57.律儀な皇帝と幸せな天才少女
窓辺に、一人の青年が立っていた。
丁寧に整えられたエメラルド色の髪に、知性と強い意志を感じさせる金色の目の、立派な風采の男性だ。
豪華な服に身を包んだ彼は、しかしそわそわと落ち着かなげに視線をさまよわせていた。やけにちらちらと、入り口の扉を見ている。
その時、扉が叩かれる音がした。
「入れ」
すかさず彼がそう答えると、ゆっくりと入り口の扉が開く。
「ただ今、参りました」
そんな言葉と共に入ってきたのは、愛らしい少女だ。
長い夕焼け色の髪が目を引く、生き生きとした雰囲気の少女だった。幼い子供から一人前の女性になる途中の、バラのつぼみのような美しさを備えている。
彼女の姿を見た青年は、ぱっと顔を輝かせる。
「ああ、やっと来てくれたな。ここには俺しかいないから、楽にしていいぞ」
「いきなり呼び出されて驚きました。それも、こちらの……私室に呼ばれるなんて」
「本当なら、俺がそちらに出向いていくべき用件なんだ。けれど昨日帝城を脱走したせいで、執務がたまってしまっていてなあ……今日も脱走したら、宰相に泣かれる」
堂々とした見た目からは想像もつかないほど軽やかに話す青年に、少女はたいそう親しげに話しかけている。
「やっぱり、脱走してたんですか……昨日は『ちゃんとみんなの了解を得てきた』って言ってましたよね、皇帝カイウス陛下?」
「仕方ないだろう。待ちに待った、お前の十四歳の誕生日だぞ。何をおいても祝いに行きたかったんだ。なあ、ジゼル」
少女――ジゼルは昨日、十四歳になった。そして彼女を呼び出したこの青年はカイウス、この帝国の頂点である皇帝だ。二十六歳になった今も独身であるため、あちこちの令嬢たちにあわよくばと付け狙われている。
「その、カイウス様に祝ってもらえたのは、とても嬉しかったです……わざわざうちのパーティーに来てくれて、パパとママも大喜びでしたし」
「そうだな。困難を乗り越えて出席したかいがあったよ。久々にお前の召喚芸を見ることもできたしな。耳が翼になった犬なんて、初めて見た」
「あれは芸じゃないです。みんなに頼まれたから、ちょっと見せただけで」
「芸だろう。指で宙にくるっと丸を描いただけで召喚獣を呼び出すんだからな。本当に恐ろしい天才少女だよ、お前は」
三歳にして召喚魔法の使い手となったジゼルは、七年前の内乱を切り抜ける中でその才能を開花させた。そうして、召喚魔法の常識をひっくり返したのだ。
かつて、召喚魔法において用いる魔法陣は、その文様そのものに重要な意味があるのだと考えられていた。
しかしジゼルは、そうではないことを偶然発見した。魔法陣の文様は、術者が召喚魔法を使う手助けをしてはくれるが、決して必須のものではない。
熟練した術者であって、そして異世界となじみの深い者であれば、魔法陣を省略していくことも可能なのだ。
極端な話、円一つあれば召喚魔法を発動させることができる。
魔力を込めた線で空間を区切り、異世界から召喚獣がやってくる入り口を作ることさえできればいい。それ以外の魔法は、強く念じることで線に直接こめることができるのだ。
ジゼルは偶然、そのことを発見した。七年前の内乱の中で。
危機の中、彼女はとっさに一番なじみのある異世界――ルルたちウサネズミの故郷だ――への通路を作り、そこから大きなワシを呼び出した。それも、一瞬で。
それから彼女はその現象について研究と考察を重ね、あの時と同じようにただの円から召喚獣を呼び出すことに成功した。
とはいえ感覚頼みの部分が大きいためか、あるいは才能によるものなのか、ジゼル以外の人間はまだ成功していない。
それにジゼルも、安定して召喚獣を呼べるところまで来ていない。どこの異世界につなぐか、どれくらいの大きさの召喚獣を呼ぶかといったことは制御できるものの、何が出てくるかまでは読めないのだ。
「天才って呼ばれるの、やっぱり慣れないんですが……あ、そうだ。それより、私をここに呼んだ理由を聞いても?」
照れくささをごまかすように、ジゼルが話をそらす。カイウスは気を悪くした様子もなく、すっと姿勢を正した。
