55.アリアは一歩踏み出す
よく晴れた、さわやかな朝。アリアはただ一人、一生懸命走っていた。今彼女が下宿している親戚の屋敷の庭を、ただひたすらにぐるぐると走り続けている。
やがて屋敷の中から、一人の中年女性が顔を出した。おっとりとした雰囲気の、貴族の女性だ。彼女はこの屋敷の主の妻で、アリアの叔母だった。
「ふふ、今日も朝から熱心ね。あなたが本以外のものにも目を向けるようになったのはいいことだと思うけれど……疲れて熱を出さないよう、ほどほどにね?」
「はい、おばさま。……でも、あとちょっとだけ」
そう答えて、アリアは汗を拭う。そうしてふと、顔を上げた。雲一つない青空に、澄み切っていてやけにぎらぎらした太陽。
「絶対に、強くなる」
底抜けにさわやかな、でも少しだけ目に痛いその日差しの中、アリアは小さなこぶしをぐっと握って、小声でつぶやいていた。
体が弱く、学園の運動の授業すら休んでいたアリア。そんな彼女がこんなことをしているのには、もちろん理由があった。
先日の騒動、あの内乱において、アリアは前線に出られなかった。カイウスやセティだけでなく、ジゼルまでもが戦っていたその場に。
自分は弱い。知識でなら役に立てるけれど、戦いの場では全くの足手まといだ。戦うどころか、自分の身を守ることすらできない。
それを分かっていたから、彼女はジゼルの屋敷に留まることを素直に承諾した。でも彼女の小さな胸の中には、どうにもやりきれない思いがわだかまっていた。
自分がもっと強かったなら、戦う手段を持っていたなら。そうであったなら、決戦におもむく友人たちをただ見送らずに済んだかもしれない。
そうして彼女は、体を鍛え始めた。どう強くなるにせよ、体力は必要だ。すぐに寝込む体をどうにかしなくてはならない。彼女はこうやって毎日走り、嫌いなものも残さず食べるようになった。
「わたし、頑張る」
それまで彼女には、本しかなかった。山のような書物に埋もれていられれば、それで幸せだった。他者との交流なんて必要ない、学園生活は苦痛なものだとさえ思っていた。
けれどそんな彼女は、あの二人と出会った。ジゼルとセティ、同じ学年の優秀な二人に。
二人は自分に興味を持っているようだったけれど、他の子供たちのようにずけずけと踏み込んでくるようなことはなかった。専門的に過ぎる自分の話を、退屈な顔一つせずに聞いていた。
この二人は、他の子供たちとは違うのかもしれない。この二人となら、親しくできるかもしれない。
そう感じたアリアは、それから時々二人と過ごすようになった。そうして気づけば、しょっちゅう二人と一緒にいるようになっていた。
優秀で、かつ内気だった彼女に、こうして生まれて初めての友達ができた。
それをきっかけとして、彼女の世界は驚くほど広がっていった。書物に埋もれていたままでは決して知ることのない世界が、そこには広がっていた。
「あの二人と、一緒に歩くために。大切な、友達と」
そうしてアリアは、また走り出した。ほっそりとして弱々しかった彼女の手足には、うっすらと筋肉がつきつつあった。
その日の昼、アリアはカイウスに押しつけられた役目――とはいえ彼女のそれは、文官たちに孫のように甘やかされつつ様々な話を聞くというもの――のために、帝城の奥で過ごしていた。
その帰り、帝城と学園をつなぐ廊下の近くで、アリアはセティに出くわした。
「ああ、ここにいたんですねアリア。頼まれていた試作品ができたので、探していたんです」
セティのそんな言葉に、アリアはぱあっと顔を輝かせた。
「本当!? 見たい!」
いつになくはしゃいだ様子のアリアに、セティは礼儀正しく笑いかけた。
「きみに依頼された時は驚きましたが……いい感じにできたと思いますよ」
そうして二人は急ぎ足で、学園に隣接する寮に向かう。セティは自室に入ると、小さな箱を手に戻ってきた。アリアはその箱を慎重に受け取り、弾んだ声で言った。
「さっそく、試してみたい」
「ふふ、そう言うと思っていました。今の時間なら、鍛錬場が空いていますよ」
セティがそう言い終わらないうちに、アリアは駆け出していた。目を丸くしたセティを置き去りに、とても元気よく。
「とてもいい感じ……使いこなせば、色々なことができそう……」
鍛錬場で、アリアはうっとりとしていた。先ほどの箱を、しっかりと両手で持って。
小ぶりの宝石箱くらいのそれには、小指の爪ほどの小さなボタンがずらりと並んでいた。彼女は嬉しそうに笑ったまま、そのボタンを次々と押していく。
次の瞬間、辺りに森の幻が浮かび上がった。木の枝がさやさやと鳴る音、小鳥の声、小川のせせらぎの音までもがどこからか聞こえてくる。
この箱は、彼女が演劇同好会で使っているあの操作盤を小型化したものだ。
「カイウス様に相談して、火と水の魔導具も仕込みました。上側の赤と青のボタンを押すと、火球と水球を発射できますよ。威力は低いですが、使いようでさらに色々なことができると思います」
アリアはセティの説明を聞きながら、手の中の箱をじっと見つめていた。食い入るように、すがるように。
