面倒臭い女
放課後の空き教室。
そこは用事がなければ誰も近付きやしない、学校にある余った教室。
自分も例には漏れず、忘れ物をしてしまった今日まで、授業外では一度も足を踏み入れたことはなかった。
遠くから聞こえてくる運動部の声を背後に長い廊下を一人進む。
首筋に汗が伝った。夕暮れに傾いてきたとは言え、梅雨明けの初夏の日射しが窓から強く突き刺さる。
その暑さに辟易しながらも、ようやく校舎の隅のひっそりとした教室が見えた。扉の上には小さく"特別教室B"の文字。
中に入ってさっさと荷物を取って帰ろう。そう、扉を開けて、けれど足を止めた。
誰かいる。
教室の窓際の席。両腕に顔を埋め、机に突っ伏している黒髪の女の子。
どこか既視感を覚え、上履きに視線を落とす。俺と同じ赤いラインに、「園田」と癖のない字が見えた。
新学年に上がってから見知った姿だった。
こんな人気のない、誰も来ないであろう寂寞とした場所だ。予想をしていなかった光景に眉が上がった。
知らない人ならまだしも、クラスメートだ。無言でがさごそ漁って出ていくのは今後を考えると良くない。
少しの気まずさを飲み込み、起きてるのか寝てるのかすらわからない相手に向かって息を吸い込んだ。
「園田さん、どうしたの?」
ちなみにというか、彼女――園田さんと俺はほとんど話したことはない。お互いクラスメートA、クラスメートBとして挨拶や業務連絡をするぐらいだろうか。
園田さんは普通の子だった。良い意味でも悪い意味でも目立たない。クラスのお調子者が面白いことを言えば笑うし、女友達が愚痴をこぼせばそれに同調する。
まるでゲームの背景のようだった。端的に言えば存在感が薄いと言うのだろう。見えているけど誰も見ていない。
教室にいる園田さんは、特別な印象がないくらいつまらないぐらい人に埋もれて、主張をせずに生きている人だった。
寝てて返事がなければこのまま立ち去っても許されるか。
ちょっとした期待と裏腹に園田さんは起きていたようだった。伏せていた顔を少し上げ、前髪の隙間からねめつけるように俺を見た。
「5年付き合った彼氏と別れました……」
いちクラスメートとしてのお付き合い。
だから園田さんが告げた言葉は結構衝撃的というか、意外だった。
「それをほぼ初対面の俺に言って、どうしたの」
「ですよねぇ」
困ったように笑う園田さんに俺もぬるい笑みを返した。
まあいい。
教室に入って自分が授業で使った机を覗く。
あった。やはり俺の物理のノートは3時間目からここでくつろいでいたようだ。
ほっと安心して園田さんの方を見ると、相変わらずぼけーっとした顔で肘をつきながらこっちを見ていた。
遠慮のない視線に首をかしげる。
「なに?」
「たしか秋山くんだよね」
「うん。今更?」
「ごめんごめん。人間覚えるの、苦手でさー」
あははと笑う園田さん。
クラスでは背景に埋もれている筈の笑顔はどこかいつもと違った。完璧じゃないというか、違和感があるというか。
園田さんの座ってる席の前に腰掛けた。ノートは隣の椅子の上に放っとく。
むわっとした湿度の中で椅子はひんやりとしていた。気持ちがいい。
「なんで、って聞いて欲しい?」
「え?」
「何で別れたのって」
「ええっ?」
自分から振ったくせに聞かれると思ってなかった、みたいな顔された。
俺の知ってる女たちは、別れたー!って鬱憤を晴らすかのようにそこまでの過程を全部自分から話してくる。だから先手を打って聞いたというのに。
「聞いて欲し……くはない、なあ」
「あっそ」
なんなんだよ。
少しむっとしたけど、これがクラスメートAとクラスメートBの距離感だ。力が抜ける。
園田さんは俺をじろじろ見ると、「秋山くんってさあ」って言う。
話も終わりだと思い、椅子から腰を浮かせかけていた俺は再度下ろし、視線で続きを促した。
「優しくないよね」
「は?」
「うん、優しくない。全然優しくない」
「優しくして欲しいの?」
「して欲しくない」
なんだこいつ。厄介すぎるだろ。
思わずチベットスナギツネみたいな顔になった。園田さんはそれ以上何も言わずにやにや面白そうにこっちを見ている。
なんかそれがむかついて、さっき園田さんがそうしたように「園田さんってさあ」って考えなしに言う。
「面倒臭いね」
待った。
傷付けるような言葉が出て「しまった」って思った。普通の女の子なら怒るか悲しむ言葉だ。
決まりが悪くてそらしてしまった視線をそろりと園田さんに戻す。
そして今度こそ、俺の顔はコーラと言ってサイダーを渡されたときのようになった。
奇妙なことに園田さんは嬉しそうな顔をしていた。強がりでもなんでもない、本当に嬉しそうな顔。
ゲーム背景なんかじゃない。意思も、名前もあるキャラクターに昇格してる。目を瞬かせた。
そして喉から伺い出ようとした謝罪の言葉は、吃驚した俺によってごくりと飲み込まれた。
「そうだよ、面倒臭い女だよ。面倒臭い女とかいて「そのだ」って読むんだよ」
「……意味わかんな」
「だって面倒臭い女だもん」
「うわあ」
にこにこする園田さんをまじまじと見つめる。
肩にかかるぐらいの黒い髪は夕日によって赤くく彩られている。よく見るとまつげが長い。二重だと思っていた瞼はぱっちりなだけの一重だった。こちらを見つめる瞳は薄茶色だ。
そして見回したあと、俺自身が園田さんとちゃんと向き合うのが初めてだと気付いた。同時に園田さんが俺と瞳を合わせることも。
「初めてちゃんと話したよね」
「まあ。機会なかったし」
「クラスでもそんなんじゃなくない?」
「そうだけどぉー、どっちも私なんですー」
唐突に普段と対応が変わった園田さんに肩の力が抜ける。ため息が泳ぎ出た。
ほんと、何なんだ。そう思うと同時に不思議と気持ちが軽くなった。
「だっる」
「もう! うるさいなあ」
「優しくない?」
「優しくない! でも! 優しい!」
どっちだよ。
叫んだ園田さんは、堪えきれなかったのかくすくす笑いだした。それがどんどん、大きくなって響いていく。
それにつられて俺も思わず笑ってしまった。悔しいからちょっとだけ。
今日、初めて知ったこと。
園田さんは面倒臭い。
でも、その面倒臭さは嫌いじゃない。