50.帝都の空に舞うものは
落ちていく。遥か下に見える石畳に向かって、二人一緒に。
私たちがさっきまでいた塔の最上階の小部屋が、みるみる小さくなっていく。風を切るひょうひょうという恐ろしい音以外、何も聞こえない。
今日はつくづく、落ちることに縁があるらしい。さっきはドラゴンが助けてくれたけど、ここにいるのは私たち二人だけだ。
急いで、誰か呼ばなくちゃ。空を飛べる子、私たち二人を受け止められる子。帝都から逃げ出した時にお世話になった大鳥か、それとも中庭に置いてきたスライムか。
悩んでいる時間はない。カイウス様にぎゅうっと抱きしめられたまま、右手を伸ばして空中に魔法陣を描こうと試みる。
でも、うまく描けない。魔法陣が多少ゆがんでいても召喚魔法はちゃんと発動するけれど、さすがに程度というものがある。
それに、こんなに猛烈な速度で落ちながら描こうとしても、描いたそばから線が消えていってしまう。
どうしよう。ここまでなのかな。弱気になってしまったその時、声が聞こえた。耳をつんざく風の音よりも、はっきりと。
「俺の命に代えても、お前だけは守る」
カイウス様は、自分が下になるように落ちながら体勢を調整していた。
この人は、私のクッションになろうとしているのだ。即死さえしなければ、回復魔法でどうにかできる可能性が残るから。
でもそれだと、どうあってもカイウス様は助からない。そんなの嫌だ。
もう一度右手に魔力を集め、力を振り絞って魔法陣を描いた。自分の持てるもの、全てをそこに込めて。
「……あれ……落ちてない……」
もうすぐ、地面に叩き付けられる。それが恐ろしくて、目をつぶって身をこわばらせる。
けれどいつまで経っても、その衝撃はやってこなかった。その代わり、体がふわふわと浮いている感覚がある。
ちょうど、大鳥に乗って飛んでいる時と同じ感覚だ。頬には、ふわふわした羽毛が触れている。
いったい、どうなっているのだろう。おそるおそる目を開けると、カイウス様がすぐ近くで私の顔をのぞき込んでいた。
「ああ。お前のおかげだ。ほら、見てみろ」
カイウス様にしがみつくようにしながら身を起こし、そろそろと辺りを見渡す。大きな鳥の翼越しに、さっきまでいた塔が見えた。それも、ずっと下のほうに。
「……わたし、ちゃんと呼べた……」
ほっとすると同時に、疑問が一気に押し寄せてくる。
さっき、魔法陣を描くために与えられていた猶予はほんの一瞬。大鳥を召喚するための魔法陣はそこそこ複雑だから、どう考えても間に合うはずがない。
それにこの鳥、なんだか前の大鳥とは違うような。
白い大きな翼、白い頭、でも腹の辺りから下はつややかで明るい琥珀色の羽毛で覆われている。
あ、この子、ワシだ。
「ここまで大きなワシは、初めて見た。……帝国の象徴たる白と琥珀色の大ワシを、この局面で呼び出すなんて……粋な偶然だな」
「それが、どうやって呼び出したか記憶がなくて……必死だったことだけは覚えてるんですけど」
いつの間にか、塔のてっぺんの小部屋にも、下の地面にも、たくさんの兵士たちが集まっていた。
遠くてはっきりとは見えないけれど、みんなきっちりと整列して、こちらに向かって最敬礼をしているようだった。
「俺は見てた。お前はちっちゃな手を大きく振り回して、ただぐるりと円を描いたんだよ」
「それだけですか?」
「ああ、誓ってそれだけだ。その円の内側から、円を引き延ばすようにしてこのワシが飛び出してきたんだ」
思いもかけない証言に、ぽかんとしながら考え込む。そんなの、今まで聞いたことがない。私、何をしてしまったのだろう。
「ジゼル、考え事は後にしようぜ。ゾルダーの騒動もどうやら収まったようだし、俺たちも死なずに済んだ」
複雑な気分の私とは裏腹に、カイウス様ははしゃいだ声を上げている。
「おまけに、こんなに縁起のいい召喚獣が、帝城を飛び回っている。この大きさなら、きっと城下町の民たちにも見えてるぜ」
そう言って、カイウス様は腕を差し伸べる。そちらには、城下町が広がっていた。遠くのほうに、ばあちゃんと過ごした下町も見える。
「瑞兆だって、みんな喜ぶんじゃないかな。ゾルダーのせいで民の心にも不安が広がっているだろうから、ちょうどいい」
