24.予想外の緊急事態
日常は相変わらず穏やかで、私はいつも通りの平和を満喫していた。
このまま何事もなく、三年生になるのだろうなと思っていたけれど。
「全員、私についてきなさい! はぐれないように!」
教師の悲鳴のような叫び声が、学園の廊下に響き渡っていた。彼女は真っ青になりながらも、一生懸命に私たち二年生の生徒たちを引率していた。
ついさっきまで、私たちは運動場でダンスの授業を受けていた。貴族の子女である私たちにとってダンスは必須の技術だ。
私は踊れるけれど、セティは踊れない。なので私はセティとアリアに付き添うようにして、普通に授業を受けていたのだ。
セティは、初心者ながら中々のみ込みがよかった。もっとも、隙あらばイリアーネがペアを組もうとしてくることに、ちょっと困っているようだったけれど。
体が弱いアリアも、ダンスは楽しんでいるようだった。私が男役をつとめてやると、それは可憐に微笑みながらくるくると踊っていた。
そうやって楽しく踊っていたら、血相を変えた他の教師が運動場に駆け込んできて、ダンスの教師と何やらひそひそと話し始めたのだ。
さっきまで笑顔だったダンスの教師の表情が、一気に険しくなる。彼女は厳しい顔で、授業の中断を言い渡した。
そうして今私たちは、列を組んで学園内を移動している。何が起こったのか一切説明がないけれど、大変なことになっているのだということだけは容易に想像がついた。
足早に歩きながら、こっそりと魔法陣を描く。私の手のひらよりも小さなそれから、次々とウサネズミたちが飛び出して、素早く物陰に消えていった。
「偵察、ですか?」
それを見ていた隣のセティが、ひそひそとささやきかけてくる。
「うん。見た感じ、かなりの緊急事態みたいだし……でも、直接尋ねても多分教えてもらえなさそうだし」
「そうですね。こういう時、自分が子供なのだと思い知らされます」
「ジゼル、セティ、私語はつつしむように」
引率の教師がそう言った時、別のほうから遠慮がちな声が上がった。
「あの……先生、イリアーネがいません」
「そういえばさっき、忘れ物を取ってくるとか言ってたような……」
驚いて立ち止まり、周囲を見渡す。確かに彼女の姿は見えなかった。運動場を出た時は確かにいたから、こっそりと列を離れたのだろう。
みんなも立ち止まって、困ったようにきょろきょろし始める。
「それでは、みなさんはここで待機していてください。私はイリアーネを連れ戻しに……」
教師はその言葉を、最後まで言うことはできなかった。つんざくような幼い悲鳴が、運動場のほうから響いてきたのだ。イリアーネの声のように聞こえた。
「全員、絶対にここから離れないように!」
そう叫んで、教師が運動場に向かって走り出す。それと同時に、私の足元に一匹のウサネズミがやってきていた。私の靴下をつかんで、一生懸命に引っ張っている。今しがた、教師が走り去っていった方向へ。
それを見たとたん、私も駆け出していた。すぐ後ろをついてくるセティの足音に、心強さを覚えながら。
「何、これ……」
運動場にたどり着いた私は、ただ呆然とすることしかできなかった。
隅のほうで、教師がしっかりとイリアーネを抱きしめたままうずくまっている。二人とも恐怖に腰が抜けてしまったのか、逃げ出すこともせずに震えていた。
そうして、私たちの目の前には。
「あれ、ドラゴン……ですよね……?」
セティもまた、呆然としているようだった。
運動場のど真ん中に、真っ赤な何かが突っ立っていた。馬の倍くらいありそうな、大きな生き物。
硬いうろこに覆われた肌、鋭い牙と爪。コウモリのような、しかしずっと頑丈な翼。やや小ぶりの前足と、反対に筋骨隆々の後ろ足。太くてがっしりした角と、長いしっぽ。
「うん、ドラゴン……たぶん、野良召喚獣だと思う」
ドラゴンは、かなり腕のいい魔導士がとっても複雑な魔法陣を描くことで、ようやく呼び出せるしろものだ。私も、まだドラゴンの召喚に挑戦したことはない。
というか、ここまで上位の召喚獣は、それこそ敵軍か何かが攻め入ってきたとか、そういった特別な理由がない限り、帝都での召喚は禁止されている。
だからたぶんあのドラゴンは、かつて誰かが召喚したものなのだろう。けれど元の世界に帰されるよりも前に、召喚主が何らかの要因で死んだ。
そうやってこちらの世界に取り残されてしまった召喚獣は、野良召喚獣と呼ばれる。
召喚獣が人に害をなさないようにかけられる制約の魔法は召喚主の死と共に無効になっているので、野良召喚獣はとても危険だ。
でも、めったなことでは人里に姿を現さないはずなのに、どうしてこんなところに。
「……これ、わたしたちで何とかなると思う? イリアーネと先生が逃げるだけの時間稼ぎだけでも」
「ぼくは戦えます。改良した機械弓も、専用の矢もいつも持ち歩いていますから」
「……わたしも、こないだ覚えた魔法陣が使える。足留めにちょうどいい子のあてがあるの」
ドラゴンは鼻息こそ荒いものの、今すぐに飛びかかってくるようには見えなかった。
辺りを警戒しながらそわそわしているというか、こんなところに来てしまって戸惑っているというか、そんな感じだ。
