17.皇帝陛下と内緒のお出かけ
そんな予想外の一幕もあったけれど、私たち料理同好会は予定通りに引き上げていった。学園の寮の厨房で使ったものを片付け、あいさつして解散だ。
それからめいめい、帰路につく。寮で暮らす者、城下町の屋敷に帰っていく者。私もいつも通りに屋敷へと向かい……途中で、違うほうに曲がった。
「よし、ちゃんと来てくれたな。まったく、俺を待たせるなんていい度胸だ」
貴族たちの屋敷が立ち並ぶ一角、レンガの塀にもたれかかって、カイウス様が笑っていた。黒い髪に青い目、研究生の制服のまま。
「『ちょっと話がしたいから、寄り道しよう。学園を出てすぐの十字路、左に曲がってすぐのところで待ってる』って一方的に言われた時はどうしようかと思いました」
魔法研究会のところから去る時に、彼がこそっと耳元でそうささやいてきたのだ。
皇帝陛下がそんなことをしていていいのだろうかと思いつつも、寄り道自体は面白そうだと思った。なので、こうして誘いに乗ったのだ。
「両親には、召喚獣を飛ばして説明しておきました。『友達と遊んでくるから、ちょっとだけ帰りが遅れるね』って」
「ああ。大丈夫だ、そんなに遅くはならないし、俺がきちんと送り届ける……いや待てよ、お前の両親は『我の顔』を知っているんだったか」
「はい、知っています。……雰囲気は全然違いますけど、万が一気づかれたら大変なので、帰りは一人で大丈夫です」
そんなことを話しながら、のんびり歩き出す。
カイウス様は、どうやら城下町の中心、一番栄えているほうを目指しているようだ。変装しているとはいえ、大胆だ。
「しかし、さすがはジゼルだな」
そろそろ夕方近いとはいえ、まだまだ明るい町中を歩きながら、カイウス様がしみじみと言う。
「何のことですか、カインさん?」
「そう、その口調だ」
訳が分からなくて首をかしげる私に、カイウス様はうんうんとうなずきながら続ける。
「俺は昔から、よくこうやって変装してあちこち出歩いていた。側近や重臣たちに、口裏合わせを頼みながら」
確かに、彼の変装はとても板についている。顔立ちがそのままなのを除けば、誰も皇帝陛下だなんて思わないくらいには。
「だが、だいたいみんな挙動不審になるんだよな。特に側近たち。うっかり『カイン様』と呼んでしまったり、研究生の俺相手に過剰な敬語を使ったり。怪しいにもほどがあるよな」
相手を挙動不審にさせている張本人は、やけに堂々とそんなことを言っている。それからふと目を細めて、ぐいと顔を近づけてきた。
「……だが、そちは今の我の姿にふさわしい対応を、それも瞬時にしてみせた。我の臣下たちの誰よりも、見事であったぞ」
突然小声で、皇帝陛下そのものの口調で語り出す。その鮮やかな変わりように、驚きつつもこくこくとうなずいた。びっくりして、言葉が出ない。
「七歳にしてここまで肝が据わっておるとは、かつてそちを見込んだ我の目に狂いはなかったな」
「あの、それは嬉しいのですが……そろそろ、人が増えてきてますし、その口調は……」
「まったく心配性だな、お前は。聞かれたところで問題にはならないさ。まあいい、目的地に着いたぞ」
「ここって……ええっと、市場……ですか?」
休みの日など、両親に連れられて町をぶらぶらすることはある。でもそうやって歩くのも立ち寄るのも、上流階級向けの区画や店ばかりだ。
前にセティと一緒に見にいったサーカスは、町はずれの広場で開かれていた。普段はあまり人のいない、そんな区画だ。それなりに値の張る出し物だったとかで、客は貴族や裕福な平民などが多かった。
けれど今私たちがいるのは、ごく普通の平民たちでごった返す通りだった。通りの両側に並ぶ建物にはこれっぽっちも統一感がなくて、恐ろしく雑然としている。
「ジゼル、俺から離れるなよ。さらわれても知らないぞ」
「えっ、人さらいとか出るんですか?」
前世で女王だった頃も、そしてジゼルとして生まれてからも、こんなところを歩いたことはない。
興味と戸惑いにきょろきょろしていた私に、カイウス様が小声でとんでもないことを言ってきた。
そして、その時ようやく気づく。
貴族だけが通う学園の制服を着た私とカイウス様は、ここではとんでもなく浮いている。
さらって身代金をとるとか、どこぞに売り飛ばすとか、そんな悪い考えを起こす人間がいないとも限らない、ということに。
「なんてな、冗談だ。……ん? その左手、もしかして……」
「もちろん、魔法陣です。わたしが身を守るために使えるのは、これだけですから」
目を見張るカイウス様に、真顔で左手を見せる。手のひらには、小さくてごちゃごちゃした魔法陣が描かれている。いつでも起動できる状態だ。
「へえ、今度は何を呼ぶんだ?」
「ハチの群れです。『私の敵を追い払ってほしい』ってお願いを書きました」
カイウス様はひざまずいて、まじまじと魔法陣を見つめている。
「さっきの蝶を見た時にも思ったんだが……お前の魔法陣って、やっぱり変わってるな? 俺の知る召喚の魔法陣には、もっといかめしい言葉が書かれているがなあ。こう、何とかかんとかを命じる、みたいな」
「さっきも言いましたけど、わたし、命令するのは嫌いなんです。召喚獣はわたしの手下じゃないんです。力ずくで何かをやらせるなんておかしいです」
「だが、それだと言うことを聞いてくれないんじゃないか?」
「……たまに、そんなこともあります。でもそれでも、命令はしません」
学園に入学する前、ピクニックにいった先で青いワシたちに海に落とされた時のことを思い出す。