彼女は戦えない。剣は使えないし、今のところ魔法も使えない。ある程度体を鍛えたら、魔法を練習してみようかとは考えている。
けれどそれとは別に、急ぎ武器になるものが欲しかった。そうして考えに考えて、彼女はこれに思い至ったのだ。
あの内乱の時、たまたま彼女が持ち出していた操作盤。それが学園を脱出する時に役に立った。あれなら、自分でも扱える。役に立てる。
そして彼女は、セティに頼んで操作盤の改造を頼んでいたのだ。楽に持ち歩けるように軽く小さく、でも性能は落とさずに。
普段機械弓をいじり回しているセティは、この注文に全力で応えた。そして、アリアの期待以上のものができあがっていた。
「ありがとう……セティ。すごく素敵。幻影箱、って呼びたい」
「喜んでもらえて、ぼくも嬉しいです。幻影箱ですか。いい名前ですね」
達成感に微笑むセティとは対照的に、アリアの表情はどことなく暗い。幻影箱をぎゅっと抱きしめて、小声でつぶやいている。
「これで、わたしも少しは役に立てる……もう、置いていかれたくない」
その言葉に、セティの表情が変わる。彼は口を閉ざし、静かにアリアを見守っていた。彼女のその気持ちは、セティには痛いほどよく分かっていたから。
「頑張りましょう、アリア。置いていかれたくないのは、ぼくも同じですから」
二人の脳裏には、同じ姿が浮かんでいた。夕焼け色の髪をふわふわとなびかせた、愛らしい笑みの少女。軽やかな足取りで、二人より少し前を歩いている存在。
うっかり気を抜いたら、彼女は自分たちの手の届かない高みに行ってしまうのではないか。そんな不安を、二人はうっすらと抱えていた。
自然と、二人の間に寂しげな空気が流れる。
と、そんな二人の前に半透明の大きな塊が突然現れた。ジゼルのスライムだ。
しかし以前とは違い、彼――ジゼルとルルによると、このスライムは男性らしい――は、小さな口ひげを体に張り付けている。左右に分かれていて先がくるんと巻いた、中々にしゃれたものだ。
先だっての内乱の際、このスライムはゾルダーからエメラルドの指輪を奪い返すことに成功した。それにより、ゾルダーを迅速に、最小限の被害で捕らえることができたのだ。
そんなスライムに、皇帝カイウスは尋ねた。何か、欲しいものはないか? と。そちには褒美を取らせねばならぬ、とも言っていた。
そうしてスライムが所望したのが、この付けひげだった。もちろん、カイウスは彼の望みを快く叶えてやった。
それ以来、スライムはこの付けひげを片時も離さない。体の前側、やや上の方……要するに、ちょうど顔があるだろうとみなが考える辺りに、いつも付けひげを貼り付けている。
そして彼には、一つ特権が与えられた。
人と同じようにきちんと道を進むのであれば、帝城の一部と、それに付随する学園の敷地内を単独で歩いてもよい、と。
このスライムは、人間の世界に興味があってこちらに残っている。ならば、その望みも叶えてやろうということになったのだ。
帝城や学園の人間は召喚獣にもそれなりに慣れているので、スライムが一人で散歩していてもそこまで大騒ぎにはならないだろう。
たとえそれが、しゃれた口ひげをたくわえたスライムであっても。それが、皇帝カイウスの判断だった。
そんな訳で、スライムがここにいること自体は問題ないのだった。
どうやら今日も学園を散歩していたらしい彼は、暗い顔をしている二人を見て首をかしげるような仕草をした。それから、突然ぐにゃりと変形する。
「えっ、何ですか!?」
「きゃあ!」
スライムは体の一部をにゅっと伸ばして二人を捕まえ、背中に乗せてしまったのだ。あっけに取られた二人を乗せたまま、ぽいんぽいんと軽やかに跳ねて移動し始める。二人が落ちないよう、しっかりと支えながら。
器用に階段を上り、スライムは屋上にたどり着いた。とても心地の良いうららかな昼下がり、屋上にはさわやかな緑の香りをまとった風が吹いていた。
スライムは屋上の真ん中までやってくると、自分の体を平らに伸ばした。その上に、セティとアリアを寝かせる。
そして腕のように伸ばした体の一部で、二人をとんとんと優しく叩き始めた。ちょうど、子供を寝かしつける時のように。
二人は仰向けのまま目を真ん丸にしていたが、やがてふんわりと微笑んだ。
「……気持ちいい、かも……」
「眠くなってきますね」
「……こうしてると、悩みがちょっとだけ軽くなる気がする……」
「あ、分かります。もしかしてスライムさんは、元気を出せって言いたいのでしょうか」
セティのつぶやきに、二人を乗せたままスライムがかすかに揺れる。
「そうみたい」
アリアが笑い、セティは小さな手をまっすぐに伸ばす。大空をつかむように。
「……置いていかれたら、追いかけていけばいい。声を上げれば、彼女は待っていてくれる。……ぼくたちは、友達なのですから。こんな簡単なことを、忘れていました」
「うん」
そうして二人は、どちらからともなく目を閉じた。柔らかなスライムのベッドに、二人並んで横たわって。
二人とも、幸せそうな笑みを浮かべていた。
後日、ちょっぴり日焼けしてしまったアリアを見て、叔母は大いに驚くこととなる。




