60.親子水入らず
「ねえプリシラ、ちょっと寂しいと思わないかい?」
「奇遇ねレイヴン、私も同じことを考えていたの」
ある日、帝都の屋敷で、二人はそんなことを言い合っていた。
ジゼルはこの二年で、とても立派になった。学園に通い、友人を……一部、とんでもない友人もいたが……作り、日々を楽しく過ごしていた。
それどころか彼女は、混乱に陥った帝国を救うため立ち上がり、そしてなんと、帝国に平和をもたらしてしまった。しまいには、幼子でありながら帝国の統治にほんの少しだけ関わってしまうようになった。
二人はそんな娘のことを、誇りに思っていた。しかし同時に、少し複雑な思いを抱えてもいたのだった。あの子はまだ八歳なのに、すっかり大人びてしまって、と。
「あの子が真新しいカバンを背負って、初めて学園に登校したあの日が、ずいぶん昔のことのように思えるよ……」
「そうね。日に日にしっかりしていって、もう立派なお姉さんだわ……」
「私があれくらいの年齢だった頃は、毎日友人たちと遊びまわっていたなあ……帰るのが遅くなって、親に叱られるくらい」
「私もよ。剣術同好会の活動が楽しくて、せっせと体を鍛えていて……稽古着を毎日土埃まみれにするから洗濯が追いつかないって、メイドたちが苦笑してたわ……」
そうして二人は、同時にため息をつく。
「でも、ジゼルはとっても聞き分けがよくて……」
「私たちを困らせるようなこともないし……」
そのまま二人は、ぴたりと黙り込んだ。しかし次の瞬間、ふっと笑顔を見かわす。
「……いつか子供は、親から巣立っていく。でもそれは、もっともっと先のことだね」
「ええ。あの子がいくら大人びていても、驚くほど有能でも、でもあの子はやっぱりまだまだ子供なのだから」
「よし、だったら私たちは親として、きちんとなすべきことをしようか!」
「そうね、レイヴン! こんなところで落ち込んでる場合じゃなかったわ!」
そうして、二人が同時にうなずいた。さっきまで遠い目をしていた二人の顔には、何やら決意のようなものが浮かんでいた。
その少し後の休みの日、ジゼルは両親に連れられて馬車に乗っていた。馬車は帝都を離れ、静かな森の中を走っている。
「ねえ、きょうはどこに行くの?」
きちんと座席に座ったジゼルが、小首をかしげて両親を見る。彼女の膝の上では、ルルがこりこりとクルミをかじっていた。
そんな彼女に、レイヴンとプリシラがとびきりの笑顔で答える。
「別荘だよ。いいところが借りられたんだ」
「きっとあなたも気に入るわ」
この帝国には、貴族たちが自由に使える別荘がいくつもある。帝国が所有、管理しているものだ。
貴族たち――に限らず、それなりに裕福なものであって、人品卑しからずと他者が保証する者――であれば、しかるべき手続きを経ることで別荘を借りることができる。
せいぜい年に一度滞在するかどうかといった程度の建物を維持するために、財や人手をつぎ込むのも大変だ。
そんな貴族たちの事情と、良い立地の別荘を多くの者に楽しんでもらいたいという帝国側の思惑がかみ合って、こんな仕組みができたのだった。
「せっかくだから、君と遊びたかったんだ」
レイヴンはまるで子供のようにうきうきとした表情で、向かいのジゼルに話しかけていた。
「昔みたいにピクニックとか、あるいは街歩きなんかも考えたのだけど……」
プリシラはそう言って、隣のジゼルの頭をそっとなでている。
「たまには静かなところでのんびりするのもいいんじゃないかしらって、そう思ったのよ。ほら、あなたは最近、ずっと忙しくしているし……」
「そうそう。ここらでゆっくりと、羽を伸ばすのもいいだろう?」
「うん!」
実のところジゼルは、このところちょっぴり疲れていた。学園でのあれこれに加えて、帝城にも顔を出すようになっていたから。
前世が女王だったということもあって、彼女は帝城という場所自体に気後れするようなことはない。
けれど帝城では、貴族の令嬢らしく、そして普通の子供らしく、それなりに行儀よくふるまっていなければならない。生まれ変わってからは自由に過ごしていた彼女にとって、それはちょっぴり肩の凝ることだったのだ。
もっとも、あの内乱の名残で揺らぐ帝国を落ち着かせるためにカイウスが苦労していることを知っているから、彼女は黙って彼に協力していたけれど。
ジゼルが子供らしい無邪気な笑顔を見せたことに、両親がほっと胸をなでおろす。
「それじゃあ今日は、のんびりと森歩きにしようか。リスやウサギがたくさんいる、楽しい森だって話だよ」
「ウサネズミたちと森のリス、仲良くなれるかしらね?」
プリシラのその言葉に、馬車の中にいたウサネズミたちが一斉に声を上げた。それはとても、張り切った声だった。
そうして三人とウサネズミたちは森でのんびり過ごし、存分に羽を伸ばしたのだった。ウサネズミたちにつられたように次々と顔を出すリスたちに、ジゼルたちは歓声を上げていた。
ジゼルがそろそろとウサネズミたちのおやつ用に持ってきていた木の実を差し出すと、ウサネズミたちとリスたちが仲良く並んで食べ始めた。
やがて、興味をひかれたらしいウサギたちが近くの茂みから姿を現し……あっという間に三人の周囲には、たくさんの生き物たちが集まってしまっていたのだ。
「ああ……可愛い生き物に囲まれる愛娘……天使のようだ……」
「ええ、視界に可愛いものしかいないわ……」
静かな森の中、レイヴンとプリシラはうっとりとしながらそんなことをささやき合っていた。