なんだろう、この子は自分の意志で帝都に来たのではないような、そんな気がする。
そうやってドラゴンの様子を観察していたら、教師が震える声で呼びかけてきた。
「あっ、あなたたち、どどどうして、ついてきたのですか! イリアーネは、私が連れて戻ります! ですから、早く、早くみんなのところに戻りなさい!」
そう言われても。この場で多少なりとも落ち着いているのは、私とセティだけだ。
教師はがくがくと震えているし、イリアーネは教師の胸元にすがりついたまま顔を上げようとすらしない。二人とも明らかに、ドラゴンにおびえきってしまっている。
連れて戻るも何も、そもそも立ち上がることすら難しそうだった。この二人を放っておいたら駄目だ。
「やっぱり、わたしたちで足留めしようか」
そう決めて、右手を突き出す。さて魔法陣を描こうかなと思ったその時、教師がまた叫んだ。さっきまでとは違う、やけに力強い声で。
「ジゼル! セティ! これは教師としての命令です! 今すぐ、ここを立ち去りなさい!」
その声に、背筋がそわりとする。今まで感じたことのない感触だ。一瞬遅れて、何が起こったのか理解した。
学園の生徒はみな貴族の子女で、中には皇族の血を引いた子もいたりする。
そんな子供たちをまとめ導くために、学園の教師たちには生徒たちに命令する権利が与えられている。
緊急時などに言うことを聞かせるために、ほんの少しの強制力を行使できる魔導具が教師たちに支給されているのだ。もちろん、めったなことでは使うことが許されない。
けれど今、教師はどうやらその魔導具を使ったらしい。それが、さっきの違和感の原因だ。
強制力そのものについては、心が大人なせいか無視することができた。
けれどこれ以上教師の命令に逆らうと、それなりの罰を受ける可能性がある。実際、教師の命令はとても妥当なものだし。
罰なんて別に怖くはないのだけれど、私が罰を受ければそれはただちに家や両親の不名誉になってしまう。教師があの魔導具を使うこと自体珍しいのに、それに生徒が逆らうなんて前代未聞だから。
ドラゴンとイリアーネたちとの距離はそこそこ離れているから、教師の抜けた腰が元に戻りさえすれば、二人は逃げられる。あのドラゴン、大きすぎて出入り口を通れないだろうし。
でもドラゴンににらまれているせいで、教師はさっきから震えっぱなしだ。せめて、ドラゴンの気をそらすくらいはしたほうがいい気がする。
どうしよう? とまたまたセティと顔を見合わせていると、また別の声が割り込んできた。
「二人ともお願い、あのドラゴンを足留めして! 二人ならできるって、わたしは知ってる!」
驚いたことに、それはアリアの声だった。どうやら彼女も、私たちの後を追いかけてきたらしい。彼女がこんなに大きな声で叫んでいるのは、初めて聞いた。
彼女は教師とイリアーネのところに駆け寄りながら、なおも私たちに呼びかけていた。
「学園の教師が持つ命令権は、拒否することに合理的理由があれば無視できるの! 命令権が行使されること自体が珍しいし、生徒が強制力に逆らえることはもっと珍しいから、忘れられている決まりだけれど」
アリアは学園に来てから、大量の本を読み漁っていた。その中には、学園の規則書も含まれていたのだろう。そして、あの見事な記憶力を生かして完璧に記憶した。
今の彼女の言い回しは、普段のものよりもずっと難しく、大人びていた。おそらく、規則書の言葉をそのまま使っているのだろう。
「この場を乗り切るには、二人の力が必要! 先生とイリアーネは私が連れていくから、それまで足留めをお願い!」
いつになくはきはきと話すアリアに、力強くうなずきかける。セティと二人で。
これからどうするか。私たちの間に、もう迷いはなかった。
それからまた、ドラゴンに向き直る。ドラゴンは元の位置から動いていなかったけれど、姿勢は大きく変わっていた。背中を丸め、あごを地面すれすれまで下げていたのだ。
私は召喚魔法の使い手として、召喚獣の生態についても学んでいる。ドラゴンがああいった動きをする時って、確か……。
「あ、ちょっとまずいかも……」
「そうなんですか?」
セティがドラゴンを見つめながら、小声で尋ねてくる。
「あの子、かなり気が立ってる。それも、アリアたちを狙ってるみたい。……暴れ出す前にどうにかしないと」
両手を手を突き出し、さっき描こうとしていた魔法陣を改めて描き始める。
この場をどうにかできそうな召喚獣にあてがあるとは言った。問題は、実際に召喚するのは初めてな上、必要な魔法陣がちょっと複雑なのだ。
急がなくちゃ。焦りながら必死に手を動かしていたら、ドラゴンが一歩アリアたちのほうに踏み出した。ひっ、という教師の悲鳴が後ろから聞こえる。
と、ひゅんという鋭い音がして、何かがドラゴンの背中に当たって跳ね返るのが見えた。金属同士をぶつけた時のような、とても硬い音だった。
「きみの相手は、ぼくですよ!」
声がしたほうを見ると、機械弓を構えたセティが立っていた。彼はとても凛々しい顔で、ドラゴンに呼びかけていた。