「俺はお前が十四歳になったら、本気で求婚する。前に、そう宣言してたよな。だからさっそく、今日から始めようと思うんだ。……昨日は、さすがに……両親の前で口説く訳にもいかなかったしな」
真剣に、そして朗らかに言い放つカイウス。
一方のジゼルは、自分の耳が信じられないといったような表情をしていた。気まずそうな声で、そろそろと言い返している。
「……あれって、本気だったんですか。……でもやっぱり、まだ早くないですか? その、もう二年くらい待ってみては……」
「本気に決まってるだろう。それにもう待てない。まったくお前は、俺の決意を受け流すのがうまいな。今も、前世も」
「前世って……」
「覚えてないか? 俺はかつて、エルフィーナ様に言ったんだよ。頑張って勉強して、いつかあなたの力になります、ってな。たぶんあの時は、子供の言うことだと思われて流された気がする」
その言葉に、ジゼルはさらに難しい顔をして考え込む。うんうんうなっていた彼女が、ふと何かを思い出したような表情になった。
「そういえば、そんなこともあったような……」
「思い出してくれたか。……まあ、結局その約束は守れなかったんだがな」
寂しげな顔になるカイウスに、ジゼルが優しく声をかける。慰めるように、励ますように。
「今、私たちはこうして一緒にいます。それに私は色々と、カイウス様に助けられてきました。ですから、約束を守れたって言ってもいいんじゃないですか? ちょっと立場が変わりましたけど」
そう言って、彼女はくすりと笑った。ひどくくすぐったそうな、愛らしい笑みだ。
「前世で文通していた子供が、私より年かさの青年になってしまうなんて……あの頃は、思いもしませんでした」
「俺もだ。王国の内乱の知らせを受けた時は、世界が崩れ落ちたかのような絶望に襲われたよ。だから十年前、お前と出会った時は本当に嬉しかった」
「あの時カイウス様は、私がエルフィーナだってすぐ気づいたんですよね。でも私はカイウス様のこと、言われるまで気づきませんでした」
そこでふと、ジゼルが口をとがらせた。悔しそうな顔で、そっとカイウスを見据える。
「あのちっちゃなカイウスが、堂々とした皇帝カイウス陛下になっているなんて想像もしませんでした。髪も目の色も全く同じなのに……似てないんです」
それを聞いたカイウスが、静かに笑ってジゼルに近づく。
「ああ、そうだろう。俺は努力して、立派な一人前の男になったからな。もう、弱くて何もできない子供じゃない。エルフィーナ様の名誉も、きちんと回復したからな」
今はもう、帝国の一部となったかつての王国。彼はそこで、エルフィーナの思いを、その苦しい道のりを、民に伝えることにしたのだ。
それが民を後悔の底に叩き落とすかもしれないと分かっていても、彼はそうせずにはいられなかった。
そうして、歴史は正された。愚王の娘、悪逆の女王エルフィーナは、民のために尽くした慈愛の女王として語り継がれることになったのだ。
彼はその時のことを思い出していた。それだけで、彼の胸には達成感が満ちるのだった。消えることのない悲しみのひとかけらと共に。
ふと、彼の声が寂しげにくぐもった。
「……でも、お前が俺のことにちっとも気づいてくれなかった、そのことは少々悲しかったかもな」
「ご、ごめんなさい」
目を丸くしてあわてて謝るジゼルに、カイウスはまた笑いかけた。とても穏やかに、そして妙にあでやかに。
「冗談だよ。それより、ここからは本気でお前を口説き落とす。覚悟してくれ」
「え、ええっ?」
カイウスはジゼルのすぐ目の前までやってくると、流れるような動きでひざまずいた。彼女の手を取り、その甲に口づける。
ジゼルの顔が、みるみるうちに赤くなる。
頬をつややかなリンゴの色に染めたまま、彼女はずっと下にあるカイウスの姿を見つめていた。まつげを戸惑いに震わせて、小さな唇をかすかに開いて。
彼女は気づいていなかったが、その様はまるで恋する乙女のようだった。
カイウスはそんな彼女の顔を満足げに見つめ、ほうと甘いため息をつく。彼女の手を取ったまま立ち上がり、もう片方の手を彼女の肩にかけようとした。
