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佐倉碧の幸せな話

作者: はじめアキラ

 (みどり)は困っていた。

 理由は単純明快、さっきまで膝の上で寝ていた愛猫のマリーの姿が見えないからだ。


――え、え?マリーどこ?どこ行っちゃったの?


 碧はきょろきょろと辺りを見回す。まだ頭は霞がかかったようにぼやけている。とりあえず、さっきまでの出来事を思い出そうと頭をポカポカと叩いた。そうすると、忘れていた出来事などを思い出せることもあるんだよ、と少し前に見たアニメでやっていたからである。

 女手一つで碧を育ててくれている母は、朝出掛けたら基本的に夜まで帰ってこない。何のお仕事をしているの?と聞いたらあまり話したくなさそうに“お店で働いているのよ”と答えてくれた。お店とは、どんなお店なのか。絵本でよく見かけるような花屋さんやケーキ屋さんなのだろうか。だとしたら、隠す必要なんかないのにな、と思う。

 そして帰ってくると、お母さんはいつも独特の匂いをさせてくるのだ。花のようなフルーツのような、しかしもっときつい臭い。香水の一種なのかもしれない、と思い至ったのは最近である。碧は香水なんかつけたことがないからわからない。お化粧もしたことがない。お母さんみたいに素敵な口紅塗ってみたいな、と言ったら苦笑いされた。真っ赤な口紅、私みたいなお子様には似合わないということだろうか。


――えっと、いつも通りお弁当をお母さんが作ってくれて。


 とんとんと頭を叩きながら、記憶を呼び起こす碧。


――いつも通り、“危ないから外に出たらダメよ”って言われて。


 碧は物心ついた時から、このワンルームの部屋を出たことがない。外には車が走っているし、女の子を誘拐する怖い人がいたりするからだ。同時に、お母さんが仕事で出ていても、碧が一人でいい子でお留守番することができると知っているからだろう。

 一日の殆どを、部屋で一人で過ごす碧。けれど寂しいと思ったことはない。クマのリッキーにイヌのコータ、レッサーパンダのサム(全部ぬいぐるみだ、なんと母が碧のために作ってくれたのだ!)。そして、ロシアンブルーの猫、マリー。マリーだけ本物の猫だ。友達がいつも、たくさん側にいてくれる。だからちっとも不安なことなんてないのである。それはもう、一番嬉しい時間はお母さんが帰ってくるその瞬間に決まっているのだけれど。


――そう、それで。お母さんに言われた宿題を頑張って終わらせたんだよね。それで、どうしたっけ?


 学校にも危ないことがいっぱいある。怖い先生がいるかもしれないし、ナイフを持った変態が出るかもしれないし、クラスの子にはいじめられるかもしれない。だから学校にも行かなくていい、と母には言われていた。そんなに恐ろしいところならかえって興味が出てしまう。どんなところなの?と聞いたら叱られてしまったので、以来その話題を振ったことはないけれど。

 何も問題などない。お勉強は、母が全部教えてくれる。国語も算数もみんな母に教わった。忙しい母が自分のために時間を使ってくれて、お勉強を教えてくれる。碧はそれだけで満足なのだ。お勉強はそんなに好きではなかったけれど、それでも苦に感じたことはない。お母さんを独り占めできる時間が、碧にとっては一番の幸せだからである。

 今日は算数を勉強した。掛け算九九というやつだ。スラスラ解けるようになったので、お母さんに早く見てほしい。そう思いながら、そのまま部屋のテーブルでうとうとと眠ってしまったのである。膝に、同じく眠たそうなマリーを乗せて。


――そう、眠るときまで確かにマリーはお膝にいたもん。ならきっと、このお部屋のどっかに隠れてるんだわ。


 マリーは大切な家族。でも、人間と違ってわからないことがたくさんあることを知っている。例えば電気のコードをかじったりしてはいけない、とか。水道を足しっぱなしにしてはいけない、とか。マリーが悪戯をしないように見ていてねと母には言われていたのに、どうやら失敗してしまったようだ。

 彼女になにかがあっては大変だ。私は慌てて辺りを探し回った。窓を見る。鍵はかかったままだ。マリーは鍵を開けて外に出ることはできたが、外に出た後で内側の鍵を閉める、なんて魔法のような方法は知らないはずである。そもそも、数年前に母が“窓から悪い人が入ってきたら危ないから”と鉄格子を嵌める工事をしてもらったのだ。だから、窓の鍵が開いていても、外に出ることなんかできない。そんな隙間なんかどこにもないはずである。


