自己
ある日の民宿「しろすな」にて。
「こんにちはー」
明人がやってきていた。
今日は別にバイトの日というわけではない。
渚に料理を教えて欲しいと言われて来ている日である。
もともと週に1回くらいの割合でこんな日はあった。
「おはよう…神谷、君」
「お、おはよう。渚。そんな出迎えなんてしなくていいのに」
普段の渚なら声に反応してキッチンから出てくるので、待ってるのはなかなか珍しいことである。
「たまたまだよ。たまたま。今日はこっちにいたい気分だっただけだから」
実際は死ぬほどそわそわしていただけである。
いつくるのか待ちきれずに玄関をうろうろしていたとか言えるはずが無い。
「そ、そうか?じゃあお邪魔します」
というわけでとりあえずキッチンに向かう2名。
まあ一応料理を教えてもらう名目なので当然であるが。
「えーっとじゃあ今日は、魚でいくか」
「魚?魚、えー。魚なの?違うのにしない?お肉とか」
「いやだってさ、渚他のはもうだいたい一通りやったじゃないか。未だに全く触って無いのって魚料理関係くらいじゃないか?」
「魚は、さぁ。食べ、たくないじゃん。これ、一応お昼ご飯だし」
「だけどここ民宿だろ?宿だろ?しかも海真横なのに魚全くでないって妙に思われないか?」
「う…確かに言われたことはあるけど。でもぉ、魚は、苦手なんだよね…」
「まあ無理して渚が食べる必要は無いけどやれたほうが良くない?」
「…そうだね、やれたほうがいいね。うん、分かった。じゃあやる」
滅茶苦茶嫌そうな顔である。
「そんな嫌そうな顔しないでって。こうなると思ったから渚の分の昼ご飯俺作るからさ。魚以外の奴」
「…じゃあやる。オムライスね」
「え、お、オムライスかぁ?材料あるかな…」
「大丈夫、ちゃんとあるから」
「用意周到だな渚」
「日頃から作ってますから。後冷蔵庫大きいから、材料はいっぱいあるよ」
若干どや顔気味の渚。
「流石渚。素晴らしい」
「ねぇなんかちょっと失礼な視線を感じるんだけど」
「気のせいだって。じゃあやるかー」
「ねぇ、笑った!今笑ったよね!」
「い、いや?笑ってないよ?」
「笑ってるじゃん!いいじゃん!冷蔵庫大きいのは本当なんだもん!」
「いや、ごめんごめん。すっごいどや顔だったからつい…」
「そんなにどや顔じゃないよ!」
机をぱしぱし叩きながらそう言う渚。
抗議スタイルである。
「馬鹿にしたわけじゃないって。ただ可愛かっただけだから」
「!!…んーーーー!」
明人から目線を逸らして唸る渚。
「そう言えばいいと思ってるでしょ!」
「うん思ってる。渚可愛いもん」
「んーーーーー!!!!」
しゃがんで膝抱えて唸る渚。
手が床をバシバシしている。
感情が漏れてる。
その後しばらくそんな感じだった。
「はぁ、じゃあさあ、やるよ!」
顔のニヤ付きが抑えられない渚。
そこを見逃す男ではない。
「渚なんかにやついてない?」
「…っ!にぃいやついてにゃい!」
「いや絶対顔にやついてた。そうか、渚はかわ…おわっ!」
可愛いのかわが聞こえた瞬間に明人に軽く殴りかかる渚。
「禁止!言うの禁止だから!駄目!」
「えーなんでー」
「駄目なものは駄目!禁止!」
「なんか他にあるかな…」
「いいから!もう、やるの!」
「あはは、はいはい」
というわけでようやくやるべきことに取り組み始めた2名。
流石に刃物を扱う料理中は2人とも真面目であった。
この辺はわきまえている。
「よっし、こんなもんか?」
「どうかな、美味しいかな」
「食べてみないと分からないけど…失敗はしてないし大丈夫だと思うけどな」
「じゃあ神谷君食べてみて」
「ん、じゃあちょっと失礼…うん、美味い。全然大丈夫、いけるいける」
「ほんと!これ出しても大丈夫!?」
「うんうん。これで文句言ってくる人いないだろ。言って来たらそれ相当舌超えた奴だって」
「そっか…そっか…うん!ありがとう神谷君!」
