はここにいる」
「そっか。ありがとう」
僕は白み始めた空の下にレオンを残して、歩き始めた。
半年ほど足を踏み入れていなかった家に向かって。
***
「……こんな時間に、いったいどなたですか」
ノックした家のドアから出てきたのは、目を擦って赤くさせた母親だった。充血しているようにも見える。
「あ、れ、ファナティナ?」
僕の姿を見た母親は、目元を擦るのをやめた。そして少しだけ瞳孔を大きめに開く。
「ただいま、母さん」
僕はそう言った。上手く笑えていたかは分からない。
久しぶりに見る母の姿は少し年を取ったように見えた。白髪が生え始めた茶髪は、さっきまで寝ていたのかぼさぼさだ。化粧もしていない。
──これは感動の再開だと、思っていた。
「帰って来たの? 死ななかったのね。部屋はそのままだから好きにしなさい」
母は右手を振って奥へ下がっていく。部屋へ戻って再び寝るのだろう。顔を左手で抑えているのは、あくびを堪えるためか。
──偶像は、やはり偶像だった。