存在
私は何をしているんだろう。私は何を思っているんだろう。
胸を締め付けるような痛みを手のひらで押さえながらそんなことを考える。
背もたれにしていたベッドにさらに深く体重を傾ける。
どうしたってこんなことになっているんだろう。
一度は突き放そうとしたというのに、なんでこんなに可笑しな状態になってしまっているんだろう。考えれば考えるほど蟻地獄に飲み込まれる虫の気持ちを追体験しているような錯覚さえ覚える。
神谷君と仲直りをしたあの日、私は不覚にも安堵してしまった。
彼のためにと私は彼を突き放しておいて、突き放しても私を見限らなかった彼の態度に嬉しさを感じてしまった。そしてそんな明るくて暖かな彼を“私”は好きになってしまった。
きっと彼が優しくしたのは“私”だからじゃない。“渚”という少女の振りをしているからだと言うのに何を私は喜んでいるのだろう。
私はずっと彼に、神谷明人に嘘をつき続けている。
白砂渚という少女の振りをして、彼の友人を演じている。
そして今では彼とは恋愛関係にある。
嘘を知らないからこそ彼は私に対して優しいかもしれないというのに。
だというのに、私はそれを棚に上げて喜んでいる、嬉しくなってしまう。
なんて私は馬鹿で愚かな奴なんだろう。
そう思わずにはいられない。
深いため息が口から漏れ出し、そのまま天井をボウっと眺めた。
どこにでもあるような白い天井が見える。
この体になる前も、この体になった後も、この部屋のような天井はどこにでもあった。
だけどここの天井はどこまでいっても“渚の部屋の天井”で、“梛の部屋の天井”ではない。
その事実は変わらないのだ。
つまりこの体も“渚の体”であって、“梛の体”ではない。
梛は男で、渚は女なのだ。当然違うのは当たり前だろう。
そう当たり前のはずだ。
じゃあ……今のこの気持ちを抱いているのは。
そこまで考えたところで、心拍数が上がるのを感じた。そして背中から嫌な汗が流れてくるのを感じる。
気づいてしまった。
私は、目の前のあたりまえを当たり前だと思うがあまり、一番重要な所を考えていなかった。
私は“渚”だ“梛”じゃない。
動悸がさらに早くなっていくのを感じる。
胸が痛い。呼吸が乱れてくる。
今目の前に広がっているのが“渚の部屋の天井”であるように、この体が“渚の体”であるように、私の意識が“渚の意識”であったなら――
腹部から喉に焼けるような感触が昇るのを感じる。
「ッウ――」
とっさに口を手で抑え込んだ。
手抑え込んだ手のひらにじんわりと生ぬるい熱さを感じた。
目の前の景色が薄い白と黒に点滅するような、そんな感覚。
地面がなくなったかのような浮遊感。
気づけば目の前に広がるのは、天井ではなく、床に敷いた小さなカーペットだった。
「私は……」
誰なんだろう。
“梛”なのか “渚”なのかだろうか。
今更だと思う。
それでも、今この瞬間しっかりと理解してしまった事実から逃げることはできない。
目を背けることなんてできなかった。
私には間違いなく“梛”という青年の記憶がある。それは間違いない。
でも私が本当に“梛”であり、渚という少女の体に入ってしまったと考えるのなら、神谷明人に恋など抱かなかったはずだ。“梛”は女が好きで、男にときめくことなどなかったのだから。
でも確かに私は神谷明人に恋をしている。
彼のことを好いている。
彼に可愛いと言われて、ときめくし、嬉しい。
“梛”のままだったならあり得ない。
“梛”は女性に同じように言葉をかけることはあっても言われて喜ぶ人物ではなかった。
それに“梛”の記憶にはこんなにも心から人を好きになった記憶などなかった。
変化しているのか、それとも……本当の“渚”が目覚めようとしているのか。
また更に動悸が早くなっていく。
手が震える。
どちらにせよ“梛”としての人格は崩れていく。
崩れてしまったら何を支えにして生きていけばいいのか分からない。
目覚めてから今の今まで私は“梛”として生きてきた。
それがなくなってしまう。
そう思うだけで、また足場がなくなるような絶望感が体を走った。
私は“梛”だ。ちゃんと全部覚えて――
「……あれ、“梛”ってどんな顔してたんだっけ」
分からなかった。
“梛”の顔が、“梛”の声が、間違いなく覚えていたはずの20数年ずっとそばにあった自分を、思い出せない。
まるで靄がかかったように、ぼんやりとしている。
かろうじてどんな感じの姿をしていたかは覚えてはいたものの、詳細を思い出すことはできなかった。
怖い。
確かにそこにあると信じていたものが消えていくことが、自分が自分であると思えた自信が消えていくことが。
怖い。
“梛”じゃなくなったら今の“私”がなくなってしまうのではないかということが。
怖い。
今の“私”じゃなくなったら神谷明人は私の前から消えてしまうのではないかということが。
「嫌だ……嫌だよ」
涙が頬を伝う。
私は本当に馬鹿だ。
本当のことを彼に言わないまま、彼と関係を進めてしまった。
私は“渚”じゃない。
そんな私を彼は好きだと言ってくれた。
だけど彼は同時に昔の“渚”だったら好きになったかわからないとも言った。
私はこのまま時間がたてば今の“私”じゃなくなってしまう、もしかしたら昔の“渚”のようになってしまうかもしれない。
そしたら彼は、愛想をつかしてしまうかもしれない。
でも本当のことを打ち明けるのも怖い。
私は“梛”としての記憶しかない。
なのにあたかも“渚”であるように振舞った。
彼にとって私は、むかしの“渚”の性格が引っ越しで少し変わったとしか思っていないはずだ。
そんな彼に、最初から“別人”だったなんて、言えばどうなるのか分からない。
騙していたのか。
と怒鳴られるのだろうか。
いや、優しい彼のことだからそんなことは言わないだろう。
それでも彼の好きな白砂渚は “渚”であって“私”ではなかったと、そんな事実を突きつけられたら耐えられる自信はなかった。
もっと早くに伝えていれば良かった。
好きだって気づく前に言いたかった。
そうじゃなければ、そうじゃなければこんなにも辛くはなかったはずなのに。
それでも気づいてしまった。
伝えないといけないといけないということに。
このままではいつか本当に取り返しのつかない状態になってしまいそうなことに。
大好きだから。
初めて心から好きだと思えた人だからこそ、どんな結末を迎えようとも私が“私”である内に伝えなければ私はきっと後悔する。
未だに胸は痛むし、手は震えているけれど、それでも携帯に手を伸ばす。
そしてチャットアプリで神谷明人に私は一通のチャットを送った。