しかし彼は、そのままの姿勢で固まってしまった。じっとジゼルを見つめたまま。
そうして、今度は切なげに息を吐いた。
「……ああ、困ったなあ。どうしたらいいんだろう」
困惑と、かすかな喜びをにじませたその声に、まだ真っ赤なままのジゼルが小首をかしげる。カイウスは彼女から視線をそらして、無念そうにつぶやいた。
「俺は、お前が大きくなったら堂々と思いを告げられるって、そう考えてたんだよ。昨日のお前の誕生日、その日をずっとずっと待ってた。待ち遠しくて、楽しみで仕方がなかった」
子供のように純真な表情で喜びを表していた彼が、やはり無垢な顔で困ったように笑う。
「でも、お前が美しくなりすぎて、どうしたらいいか分からないんだ……」
ジゼルは、ただそんな彼に見とれていた。
初めて会った時から、彼は本当にたくさんの顔を見せている。堂々たる皇帝としての顔、軽やかで人懐っこい研究生としての顔。
そしていま彼が見せているのは、初恋の喜びに打ち震え、それゆえに戸惑っている男の顔だった。
そんな彼に、どう言葉をかけていいか分からない。
彼女はまだ十四歳の少女だ。前世ではもう少し長く生きていたけれど、その人生の後半は、ずっと執務に明け暮れていた。勉学や魔法においては優秀な彼女は、恋愛の駆け引きについてはまるで無知だった。
悩みに悩んで、ジゼルはゆっくりと口を開く。
「……私の姿は少しずつ、エルフィーナに近づいています。そのせいじゃないですか?」
彼女は、この甘い空気が落ち着かなかった。できるだけ当たり障りのないことを言って、いつもの空気を取り戻そうとしたのだ。
けれどとっさに見つけてきたそんな言葉に、なぜか彼女自身がいら立ってしまう。どうしてそう感じるのか分からなくて、さらに難しい顔になってしまう。
そのことに気づいたカイウスは、甘く優しい笑みを彼女に向けた。嬉しくてたまらない、そんな笑顔を。
「確かにお前は、エルフィーナ様に似てきた。でも、違う。もっと生き生きとしていて、もっと幸せそうだ。そのおかげか、もっと美しく思える」
カイウスの言葉に、ジゼルははっとして、それから考え込むような顔になる。
「……私には、エルフィーナとしての記憶もあります。ひとつながりの長い人生を歩んでいるような、そんな感覚なんです」
無意識のうちにカイウスの手をぎゅっと握りながら、彼女はぽつぽつと話していく。
「だから私が幸せそうに見えるのなら、元気そうに見えているのなら、それはカイウス様やみんなのおかげなんです。それらの出会いが、私を幸せにしてくれたんです。不幸のどん底にいた私を」
それを聞いたカイウスが、きゅっと目を細めた。泣きそうな顔で、彼は微笑む。
「そう、か。……俺は、お前の幸せの礎になれたのか。今度こそ、お前の力になれたんだな。ああ、嬉しいなあ」
ジゼルは目を丸くして、そんな彼の顔を見上げていた。その頬が、またしても赤く染まる。リンゴの赤ではなく、桜の淡い紅色に。
カイウスの金の目と、ジゼルの若草色の目が、すぐ近くで向かい合う。カイウスの手が、自然とジゼルを抱き寄せようとしていた。
二人の距離が、ゆっくりと近づく。
しかしその時、きいと音を立てて入り口の扉が薄く開いた。その隙間から、ウサネズミの群れがぞろぞろと入ってくる。二人はあわてて離れ、そちらに向き直った。
先頭の一匹は一番大きくて、年季の入ったリュックを背負っている。その隣には、やや小柄な一匹が寄り添っていた。
さらにその二匹の後ろには、小さな子供のウサネズミがぞろぞろと列をなしている。とびきり小さな足でちょこちょこと器用に歩いているその様は、とても可愛らしいものだった。
「あ、ルル! 今日は家族で遊びにいってたんじゃないの? 奥さんと子供たちと、水入らずで」
ジゼルが手を差し伸べると、ルルたちが一斉に彼女の手に、肩に飛び乗った。子供たちにいたっては、我先にと競うようにして彼女の頭に登ってしまっている。
さらに扉が開いていき、今度は少年と少女が顔を出した。少年は申し訳なさそうに、少女はどことなく開き直ったような様子で。