小さな魔法陣を歩いて通るはめになったことが気に入らなかった仕返しだったけれど、彼らはちゃんと、私が危なくない場所を狙って落としてくれた。
彼らは言葉の通じない獣だけれど、血も涙もない危険な獣ではない。何年も彼らと一緒に過ごしてきて、そう確信していた。
小さな胸を張って、そんな思いを主張する。カイウス様は一瞬目を見張って、そして晴れ晴れと笑った。
「そうか、いい子だなお前は。よし、ご褒美をやろうじゃないか」
褒美。その言葉に、思わず身構えてしまった。
最初の時は忠誠の首飾りで、二回目は魔導士見習いの地位で、三回目は異様に豪華な指輪だ。いや、あれはもらったのではなく預かったのだけど。
たまにウサネズミのルルに頼んで指輪を見せてもらっているのだけれど、そのたびに震え上がっていた。
前世で女王をやっていた時だって、ここまで見事な宝石に出くわすことはめったになかった。
どうもカイウス様のご褒美は、普通とかけ離れている。何が来るか分からないし、今のうちに心の準備をしなくては。
「そう身構えなくてもいいさ。ほら、そこの屋台だ」
身をこわばらせる私とは裏腹に、彼は私の手を取って軽やかに歩き出す。そうして向かった道の反対側には、小さな屋台が出ていた。甘くていい匂いがしている。
背伸びして、屋台をのぞき込む。そこには中年の女性がいて、薄く伸ばした生地を大きな鉄板で焼いていた。
あ、クレープだ。料理同好会が作っているものとは違って、生クリームも果物もないけれど。
「ようおばちゃん、二つくれ」
「おや、カイン君かい。そっちのお嬢ちゃんは、妹……じゃないし……」
カイウス様はとっても慣れた様子で、店主の女性からクレープを二つ買っていた。その一つを私に手渡して、店主に片目をつぶっている。
「俺の将来の奥さんだよ。じゃ、また」
あれまあ、と楽しげに微笑む店主に手を振って、カイウス様は私をまた壁際に引っ張っていった。
「ほら、食べてみろ。お前たちが差し入れてくれる料理もとてもうまいが、これもうまいんだ」
手にしたクレープを見つめ、それからカイウス様をちらりと見る。
確かにこのクレープからはいい匂いがしているけれど、それより先に聞いておかないといけないことがある。
「……さっきの、何ですか? 将来の奥さんって」
「一応冗談だ、気にするな。お前さえよければ、いつでも本当にしてやるぞ?」
「もう、年齢も身分も無理がありますよ」
十二歳も年下の、それもごくありふれた伯爵家の娘が、この強大な帝国の皇妃だなんて。いくら何でも釣り合わない。それに、民の上に立つ人生はもうこりごりだ。
まあ、カイウス様はどうも人をからかうのが好きな方みたいだし、ひとまず気にしないでおこう。冗談だって、本人も言っているし。
それよりも、クレープだ。あったかくて甘い匂いが、食べて食べてと誘っているようだ。
大きく口を開けて、がぶりとクレープをかじる。前に食べたものよりも歯ごたえのある生地と、口に広がる素朴な甘さ。
「あ、おいしい……それに、面白いです……」
私のもらしたつぶやきに、カイウス様が心底嬉しそうに笑った。
「だろ?」
「生地がつぶつぶしていて、歯触りが楽しいです……中のジャムも、甘さがひかえめで、さわやかで。わたし、これ好きです」
料理同好会に入ってからというもの、どうも私は料理を分析する癖がついてしまっていた。
この風変わりなクレープは、普段食べ慣れているものとはまるで違うけれど、これはこれでとてもおいしかった。今度、料理同好会のみんなにも教えてあげようかな。
カイウス様はそんな私を穏やかな目で眺めながら、ゆっくりとクレープを口にしている。そうして、思いもかけないことを言った。
「この菓子だがな、貧乏だからこそ生まれたんだ」
どういうことだろう、と目を丸くして彼のほうを見る。彼はこちらを見ないまま、目を細めて語る。
「小麦粉は、決して安くはない。だから、安い雑穀で生地をかさ増しする。アワとかヒエとか、そういったものだな。このぷちぷちとした食感は、そのせいだよ」
アワとかヒエって、確か小鳥の餌だったような。人間が食べられるものだなんて知らなかったけれど……これはこれで、おいしい。
「そして、砂糖は高価だ。だから甘い木の実をせっせと集めて、なけなしの砂糖と、それに野で採れる蜂蜜を加えてじっくりと煮込んだんだ。そのおかげで味が複雑になって、深みが出てる」
「そうだったんですか……知りませんでした」
「だろうな。……けれど俺にとって、これは懐かしい味なんだよ」
皇族の血を引くカイウス様に、平民の文化と接する機会はまずなかったと思う。
今でこそこうやって魔導具を使ってお忍びでふらふらしているけれど、彼の年齢を考えると、こんな風に遊びに出るようになったのはせいぜいここ数年といったところだと思う。
小さいうちは、それこそ護衛とかお守りとか、そんな人たちがいつも張りついているだろうから。
そんなカイウス様が、どうしてこんな素朴なお菓子を懐かしいと言うのだろう。
彼とは何度も顔を合わせているけれど、そのたびにどんどん謎ばかりが降り積もっていく。
「こら、子供がそんな難しい顔をするんじゃない。眉間のしわが癖になったら大変だ」
私を悩ませている当の本人は、お菓子を食べ終えてけろっとした顔でそんなことを言っている。
あなたのせいですよ、と言い返そうとして、息をのんだ。彼はひどく優しく、そして悲しげな笑みを浮かべていたのだ。
「……ジゼル、お前は前世って、信じるか?」