夕方ごろ別荘に戻ってくると、屋敷から連れてきた料理人たちが腕によりをかけてこしらえた、とびきりのごちそうが彼女たちを待っていた。
わいわい騒ぎながら夕食をとり、食後のお茶で一息ついていると、プリシラがそわそわした顔で立ち上がった。
「さあ、そろそろ一番のお楽しみよ!」
そうしてプリシラに先導されるようにして、ジゼルたちは別荘の中を歩く。やがて、プリシラはバルコニーにつながるガラス戸の前で足を止めた。
「ほら、きれいでしょ? この別荘、このバルコニーからの光景が有名なの」
バルコニーの下、すぐ近くには湖が広がっていた。夜空の星を映して、湖面はきらきらと輝いている。辺りには人の気配もなく、しんと静まり返っていた。
その光景に、ジゼルは何も言えずに立ち尽くす。両親はそれを、この光景の美しさに圧倒されたのだと思っていた。
けれど、事実は違っていた。ジゼルは、前世のことを思い出してしまっていたのだ。
目の前の光景は、前世の自分、エルフィーナが王宮で見ていたものと、どことなく似ていたから。
かつてエルフィーナは、よくこうやってバルコニーから夜の湖を眺めていた。ほんのひと時だけでも、自分が置かれた苦しい状況を忘れるために。
たまに、ヤシュアがそばにいることもあった。でもほぼいつも、彼女はひとりきりだった。王国を立て直すために必死に働き続けていた彼女には、心を許せる相手がろくにいなかったから。
そんな彼女は、湖に映る星々をうらやましく思っていた。互いに寄り添うようにして、いつも変わらず輝く星々は、みんなで仲良く笑いさざめきあっているように見えたから。
けれどもちろん、レイヴンもプリシラも、ジゼルのそんな過去を知らない。二人は純粋な厚意から、ジゼルをここに連れてきてくれたのだ。
ジゼルは、笑おうとした。いつものように無邪気に笑って、礼を言おうとした。けれど彼女は凍りついたかのように、動けずにいた。
肩の上に乗ったルルが、心配そうにちちぃと鳴く。しかしその時、いきなりどぼんと大きな水音がした。
「ん、何事かな?」
レイヴンがそう言って、音がしたほうに近づく。ジゼルもぶるりと小さく身震いして、そちらに歩み寄っていった。
「何か大きなものが落ちたような気がしたけれど……」
プリシラが首をかしげながら、バルコニーの手すりをつかんで下をのぞき込む。レイヴンとジゼルも同じように下を見て……同時に笑った。
「スライム、なにしてるの?」
「さっきの音は、君が飛び込んだ時の音だったのか……」
「あなたの体にも星が映って、きれいねえ」
三人の目の前、湖面に何か、透明なものがぷかぷかと浮かんでいる。それは星明りを受けて、つやつやと輝いていた。
ぷるぷるのこの塊、スライムは、ジゼルたちの目を盗んでバルコニーの端に近づき、そこから湖に飛び込んだのだった。
スライムは体の一部を腕のように伸ばし、ひらひらとジゼルたちに振っている。
『きれい、みず、すき。ごくらく、ごくらく』
そしてルルが、そんなスライムの言葉を通訳していた。もっとも当のルルは、水に飛び込むなんてとんでもない! という顔をしていたが。
そのままスライムは、悠々と湖面を泳いでいる。そこに映る星々を、ゆらゆらと揺らしながら。
「ふふっ……」
自然と、ジゼルの顔に笑みが浮かんでいた。星々とたわむれるスライム、そしてそんなスライムを楽しげに眺めている両親、湖に落ちないよう互いに支え合いながら、そろそろと湖面を見つめているウサネズミたち。
そんな姿を見ていたら、前世の寂しさも、やるせない気持ちも、全て吹き飛んでしまっていたのだ。
今彼女の目に映っているのは、ただひたすらに美しく、そしてとびきり温かな光景だった。
「……あのね」
両親たちを見つめたまま、ジゼルがぽつりとつぶやく。
「わたし、パパとママの子どもで、ほんとうによかった」
その言葉に、全員がジゼルのほうを振り返った。スライムもにょーんと体を伸ばして、バルコニーの手すりに上ってくる。
「……ありがとう」
底抜けに優しい笑顔で、ジゼルはそう言った。とたん、レイヴンとプリシラが同時に涙目になる。
「ああ……! 礼を言うのは私たちのほうだよ。私も、君が私たちのところに生まれてきてくれてよかったと、神に感謝しない日はないんだから」
「そうよ。あなたが私たちのところに来てくれてから、私たちは毎日がとっても幸せなの」
口々にそういったかと思うと、二人は同時にジゼルに突進し、そのまま力いっぱい抱きしめてしまった。
「パパ、ママ、ちょっと苦しいかも……」
「ああ、ごめん。でももう少しだけ、この感動にひたらせてくれ……!」
「ええ、ええ! この思いを他にどう表していいのか、分からないのよ!」
ちちい。
そうやって人間たちが抱き合っているのが面白かったのか、ルルたちもぴょんぴょんと近づいてきて、三人の頭やら肩やらに張りついている。スライムもそろりとやってきて、とんとんと三人の背中を優しく叩いていた。
状況を知らないものが見たら、三人が召喚獣たちに襲われていると思ったかもしれない。けれどこの姿は、ジゼルにとっては間違いなく、とびきりの幸せを表しているものだった。
「……ほんとうに、しあわせ……」
両親と召喚獣たちにもみくちゃにされながら、ジゼルは目を閉じて、笑顔でそうつぶやいていた。
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