ミノムシ
秋山くんは私とここで話すとき、たまに未確認生物を見たときみたいな「うぉえぇ?」って顔をする。
私が望んだ普通の私はここにはいない。異質な未確認生物である私が現出しているのだと、その時にまた思い知らされるのだ。
"My sister dislikes insects because"
中途半端な英文。今日出された英語の宿題もあと数行で終わりというときに、私の手は止まった。
拭えない胃のむかつきを抱えながらも、視線はぼうっとその文章をさ迷う。
「小さいころ受け入れられていたものが受け入れられなくなるのってなんでだろう」
視界の端で秋山くんが文庫本から顔をあげた気配がして、私も顔をあげた。予想通り、秋山くんはその黒い瞳で私を見ていた。
秋山くんは一度私の手元のノートに視線を移すと、もう一度私を見た。
「今日の園田さんは哲学的な面倒臭さだね」
「へへ、頭良さそうでしょ」
「園田さん今日の数学の小テストどうだった?」
「過ぎたことは過去だよ過去。振り返らずにいこーぜ」
「わあ」
私の雑な返しに秋山くんが呆れたように笑う。そして片手で開いた文庫本を抑えつつ、頬杖をついて私の英語のノートに視線をうつした。
「もうすぐ終わりじゃん。続き書きなよ」
「あー」
"because I don't feel good."
書き終わって、ちらりと上目遣いに秋山くんを窺った。動きのない瞳と視線が噛み合い、慌てて誤魔化すように最後のもう一問に目を落とす。
それは長文ではあるが授業を聞いてればそれほど難しくない問題で、すぐに解き終わるとノートを閉じた。
「で、なんでそんなこと言ってんの?」
不自然なぐらい黙っていた秋山くんが唇を開いた。変なものを見る目でこっちを見てくる。あ、それはいつも通りだった。
うーん、と机の染みを数えながら、さっきの英文を思い出す。
"My sister dislikes insects because I don't feel good."
思い出すのは、小学校の校庭。
木々の茂みに隠れた小さなミノムシ。
2年生のとき、そっと掌にのせて観賞した。友達も興味深かったのか、一緒に触って笑いあった。面白いね、なんて言って。
それが周囲に疎まれ気持ち悪がられるようになったのは、たしか5年生にも上がった頃か。
「あのね、ちっちゃいときってミノムシ触れたじゃん? でも小学校を卒業する頃にはもう、気持ち悪いって触れなくなるよね」
「あー確かに」
「ミノムシは何も変わってないのに。なんでだと思う?」
私からすれば、2年生の私も5年生の私もミノムシは変わらないものだった。だから変わらず、見つけたら触りにいったし可愛がった。なのに、突然周囲は反応を変えた。
私以外の皆はその変化を当たり前のように受け入れていたのだ。それがとても不思議だったし、戸惑いもした。置いていかれたのは私だけだった。
んー、と少し考え込んでいる素振りを見せた秋山くんは、あっけからんと言った。
「ミノムシが変わってないなら、俺たち人間が変わったんだろうね」
「変わったって……突然すぎない? どうしてそう変わったの?」
「きっと園田さんが気付いてなかっただけで、緩やかに変化していっていたと思うけど。ほら、理科の授業で虫について学んだりしていくじゃん? 昔はミノムシが何なのか知らないから触れた、とかどうかな」
「知識が増えるにつれて、出来ないことが増えるってこと?」
不意に年の離れた従姉妹を思い出した。
都内の大学に進んだ彼女は勉強もしながら沢山遊んでいた。人生を楽しんでいる、私と違って快活なタイプだ。
けれどその無邪気さが失われたのはいつだろうか。彼女が落ち着いた大人の女性になったのは、社会人になって1年ほど経った頃だろう。
「大人ってね、なろうと思わないとなれないの。でもね、大人になると選べないことが増えてしまうのよ。理解出来てしまうから選べなくなるの」
すっかり変わってしまった彼女に多少なりとも寂しくなった。それが大人になることなのか、とも思った。
"大人になったからそうなる"んだと思っている私には、"大人になろうとしてそうなった"という彼女の言葉がまだわからない。
「うん、中身が幼虫だって知ったから気持ち悪いとか汚いって感情が生まれたんじゃない?」
「中身を知ったから人に嫌われたってことか。えっ? あれ、私、ミノムシだ……」
「うわっ、そう来たか。でも、無機物のシャンプーから生物にレベルアップしたことを喜ぶべきか……」
あれ、そんなこと言ったっけ。
一瞬頭上に疑問が浮かんだけど、秋山くんを見る限りおそらく言ったのだろう。
「シャンプーの心を持ったミノムシ!」
「合体した……って、いや、人間だから! それじゃあどんどん園田さんが気持ち悪い物体に近付いていくよ!」
「園田は人間の皮を被ってシャンプーの心を持ったミノムシです……」
「……気持ち悪い」
想像をしたのか、嫌そうな顔をした秋山くんにちょっと申し訳なくなった。
いや、待って。想像できるものじゃないでしょ。