ギタリストと海辺のカフェテラス
ギタリストと海辺のカフェテラス
沈んでいく太陽のその下部分がようやく地平線にかかったかという時刻。遠くで戯れる海猫の鳴き声と潮騒を聞きながら、一人の男が海沿いの通りを歩く。一本のギターを片方の肩に引っ提げ、その背を丸めるようにして視線の先の石ころを蹴飛ばしながら、その身に塩辛い海風を浴びていた。
蹴飛ばした石ころが勢い余って側溝の金網の中に転がりカランと音を立て落ちていくのを見て男は背負ったギターと自分の左手に意識を向けながら、はぁ、と溢れるような溜息を吐く。
「ギタリストになるんだって親父の反対を押し切ってまで家を飛び出して、何年も夢を追っかけて来たその結果がこれかよ…」
不幸な事故だった。と言ってしまえばそれまでだが、男にとってそれは今まで賭けてきた人生を否定するに等しい出来事だった。
居眠り運転の軽自動車から道行く少年を庇い傷を負ったその左手は外傷さえ癒えたものの、神経の損傷により思い通りには動かせない。
ギタリストを夢見る男にとってそれは致命的だった。
「親を裏切った代償がこれだってのかよ…もうギターを弾くのすら許してくれないってのかよ、神様。」
誰に聞かせるわけでもなく、男の口からは後悔と失望の言葉が溢れてくる。黙っていれば代わりに涙が出てしまうから、そう言わんばかりに男は独白を止めない。
「あーあ…これからどうするんだろうな、俺。いっそ…いや、なんてな…はは…」
もう歩き始めて何分。何時間経っただろうか。未来に絶望し、バイトも放り出し飛び乗った電車に揺られふらと辿り着いたこの海沿いの町で。男は一人歩き続ける。
もう太陽も半分隠れた頃だろうか。夕日は煌々と眩しい光を放つが男にとってはそんな夕焼けも煩わしいものにしか感じらない。夢敗れた自分をさらに責め立て、刺してくるような光を見るのが嫌で、男はずっと顔を上げられずにいた。
太陽も沈み切った頃。辺りは先程までの明るさが嘘かのようにしんと静まり返り、寄せては返す波の音も心なしか遠くに聞こえる。夜になるとこの町では街灯も少なく星がよく見えたが歩き疲れた男はそれには気づかない。
男は少し離れた場所に、一つの明かりを見つけた。あそこで宿の場所を聞こう、それかあの光が民宿か何かなら大いにラッキーだ。などと男は思う。
それに、昼間の喧しさを潜めた町の住居のポツポツとした明かりとは違って、遠くで輝く光にはどこか不思議な引力を感じられた。
「ごめんください。あのう、少しお尋ねしたいことがあって…」
そこは古びたカフェテラスだった。潮風で所々劣化した木造の建物はしかし妙な安心感を与えてくれる。
こんな時間までやっているのも珍しい。と、そう考えながら男は中にいるであろうカフェテラスの主人か店員かに、声をかけた。
「…入りなさい。」
「…ああ、では失礼します」
男を出迎えたのは白髪に口髭を蓄えた一人の老人だった。その細く骨張った体に似合わない派手なアロハシャツを着て男の眼を見つめる老人の瞳には吸い込まれそうな程黒く深い引力があった。
店の中にはその老人一人だけで、男の他に客もいない様子だった。
「お前さん、ギターをやるのか?」
そう問われ男は下を向く。いや、本人にそんなつもりはないのだ。ただし、男の心は無意識にその質問に答える事を拒んでいた。
「いえ、左手を怪我したんです。だからもうギターは……弾けません」
初対面の老人に気を遣わせることが無いようにと、男はなるべく明るく答えたつもりだった。しかし、今の状態になってから言わないようにしていたその言葉は男の心にずんと重くのしかかった。
だんだんと熱くなる目頭から意識を外すように男は言葉を紡ぐ。
「俺、ずっとギタリストになるのが夢で。若い頃は親父に反対されたけど、それでも家を飛び出して東京に出て。俺が誰よりも上手いんだって信じてました…若い頃はそれだけがギターを弾く理由で。…ようやく…最近になって大きな所で…ライブなんかもするようになって…俺の一番の夢なんです…ギタリストになってっ…大勢を…楽しませたいってっ…」
最後の方は男自身も何を言っているのか分からないまま感情の波に言葉を委ねていた。もう自分では制御できない程に目尻からは涙が溢れる。人前で号泣する恥ずかしさと、言葉を紡ぐ度に夢の終わりを自覚させられ、さらに涙が溢れてくる。
「カッコいいじゃねえか」
老人の一言で男は顔をあげる。
その言葉の意味は男には理解できなかった。ただ感情のままに泣いて、夢を諦めてこんな場所までふらふらと来た自分のことをこの老人は何と言った?
「お前さん…まだ諦めてねえじゃねぇか」
何を言っている?男は涙を拭うこともやめ、必死に老人の言葉を理解しようとする。それが、自分を救ってくれるような気がして。
「お前さんは今、俺に話してくれた。初対面の俺にこれが俺の夢なんだって。夢だったじゃあなくなんだって言ったんだよお前さん。それはまだ夢が過去のものになってないって、そういうことなんじゃあねえのか?」
男は顔をあげて老人を見る。そう語った老人の姿は涙でぼやけていたが、男には実際の見た目よりも何倍にも大きく映った。
「夢を諦めたってんならよぉ。なんで今ソレ持ってんのか、考えてみろよ」
男にはもう絶望や迷いは無かった。目から溢れ出る涙はずっと止まらなかったが、男の手には強く一本のギターが握り締められていた。