「結婚」について
園田さんと話すようになって、二度季節が変わった。この季節特有の、刺すような冷たさに口から白い息が漏れる。
12月ももう半ばだ。今年が終わる。
だからといって特段なにも変わらない日々を続けるだけだ。初めてここに訪れた日から、気紛れに放課後の時間をここで過ごすことが日課になってしまった。
そして今日も、"特別教室B"の扉を開ける。
「結婚したいけど恋愛はしたくない……」
「また意味のわかんないことを」
扉を静かに閉め、後ろ向きで椅子に座る。珍しいことに机に広げられているのは現代文の教科書だった。園田さんはブランケットにくるまってミノムシのようになっていた。
おや、と眉を上げ園田さんを覗き込む。だが視線は合うことなく、その瞳は教科書を頬杖をついて眺めていた。
「恋愛っていらなくない? 疲れない?」
「そういうことじゃないと思うけど」
疲れる、疲れないで自分の感情が操れるものか。
いつものように好き勝手言いながら、不服そうな顔をする園田さんに呆れてしまった。
園田さんの指先がゆるりと教科書を辿る。そこに書かれていた詩題が目に入った。中学でも習った詩だ。
「島崎藤村の初恋がどうしたの?」
「いやあ。見目の良い子にちょっと優しくされて、ちょっと距離が近いだけで惚れる男はチョロいなと」
「情緒もへったくれもないね」
「事実じゃん。コロッと変わる感情なんて馬鹿馬鹿しい」
無感情に吐き捨てたような声色に、詩を追っていた目を上げる。
緩く上がった唇端と裏腹に園田さんの瞳が強く瞬いていた。けれどそれもすぐに立ち消え、「なんてねー。陰キャ喪女の妬み」と言って薄く笑った。
「まあね。そういうもんでしょ、恋は」
「ええー。秋山くんは恋したことある?」
「あるよ」
「すごい。よくやるね」
「だからやるやらないじゃないって」
恋愛をしたことがない人に「こういうもんだ」と押し付けても意味がないことはわかっている。わかっているけど、言う言わないは別だ。
「あ、あれですか……恋は落ちるものとか」
「そこまでロマンチストぶる気もないけど、そんな感じ」
「うわー! おっとなー! ひゅーひゅー」
「怒るよ」
「ごめん」
「で、今日はどうしたの」
ようやく触れた本題に園田さんは「うーん」と考えつつ、重い口を開いた。
「恋愛って、駆け引きしたり感情が乱されたり、ぶっちゃけ疲れる要素しかないじゃないですか」
「そういう恋愛もあるね」
「え? そうじゃない恋愛とかあるの」
「あー……確かに感情が一切動かない恋愛はないかもね」
「やだ! 私は感情を動かしたくない! 省エネだ!」
園田さんは小学生みたいに喚いた。正直言うとあほっぽい。
恋愛しないなら結婚もしない気なのか。
「へえ。じゃあ結婚も?」
「結婚はしたい」
「即答だね。なんで?」
「10個上のお姉ちゃんが結婚しそうにないから、親のためにせめて私だけでも……」
「思ったより真面目だけど真面目じゃない理由だった」
「あーもー、恋愛はしたくないけど結婚はしたいよー。突然「この人が貴方の夫です。籍は今から入れてください」とか政府の人が連れてきてくれないかなー」
更にあほっぽいことを言い出した園田さんにちょっと吃驚する。
人権無視なその政策は、少なくとも今の日本じゃ通りそうはない。
「わ、漫画でありそうなシチュエーション。夢もなんもない」
「私はその方が納得できるのに。「この人が旦那か! そっかーじゃあ結婚しなきゃねー」ってなるじゃん」
頬杖をついて、唇をほんの少し尖らせた園田さんは言う。
確かに受け入れざるを得ない状況だが、納得できるかは別だ。一生を共にするのであれば自分で相手は決めたい。妥協して受け入れるんじゃなく、自ら進んで受け入れたい。
「俺はやっぱ自分で選びたいけどね。自分の意思で」
「自分の意思で選ぶのならまず両思いになる過程が大変じゃない? その点、政府が決めたことなら"決まりだから"相手は自分を、自分は相手を愛せばいいだけだから単純だよ!」
「そんな簡単にいかないよ、人の感情って」
「うーん……」
納得いかないように口ごもった園田さんはややあって上目遣いに覗きこんできた。
その姿が警戒心の強い猫のように見え、少しドキッとした。
「秋山くんは結婚したい?」
「したい」
「恋愛は?」
「それは好きになったら勝手に始まるもんでしょ」
「好き……? 好き、とは……?」
「好きなタイプの話したぐらいだし、そこから引っ掛かるとは思わなかった」
「ふっ、改めて考えるとわからないことが世の中には沢山あるんですよ!」
「あー、園田さんって人のこと好きになるとかなさそうだね。感情動かしたくないとか言ってるぐらいだし」
「おぉう! 失礼な!」
「えっ、じゃああるの?」
純粋に吃驚して聞き返す。すると、園田さんは無言で微笑んだ。まるで誤魔化すように。
「だと思った」
「次回までに好きについて考えさせていただきたいと思います」
「おうよ」
そしてどちらともなく口を閉じた。文庫本を取り出し、角の折れた紙の栞が挟まれた頁を開く。
空気の冷えた教室の中、文字を書く音と紙が捲られる音だけが響いた。