48.救世主は意外なところに
ばうんばうんと、自分の体が弾んでいる。弾力のある何かの上で。
前にスライムと遊んだ時に、彼の背中でぽんぽんと飛び跳ねさせてもらった。あの時のことを思い出すような、妙に楽しい感覚だった。
そろそろと身を起こすと、赤い革の敷布のようなものが見えた。どうやらその敷布が、私を受け止めてくれたらしい。
というか、これ何だろう。首をかしげていたら、すぐ近くでぎゃお、という声がした。
驚いてそちらを見ると、母ドラゴンのほっとしたような顔がすぐ近くにあった。ああこれ、ドラゴンの翼なんだ。
母ドラゴンは、とても慎重に私を地面に下ろしてくれた。子ドラゴンが笑顔で顔をすりつけてくる。
そこにセティやカイウス様、それに両親や研究生たちが一斉に殺到してきた。
「大丈夫ですか、ジゼル!?」
「お前、体ちっちゃいからな……吹き飛んだ時は焦ったよ。助けられなくて、ごめんな」
セティとカイウス様が、私の無事を確かめてほっとした顔をしていた。他のみんなも。ただ、一人だけ例外がいた。
「……魔導士長だか何だか知らないけれど、私たちの可愛いジゼルになんてことを……許してなるものか……」
「プリシラ、落ち着いて。気持ちは分かるけれど、むやみに突っ込んでいって君に何かがあったらジゼルが悲しむよ」
怒りもあらわに剣を構えて、今にもゾルダーに突っ込んでいきそうな母プリシラを、父レイヴンがなだめている。というか、羽交いじめにしていた。
しかし父を引きずるようにして、母はじりじりと進み続けている。あのほっそりした体のどこから、そんな力が出ているのか。
そんな二人をぽかんとしたまま眺めているうちに、ふと我に返った。
そうだ、早くルルを助けなきゃ。あと、あの指輪も奪い返さないと。それにもちろん、ゾルダーをもう一度倒す。
母の視線の先を追って、ゾルダーを探す。けれどそこには、予想もしなかったとんでもない光景が広がっていた。
ゾルダーを取り巻くようにして、激しい風が吹き荒れていた。まるで彼を守る、風の壁のように。そのあまりの勢いに空気がひずんで、彼の姿がゆがんで見える。
あれはおそらく、風の魔法だ。けれどどれだけ優秀な魔導士でも、たった一人であれだけの魔法を使い続けるのはかなり困難なはずだ。まして、消耗しているゾルダーには。
「あれって、いったい……」
「風の魔法、ただしとびきり強い、どちらかというと災害に近いものだな。あの風の壁を抜けるのは難しいだろう。あいつ、あの中で態勢を立て直すつもりだな」
私の独り言に答えたのは、カイウス様だった。いつになく苦々しい声で、彼は説明した。
「ゾルダーはあの指輪を利用して、通常ではあり得ない規模の魔法を発動させ続けているんだ。……ルルに、安全圏にいることを優先しろと頼んでおくべきだったか」
「あの、ところで……あの指輪って……」
さっきゾルダーは、皇妃に贈られる指輪だとか何だとか、そんなことを言っていた。
カイウス様は私に求婚するつもりだと言っていたし、それに先んじてこっそりあの指輪を渡していたのだろう。
指輪をどうするかじっくり考えろと言ったのも、自分のプロポーズを受ける気があるか考えろという意味だったのだと思う。まったくカイウス様は、やることが豪快だ。
それはそうとして、あの指輪が目の前のとんでもない魔法にどう関係しているのか、それは今すぐ知りたかった。
「由緒あるものだってのは確かだ。ただそれ以上にやっかいなのは、あの指輪はとにかく魔力をたっぷりとため込む性質があるってことだ。あれがあれば、一人では使えないような大掛かりな魔法を使うことも可能になる。今のゾルダーが、まさにそれだな」
「つまり、あの指輪を何とかしないと……」
「運が良くて、かなりの持久戦になるな。最悪の場合、力で押し切られる」
そんなことを話しながら、ゾルダーの出方をうかがう。目を凝らして、風の壁の中をじっと観察した。
「……あの中にいるのは、ゾルダーと……ルルですね」
こんな風に誰かに捕まってしまった時を想定して、ルルには帰還の魔法陣を描いた紙を渡してある。あれさえ発動できれば、ルルは自分で逃げられる。
ルルさえ逃げてくれれば、こちらも力ずくで攻めることができる。たとえば、ドラゴンたちに火を吹いてもらうとか。
でも、まだルルは逃げ出せていない。よく見えないけれど、たぶんまだゾルダーにつかまったままなのだろう。あの紙を取り出すことすらできていないのだと思う。
「ねえセティ、あなたの矢の中で一番威力のあるものを使って、ゾルダーの手元を狙えないかしら」
「……あの暴風の壁を抜けるだけなら、どうにかなるかもしれませんが……狙った場所を撃つのは難しいです。ルルに当たったら大変ですし」