そう言いながら自前の料理用ノートに色々書き込んでいる渚。
教えられたことは毎回こんな感じでノートに書き込んでいる。
そしてそれを見つめる明人。
「とりあえずこれでだいたいの料理いけるんじゃないか?」
「うん、そうだね。今日は魚の下処理の仕方も教えてもらったし、ちゃんとメモも取ったから大丈夫だと思うかな」
「そっか。じゃあまあ教えられること大体全部これで教えたなぁ」
「あれ?もうそんなに教えてもらったっけ」
「まあ細かいのはまだあるけど大まかには?だって半年くらい教え続けてるだろ?そろそろネタも切れてきたって」
「そっか、そうだよね。半年か。もうそんなにも教えてもらってたんだね。でもなんか神谷君のことだからまだまだありそうって期待しちゃうんだよなぁ」
「まあ、まだあるけど…」
「ほんと?それじゃあまだまだこれからも神谷君と会える時間を作れるってことかな。だったら嬉しいな。ネタ切れって言われてこういう機会減るのかと思うと、ちょっと寂しいし」
「…料理教えなくなっても来るからな?渚に会いに」
「――っ!ち、近いよ神谷君」
「近づいてるからな。だって俺別に渚の料理アシスタントしたいから来てるわけじゃ無いし。渚に会いたいから来てるんだし」
「う、分かってる。ちゃんと分かってるから!」
そう言ってちょっと離れようとする渚。
「ほんとに?」
「ほ、ほんと!分かってる!分かってるって!」
後方撤退する渚。
それを詰める明人。
知らないうちに壁まで追い詰められていた渚。
状況としては壁ドンのあれである。
渚の顔は死ぬほど真っ赤である。
「料理教えられなくなったからって、離れようとか思わないでね渚。せっかく今の関係になれたのに、俺、嫌だよそんなのさ」
「う、うん、そう、だね!私も、嫌、だよ!…ただ、たださ!ちょっとだけ、離れてっ」
「…あ、ごめん」
我に返った感じでスッと身を引く明人。
渚は力が抜けたように壁の横で座り込んだ。
「はぁ…びっくりした」
「あ、渚、その、ごめん!いや、その、壁ドンとかする気は全くもってないというかその…」
「もう、ほんとだよ…まさかあんなにナチュラルに壁ドンされるなんて思わなかった」
好きな人に壁ドンされたら照れるに決まってるじゃん、と小さな声で付け加える渚。
一方明人はと言うと、先ほどまでの空気がウソのようにおろおろしていた。
「いや、なんかっ、料理教えられなくなった時渚と会う機会減らしたくないなって思っただけで!その…」
「もう…」
立ち上がる渚。
明人の方へと接近して、明人を抱き寄せた。
「!?」
「私だって、神谷君のこと、大好きなんだから、会う機会を減らそうって思ってるわけじゃ無いよ。だから安心していいんだよ」
「…」
そのまましばらくして。
「…その、渚。…そろそろ離れていいでしょうか」
「ん、どうして?」
「恥ずかしさで死にそう」
「お返しだから駄目」
「…」
その後、しばらく抱き寄せられたままになっていた明人であった。
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お昼を食べ終わり、2階のリビングにやってきて駄弁り始めた2名。
「そういえば、咲希さんの姿が見えないけど…?」
「ん、咲希姉?今日はお客さんがいないから、大月さんと出かけてったよ。夜には帰って来るんじゃないかな」
「ああ、そうなんだ」
まあつまるところ咲希はデート中である。
暇があれば最近はこんな感じである。
「まさか咲希姉がね、こんなに家空けるようになるなんて思わなかったよね」
「まあ…俺が言っちゃいけないけど、基本的に家にいたもんな…」
「出不精だし、しょうがない。でもそれが、変わるんだから、恋ってすごいよね」
「…俺らはなんか変わったかな」
「どうなんだろうね。ちょっとは変わったんじゃないかな」
「そうなのかな…なんかよく分かんないや。一緒にいる時間が長すぎてな」