「そう……ですね。みんな、この子を見て安心してくれるかな」
「間違いないさ」
細かいことは、後で考えよう。今は、喜びに身を任せよう。カイウス様の明るい声を聞いていたら、自然とそんな風に感じられた。
悠々と風を切って、大ワシは空を自在に舞う。帝城の高いところをぐるりと回ってから、ふわりと中庭に降り立った。
そこにはやはりたくさんの人たちがいた。どうやら、幽閉されていた人たちも解放されたらしい。
文官たちに交ざって、騎士団長に宰相なんかの姿も見える。みんな最敬礼をして、まっすぐに私たちを見上げていた。
大ワシから私たちが下りると、彼らは一斉に駆け寄ってきた。みんな、とっても嬉しそうだった。
みんなのきらきらした視線を一手に受けて、カイウス様が堂々と立つ。こちらもまた嬉しげに笑い、周囲の人たちを順に見渡していた。
誰も、何も言わない。ただ期待に満ちた目でひざまずき、カイウス様を食い入るように見つめている。
カイウス様はゆったりとした笑みを浮かべ、口を開く。
「我がふがいないばかりに、そちたちには迷惑をかけた。済まなかった」
ついさっきまでの生き生きとした表情が、ひどく成熟した笑みへと鮮やかに変わる。
しゅわしゅわと泡を立てているシャンパンが突然真紅のワインに変わる手品を見たら、こんな気分になるのかもしれない。
彼の変わりっぷりを見るたびに、こっそりとそんなことを考えているのは内緒だ。
「ゾルダーが何やら言っていたようだが、今の皇帝は我だ。それで、問題ないな?」
と、カイウス様がふと何かに気づいたように言葉を途切れさせた。ちらりと振り返ったその横顔には、『カインさん』のいたずらっぽい笑みの名残りがある。
「ああ……だが、今回一番活躍したのはジゼルだな。皇帝選定の儀の決まりに従えば、次の皇帝は我ではなく彼女だろうか?」
その言葉に、その場にひざまずいていた全員が一斉に私を見た。さすがの私も動揺を隠せずに、とっさに隠れた。
この場で唯一、他の人の目を避けられそうな場所――カイウス様の背後――に。
「あの、陛下。それだけは、つつしんでお断りいたします。陛下はぽんぽんととんでもないものをわたしにくださいますが、さすがにそれは……」
「ふむ、似合いだと思うがな。まあよい、七年後には似たような結果となる。それまであの指輪を、しっかり守っておくとよい」
その言葉の意味が理解できたのは、この場では私だけだっただろう。
似たような結果……つまり彼は、七年後に私に求婚して、何が何でも肯定の返事をもぎ取るつもりなのだろう。
それまでに私に想い人ができなければ、あっさりうなずいてしまいそうでちょっと怖くもある。
けれど、同時にそれも悪くはないかなと思えてしまうのは、もうカイウス様にすっかりほだされてしまっているからかもしれない。
ともかく今は、こんなことをのんびりと話していられることが嬉しかった。
カイウス様の陰に隠れてこっそりと涙ぐんでいたら、ルルがちょろりと肩に上って涙を拭ってくれた。私のリュックの中の魔法陣を通って、勝手に出てきたのだ。
「ありがとう、ルル。でも、危険だからこっちに出てきちゃだめよって、さっき言ったでしょ」
そうつぶやくと、ルルはぶんぶんと首を横に振った。その口元が、にっこりと笑みの形に上がっている。
「……そうね。もう、大丈夫。みんなのおかげ。本当に、ありがとう」
ルルとそんなことを話している間も、帝城のあちこちからたくさんの人たちが駆けつけては、カイウス様にひざまずいていく。
この場には、明らかな安堵の空気が満ちていた。
ひとまず、これで決着だ。学園にゾルダーの声が響いてからまだひと月も経っていないのに、何だか半年くらい駆け回っていたような気がする。
でも、それも全部終わった。やっとこれで、安心して休める。
そう思ったら、足から力が抜けていた。中庭の石畳の上にぺたんと座り込んで、ルルを抱きしめて深々とため息をつく。
見上げると、青い空。さんさんと降り注ぐ、明るい日差し。
カイウス様がふりむいて、ひざをついて手を差し出してくる。その笑顔を見ていたら、またちょっと泣けてきた。
涙をぬぐいながら、笑ってその手を取った。私よりずっと大きなその手は、温かくてしっかりとしていて、心地よかった。