「セティとアリアまで、どうしたの?」
そう呼びかけられた二人は、そのまま部屋の中に入ってくる。
セティは成長するにつれ、前世の姿であるリッキーに似てきていた。しかしその体はすらりとしなやかに引き締まっており、表情もずっと凛々しくなっていた。
もしセティを牢にいるヤシュアと会わせたとしても、ヤシュアは彼が自分の弟の生まれ変わりだと気づくことはないだろう。それくらいに、印象が違っていた。
そしてアリアは、儚げな雰囲気の美しい少女に育っていた。幼い頃のおどおどとしたところは薄れていて、表情にも落ち着きが出ていた。
「その、お二人の邪魔をしてはいけないと、そう思ったのですが」
「宰相が泣いてました……カイウス様が執務室に戻ってこないって」
「なので、僕たちがカイウス様の様子を見にいくことになったんです」
「泣きつかれたら、断れない……」
セティとアリアは、まるで打ち合わせたかのように交互に話している。
「それでここまで来たものの、どうしたものかって困っていたんです」
「そうしたら、通りがかったルルたちが扉を開けてくれました。ドアノブに紐を結んで、全員で引っ張って……」
それを聞いたカイウスが、天を仰いで小声でうめいた。それから、ジゼルの肩の上にいるルルをにらみつける。どことなく、ふてくされたような顔で。
「ルル、お前も理解してるんだろ? ここは皇帝の私室だぞ? いいところを邪魔するな」
しかしルルは少しもひるむことなく、ベルトに挟んだ小さな旗を両手に持ちきびきびと振る。その姿を見て、子供ウサネズミたちが憧れの目をルルに向けていた。
「ん? 『ここ、皇帝の部屋だけどカインの部屋。友達の部屋。それに、宰相泣かせるの駄目』……言うようになったな、お前」
子供と妻にかっこいいところを見せられて得意げに胸を張るルルに、カイウスも苦笑していた。
そんな彼の袖を、そっとジゼルが引く。
「カイウス様、宰相のところに行きましょう。私でよければ、手伝いますから」
ジゼルにセティにアリア、まだ十四歳とはとても思えないほど知的で有能なこの三人は、七年前カイウスの思いつきにより、帝城の内政に関わるようになっていた。
最初は、ほんの少しだけ。けれど徐々に関与する範囲が広がっていって、今では皇帝の執務を手伝うことすらあった。
「でしたら、僕たちも手伝います。君も今空いてますよね、アリア」
「うん。みんなでやればすぐに終わる。……宰相に、伝えにいこう」
セティとアリアがそう言って、そそくさと部屋を出ていく。それを見送って、カイウスが深々とため息をついた。
「皇帝って、不便だよなあ。いっつも執務に追われて、大切な人に思いを告げる時間すらろくに取れやしない」
カイウスはそう言ってぼやきながら、しょんぼりとうつむいている。そんな彼に、ジゼルがそろそろと声をかける。
「あの、その話なんですけど……あなたの思い、聞きたい……です。……ただ、その……手加減してもらえると助かります。私、そういうのに不慣れなので」
ジゼルの頬は、ちょっぴり赤かった。勇気を振り絞ったのだろう彼女の言葉に、カイウスが満面に笑みを浮かべる。
「よし、だったら執務を早く片付けて、お前を口説く時間を作ろう。お前とやりたいことが、山のようにあるんだ」
あっという間に立ち直ったカイウスに、ジゼルが目を白黒させている。カイウスはうきうきとした声で、軽やかに話し始めた。
「今まではカインとしてお前と遊ぶことしかできなかったが、これからは皇帝カイウスとして堂々とお前を遊びに誘える。楽しみだなあ」
「手加減してって、言ってますよね」
「分かっているさ。だから最初は、二人きりで出かけるところから始めよう」
「それじゃ、前と同じじゃないですか? 二年生の時、初対面のカインさんにいきなりあちこち連れ回されたような……」
「いいや、それが違うんだ。まあ見ていろ、俺の本気を見せてやるから。夢のようなひと時を味わわせてみせるさ」
「ですから、手加減!」
そんなことを話しながら、二人は並んで廊下を歩く。
カイウスの大きな手と、ジゼルの小さな手。二つの手は、しっかりとつながれていた。




