39.受け継がれていた思い
けれどその夜、私はどうにも寝つけなかった。
カイウス様の無事を確認できてほっとしたからなのか、それともこれから待ち受ける問題の山にしり込みしてしまっているからなのか。
「……眠れない」
そうつぶやいて、寝間着のまま部屋を出る。足音を立てないように気をつけながら庭に出て、とことこと歩く。
花壇の間の道を抜け、生け垣の間の細い道を進むと、そこには噴水がある。
小さな頃から、眠れない時はここに来ていた。近くのベンチに腰かけて水音を聞いていれば、自然と心が落ち着いてくるから。
もっとも、そのままここで朝まで寝てしまったことも一度や二度ではないけれど。それでも好きにさせてくれるあたり、うちの両親は私に甘い。
でもその甘さが、今はとても嬉しい。カイウス様に助力したいという私の気持ちも尊重してくれたし。
「月、綺麗だなあ……」
そうして、いつものようにぼんやりする。
ウサネズミたちもついてきていて、ベンチやら噴水のそばやらでぐうぐうと眠っていた。ふわふわのお腹の毛が、夜風にかすかにそよいでいる。
と、誰かがやってくる気配がした。ゆったりと落ち着いたその足音から、敵意は感じない。
周囲からは、相変わらず安らかな寝息が聞こえてくる。ウサネズミたちはあの足音を警戒していない。だったら敵とか刺客とか、そういう危ないものじゃないのかな。
ベンチから立ち上がって、様子をうかがう。
やがて姿を現したのは、カイウス様だった。エメラルドグリーンの髪と金の目を月明かりにきらめかせながら、軽く片手を挙げた。
「よう、いい夜だな」
どうしてこんな真夜中に、しかも本来の姿でこんなところにいるのか。さっきまでは、黒い髪と青い目だったのに。
彼は私の視線だけで、そんな疑問を感じ取ったらしい。なぜかちょっぴり切なげな顔で、そっと肩をすくめた。
「……実は、ルルが呼びにきてくれてな。お前が眠れないようだから、話でもしてやってくれないか、って」
カイウス様の肩の上では、ルルが誇らしげに胸を張っている。あの子はてっきり、私の部屋で寝ているとばかり思っていたのに。
「……だからこの機会に、一つ秘密を打ち明けておこうと思ったんだ」
思いもかけないことを口にして、カイウス様はいきなり私の目の前でひざまずいた。
皇帝としての堂々とした表情とも、カインさんとしてふるまっている時の軽妙な表情とも違う、穏やかで静かな顔をしていた。
「お久しぶりです、エルフィーナ様。私は貴女のことを、一瞬たりとも忘れたことはありません」
まったく予測もしていなかったその言葉に、呆然と凍りつく。どうしてカイウス様はその名を、私と結びつけたのだろう。
そんな私をまっすぐに見つめて、カイウス様は甘く優しくささやく。いつもとは、まるで違う口調で。
「そのお姿を見て、すぐに分かりました。不幸にも処刑されてしまった貴女は、こうして生まれ変わっていたのだと……その夕焼け色の美しい髪、生き生きとした若草色の目、あの頃のまま……」
「あの、どうして……わたしがエルフィーナだって思うんですか……?」
「お忘れですか? 私はかつて、貴女に会っています。あの時の貴女の美しくも気高い姿は、幼い私の心にしっかりと刻まれました」
その言葉に、古い古い記憶が一気によみがえってきた。
あれは、前世の私が女王となってから二年後のこと。隣の帝国の皇族や大臣が、交流のために我が国を訪れたのだ。
私はなけなしの予算をやりくりして彼らを精いっぱいもてなし、彼らが帰る前夜には舞踏会を開いたのだった。もっともそれは、ひどく質素なものになってしまっていたけれど。
そしてその場で、私にダンスを申し込んできた子供がいた。年の割に大人びていて礼儀正しく、私のことをきらきらした目で見上げていた。
宝石と見まごうほどに美しいエメラルドグリーンの髪。あの子の顔は。あの子の名前は。
「思い出していただけたようですね、エルフィーナ様」
そのまま私たちは、ただじっと見つめ合っていた。混乱し切っている私を優しく見守るカイウス様から、目が離せない。
「幼い私は、貴女に恋をしました。もう、貴女のことしか見えなくなっていた」
夢見るような目つきで、彼は語る。
「我が帝国と貴女の王国、両国のかけはしとなるために、貴女と私の政略結婚をもちかけてもらおうか。そんなことを本気で考えていました。私は皇族ですから、貴女ともつりあう。私が、立派な大人になれば」
その声は懐かしそうで、けれど同時に底知れない悲しさを感じさせた。
「それから、私はひたすらに努力しました。学問も武術も、魔法の練習も。貴女の隣に立つにふさわしい人間になれるように」
彼が熱心に語るほど、申し訳なさがつのっていく。だって彼のその思いは、かなうことはなかったのだから。
「けれど、その五年後……貴女の王国は滅びました。内乱が起き、貴女は処刑された。その知らせを聞いて、どれほど泣いたことか……」
カイウス様が辛そうにうつむいた。けれど私が声をかけるより先に、彼はまた顔を上げ、力強く言った。