「マリー?どこー?お願い、出てきて。私がお母さんに叱られちゃうよぉ……」


 マリーの名前を呼びながら、机の下、カーテンの影とあちこちを探す碧。

 一応玄関の方も見に行ってみることにする。やっぱり、玄関も鍵がかかったままだ。そもそも、この玄関は碧にも開けられないようになっているはずである。碧を守るために、母が毎日外側から何個も“南京錠”というものを嵌めているらしい。開くことができるのは、夜に帰ってくるはずの母だけである。


――どうしよう、困ったなあ。


 部屋から出る方法なんかないはずなのに、マリーの姿が何処にも見当たらない。段々、碧は不安な気持ちでいっぱいになった。ぽろ、と一粒涙が溢れ始めると、もう後から後から止まらなくなってしまう。


――だめだめ!泣いちゃダメ!碧も大きくなったんだから!もうお姉さんだもんね、泣かなくて偉いねってお母さんに誉めてもらったばっかりなのに……!


 目の前が真っ暗になっていく。途方に暮れてしまい、私は部屋の真ん中にぺたんと座り込んでしまった。

 マリーに何かがあったらどうしよう。

 母に叱られてしまったらどうしよう。

 普段は優しい母だが、言いつけを破ったときは本当に恐ろしい顔をするのだ。碧は震えながら、母が仕立ててくれたピンクのフリルのワンピースの裾を握って震えていた。

 その時だ。


「ただいまぁ」

「!」


 あれ?と思って振り返った。母が帰ってくるのは夜の遅い時間のはずである。それなのに、彼女は少し疲れた様子で、それでも明るく挨拶をしてそこにいた。今日はつーんとしたきつい香水の匂いがしない。残業、とかいうものをやらなくて済んだのだろうか。


「お、お母さん!ごめんなさい!」


 碧は半泣きで、帰ってきたお母さんにすがりついた。


「私、宿題をやったら寝ちゃって……そしたら、マリーがいなくなっちゃって!窓も玄関も開けてないのに全然見つからないの……どうしよう、どうしよう!」

「ええ?」


 母は目を丸くして、部屋の中を見回すと――やがてプッと吹田した。そして。


「あはははっ!もう、碧ちゃん、慌てすぎよ!」

「え?」

「一番高い、お皿の入ってる棚の上を見てみなさい?」

「ええ!?」


 そんな、と思って母が指差した方を見れば。なんと、マリーは棚の上に上って、そこですやすやと寝息を立てているではないか。

 そりゃあ見つからないはずである。私はずっと、下の方ばかり探していたのだから。


「な、なんだぁ……」


 思わず安堵のため息をつく碧。そんな碧の頭を撫でながら笑う母は、ほらコレ!と何か紙袋のようなものを差し出した。


「今日はいつもよりずっと早く帰ることができたし……碧ちゃんのお誕生日だからね。ケーキ買って帰って来ちゃった!」

「わぁ!もしかして、チョコのケーキ?」

「もちろん!碧ちゃんが一番大好きなチョコケーキよ。今日は一緒にハッピーバースデー歌いましょうね!」

「うん!」


 がっかりから一転。今日は最高に幸せな日になった。母が手を洗っている間に、碧はテーブルの上の筆記用具を片付けることにする。

 そしてパコ、と開けた箱の中。茶色くてとろっとした美味しそうなケーキの上に、いっぱい可愛いイチゴが並んでいる。さらにはみどりちゃんおめでとう!というホワイトチョコのプレート。箱の中には、大きな蝋燭が二本入っていた。


「お母さんお母さん!おっきなろーそく、立ててもいい?いい?」


 わくわくしながら私が洗面所の方に声をかけると、母の嬉しそうな声が返ってきた。


「勿論いいわよ!お誕生日おめでとう!お利口さんの碧ちゃんは、いくつになったんだったかしら?」


 幼い頃からの、誕生日のお約束。

 碧はピースサインをして笑って見せた。






「二十歳!」






 碧は今年も思うのである。

 自分はきっと、世界一幸せな女の子に違いない、と。


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