考え込みながら、セティが付け加える。
「でしたら、くしゃみ煙玉を取り付けた矢を打ち込んでみましょうか。うまくいけば、壁の向こうに煙を送り込むことも……」
その案に、カイウス様が口を挟んできた。
「そうなったら、ゾルダーのやつが怒り狂うと思う。あいつ、人前で恥をかくのが一番嫌いだからな。指輪を回収するまで、うかつに刺激しないほうがいい」
「でも、どうにかしてゾルダーの気を引いて隙を作らないと、ルルが逃げられません……」
ううんとうなりながら、困り顔を見合わせる。
みんなでため息をついた時、風の壁の向こうでいきなり叫び声が上がった。少し遅れて、からんという硬い音も聞こえてくる。
「くっ! 本当に、しつけのなっていない獣だな!」
暴風の壁のせいで少し空気がゆがんでいてはっきりとは見えないけれど、どうやらゾルダーの指にルルが食いついたらしい。
ぽたり、ぽたりと赤い血がしたたり落ちるのが、不思議なくらい鮮やかに、はっきりと見えた。
ウサネズミたちは鋭い前歯を持ってはいるけれど、とても穏やかな生き物だ。あの子があんな風に誰かを傷つけるのは、初めて見た。
噛まれた拍子に驚いて取り落としたのだろう、エメラルドの指輪が地面に落ちていた。ゾルダーを取り囲む暴風の壁が、少しずつ弱まっていく。
けれどゾルダーは、そちらには目もくれず、ルルをじっとにらんでいた。
「私に逆らうという愚かな行い、その身をもって償え!」
心底いらだたしげに叫んで、ゾルダーはルルをつかんだ腕を高く振り上げる。
おそらく、彼はルルを石の床に向かって投げつけるつもりなのだろう。ルルたちウサネズミはとても俊敏だけれど、あんなに勢いよく固い床に叩きつけられたら、ただでは済まない。
ルルを助けなくちゃ。暴風の壁が弱くなっている今なら割り込めるかも。そう思って、そちらに突進する。
さっきみたいに魔法の風に弾き飛ばされることこそなかったけれど、どうしても壁を通り抜けて向こう側に行くことはできなかった。
必死に壁に抱き着いて、両足で踏ん張る。でも、びくともしない。自分の無力さに泣きそうになったその時、足元で何かが動いていることに気がついた。
私たちが立っているのは、芝生の上だ。よく手入れされた芝生がさっきの戦いであちこちはがれ、土がむきだしになっている。
その土の一部だけ、やけに色が濃い。まるで、そこだけ水をぶちまけたように。
そしてその色の濃い部分が、風の壁に向かって静かに移動しているのだ。あれって、いったい何……?
なおも風の壁と格闘している私を尻目に、その動く何かは風の壁をするりとくぐって、向こう側に出ていた。
地面の中までは、風の壁が届かない。どうやら、そこを狙って通り抜けたようだった。
そうして壁の向こう側に出た何かは、いきなり形を変えた。地面に染み込んだ水のような姿から、丸くて大きなぷるぷるのクッションのような姿に。
それを見て、ようやく気がついた。あれって、スライムだ。
彼は体の形や固さをかなり変えることができる。極限まで体を柔らかくして水のようになり、地面に染み込んで移動したのだろう。
さっきゾルダーの風で吹き飛ばされた時、私はとっさに空中で魔法陣を描いた。スライムを呼んで、地面に叩きつけられるのを防ごうとしたのだ。
ドラゴンの翼に助けられたおかげで気づいていなかったけれど、どうやら私は、必死になるあまり無意識のまま魔法陣を描き終えていたらしい。
そして呼ばれたスライムは、状況を確認してルルを救いに動いてくれたのだ。
元通りの姿になったスライムは、地面に叩きつけられそうになっていたルルをふんわりと受け止めた。
ついでに、近くに落ちていたエメラルドの指輪も体の中に取り込んで、しっかりと確保している。
「何だ、貴様は!!」
ゾルダーが動揺と怒りをないまぜにして叫ぶ。スライムはあわてず騒がず、ルルと指輪を抱えたまま平べったくなった。
そして踏みつけようとするゾルダーの足を器用にかいくぐって、風の壁の地面すれすれのところを力ずくで突破していた。風の壁は、もうかなり弱くなっていた。
あまりに鮮やかなその動きに、みんな見とれてしまっていた。
スライムは私のそばまでやってきて、まだちょっと呆然としているルルと、変わらずに美しくきらめいている指輪を私に差し出す。
ぷるんぷるんとリズミカルに体を揺すっているスライムは、とっても得意げな顔をしているように思えた。
「あ、ありがとう……助かったわ」
やはり呆然と礼を言う私と、そんな私たちをぽかんとしたまま見守っているみんな。ふと、カイウス様が我に返ったように叫んだ。
「と、見とれている場合ではない! みな、ゾルダーを捕らえよ! 指輪はないとはいえ、奴はかなりの魔法の使い手だ、油断するな!」