「そうして、貴女の王国は我が帝国の一部となりました。……おそらくですが、あの反乱の裏では、我が帝国の者が糸を引いていたようです。それを知った時、私は決めました」
柔らかな声で、けれど皇帝としての威厳をたたえて、彼は宣言した。
「貴女が愛した民たちを、私の手で幸せにしよう。貴女の王国のような悲劇が起こらないよう、できることをしていこう。そう誓ったんです」
あの内乱が、民たちの手により自然に引き起こされたものではなく、帝国によってそそのかされたものだったかもしれない。
その言葉は私を戸惑わせ、同時にほっとさせるものだった。私のせいじゃなかった。私の頑張りが否定された訳じゃなかった。そんな風に思えてしまって。
「……そしてこの誓いを果たすためには、私が皇帝になるしかない。そう思いました」
そこまで言い切ってから、カイウス様はにいっと笑った。カインさんとしてふるまっている時の、ひょうひょうとした表情だ。
もっともその中には、隠し切れない悲しみがにじんだままだったけれど。
「俺が皇帝になってから、一切領土を広げなかったのには……そういう理由があったんだよ。そのせいでゾルダーに軟弱者扱いされたが、後悔はしていない」
悲しみをまとったまま、それでも彼は力強く言い切る。
「愛しいエルフィーナ様の理念を、力による支配を否定したあの心を、継ぐことができたから」
私には、そんな崇高な理念があったのだろうか。あの頃は、ただ必死だった。
謎の妄念に取りつかれて軍事にばかり力を入れた父の後始末をして、民を飢えさせないように、どうにかして国を立て直す。そんなことしか考えていなかった気がする。
とはいえ、カイウス様にそう言ってもらえるのはちょっと嬉しかった。
かつての私を覚えていてくれて、思いを継いでいてくれる人がいる。エルフィーナのしたことは、全くの無意味じゃなかった。
「俺の初恋は、お前だよ。そのまっすぐで気高い心、愛らしい笑顔……お前と過ごしている間、ああ変わってないなって、何度涙をこらえたことか」
「……それって、今の『ジゼル』じゃなくて前の『エルフィーナ』を見ているってことになりませんか? わたしは、ジゼルです」
「見てるさ、両方ともな。お前はエルフィーナ様で、でも違う。確かに、お前に興味を持ったきっかけは、お前がエルフィーナ様だと確信したからだが」
カイウス様は優しく微笑んで、私の頭をなでた。子供扱いしているようなその手つきとは裏腹に、その目はほんのりと熱を帯びていた。
「だが今は、全部ひっくるめてお前に興味を持っている。ある意味、お前はエルフィーナ様以上に俺の心をとらえてしまっているのかもな」
指折り数えながら、カイウス様はあれこれと挙げていった。
「意外と気が強いところも、目立ちたくないと考えてるくせに思いっきり目立ってる、そんなちょっと抜けたところも、好奇心旺盛であっちこっちに首を突っ込んでいくところも、自分の危険を顧みずドラゴンに立ち向かっていくような無謀なところも」
「褒められてる気がしません」
「安心しろ。最大級の賛辞だ。……ところで……お前、他に好きなやつとかいるのか? その、セティとか」
「どうしてそこでセティの名前が出てくるんですか」
そんな風に見られていたことに驚いて、思わず声が大きくなる。カイウス様は静かに、と唇の前で指を一本立てて、さらに続けた。
「あいつには、おそらく前世の記憶がある。そしてお前たちの距離は、妙に近い。そうだな、例えば……同じ秘密を共有している者同士のような、そんな感じだ。どうだ、当たってるか?」
「確かに、彼も前世では王国の人間でしたけど……私たち、別にそういう仲じゃないですよ」
セティは私の騎士になりたいと言っていた。あの時の彼の目には、ただ純粋な敬意だけが満ちていた。子供の頃のカイウス様のような、慕情の色は見えなかった。
それに私のほうも、セティのことは親友のように思えていた。前世の記憶という秘密を共有しながら、今を共に生き抜いていく……戦友、のようなものかもしれない。
だからそう答えたのだけれど、カイウス様は大はしゃぎだった。
「そうか! だったら、まだ俺にもチャンスはあるってことだな? よし、だったら気長に待とう。お前が今七歳だから……そうだな、あと七年もしたら本気で求婚するからな」
「七年後って、カイウス様は二十六才ですよね。それまでの間、周囲からの圧力がすごいんじゃないですか? 『陛下、早く皇妃を決めてください』って」
「頑張って受け流すさ」
「その間に、私に他に好きな人ができたら?」
「そうなったらおとなしく身を引く。たぶん十日くらいは枕を涙で濡らすことになると思うが」
軽やかに答えるカイウス様に、つい苦笑がもれる。どうやらカイウス様はまだ私のことを思っていて、そして私の意思を尊重してくれるらしい。
そして、そんな思いを向けられていることを嫌だと思わない自分がいた。
「……でしたら、前向きに考えてみますね」
「ああ、よろしく頼む!」
浮かれた様子のカイウス様と、すぐ近くで微笑み合う。
そんな私たちを見ているのは真ん丸の月と、寝ぼけまなこのウサネズミたちだけだった。