「そうかな、でもさっきみたいなことは今までだったら無かったと思うよ」
「ま、まあ確かに?」
「それに私が神谷君にこんなにドキドキすることも無かったかな」
「えドキドキしてるの?」
「してないと思ってたの?」
「割と普段通りだったから意識されてないんじゃないかと」
「そんなわけないじゃん!今日だって神谷君が来るっていうから、ずっと玄関で待ってたのに!」
「え、待っててくれたのか!?」
「ん!?ち、違う、たまたまだから、待ってたんじゃないから!」
「そうかーたまたまかぁー」
明人の顔はにやにやしている。
「んーーーー!もぉーーーー!言わないでおこうと思ってたのに!」
そんな感じで喋り続ける2名。
話す話題に事欠かないのはいつも通りである。
「そういえばさ、神谷君。神谷君って、いつから私のこと好きだったの?」
「好きだった時か…うーん、それは気になった時も含むやつか?」
「うーん、じゃあ普通に好きになった時は?」
「渚と久しぶりに話すようになって、バイトでよく会うようになって…気が付いたら好きだったから時期がよく分からないな…」
「ふーん、そうなんだぁ。意外にぼやっとしてたんだね」
「まあつい最近まで好きだって気づいてなかったしな俺」
「これでもてるんだからよく分からないよね。神谷君って」
「しょ、しょうがないだろ、恋愛未経験なんだから俺。あ、でも渚のことを気になったのがいつかははっきり覚えてるぞ?」
「そうなの?」
「小学生時代だよ。まだ渚が都会の方に出てく前だよ」
「小、学生、時代…?へ、へー…そう、なんだ」
「だいたいの女子が勝手に俺の周りに寄って来る中、渚は全くそう言う感じじゃ無かったからあの頃から気になってはいたな…こんなこと言ったらぶっ飛ばされそうだけど。覚えてるだろ?」
「え、あ、うん。そう、だった、かな。そんな気が、するね」
「意外と忘れるもんなのか…まあでも顔すら忘れられてたしそんなもんなのかな?あはは」
「神谷君はさ、その、なんでずっと私のこと覚えてたの?もちろん、私が全部忘れてるのもどうかと思うけど、小学生ってずっと前だよね。やっぱり忘れたりしない?」
「渚のことは覚えてるなぁ…なんだかんだ友達だったし、さっき言ったみたいな経緯もあったし…もしかしたらそのころから好きだったのかもしれないけどな」
「そ、そう、なのかな。そんな昔から…」
「うん、というか忘れるわけ無いって。あの頃の渚はよくどっかいなくなって迷子になったかと思ったら、ひょこっと帰ってきたりするし、定期的に不思議発言してたし…そのころから考えると今の渚、かなりなんというかまともになった、よなぁ?」
「そんな子だったの?私」
「そんなんだったぞ?本人意外と覚えてないもんだな?」
「そう、だね…えへへ、意外に自分のことって分からないのかな」
「そうかもな…まあ俺もあの頃と比べられたらだいぶ変わってるのかもしれないけど、自分だとよく分からないしな…でもなんというか渚は、別人になったみたいだな。そんなはずないけどさ」
「え…そ、そんなわけ、ないよ。おかしなこと、いうね」
「まあそりゃそうだよな。あ、昔よりも今のがいいって意味だからな?」
「そ、そう?じゃあさ、私が昔のままだったら、神谷君は私のこと好きになってくれたのかな」
「…どうだろうな。分からないな」
「そっか、そうだよね。分からないよね。そんなの、聞くまでも無いか」
□□□□□□
「それじゃあ、またね。神谷君」
「ああ、またな渚。次はまたバイトの日だけどな」
「うん、そうだね」
「じゃ、今日は楽しかった!またな!」
「私も、楽しかったよ。また、ね」
そう言うと明人は玄関を開けて帰って行った。
渚は明人の姿を見ながら、複雑な表情をしていた。
渚は、私じゃ、ない。
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