吐く
「ただいまー」
民宿「しろすな」に帰ってきた渚。
時間帯としてはそろそろ夕飯と言った頃合いだろうか。
とりあえずそのまま部屋に向かう渚。
普段であったら多分そのままキッチンに向かっているのだろうが、今日の渚の頭の中から夕飯のことは掻き消えていた。
「はぁーーー…」
部屋の扉を開けるや否や、強烈なため息をつきつつ部屋のベッドへと倒れ込む渚。
「はぁーーー…」
再び深いため息を放つ渚。
頭の中を先ほどの明人の『なんで今日のお前はそんなに可愛いんだ!』がループしている。
「きっとこの間の公園で私が意識させるようなこといちゃったから…かな」
□□□□□□
思い返してみれば、なぜあんな言葉を言ってしまったのだろう。
そう思わずにはいられない。
私は彼に友達以上の感情を持っていないはずなのに……。
それなのになぜ…いや違う、きっと仲の良い友達だったから、あんな言葉を言ってしまったんだ。
スマホを取り出しインカメラで自分の姿を映した。
「私、男じゃ、ないんだよね…」
正直私はこの姿をまだ受け入れ切れているわけじゃない。
おしゃれをしたり、化粧を覚えたりしたのはあくまで「白砂渚」という人間のロールプレイをしなければ不審がられて居場所を失うと思ったから。
でもそれは今ではな半ば無意識の内にやっていて、それが当たり前になってきていた。
だからこそだろう、自分が少女であると分かっていながら、その振る舞いがどう他人に映るかなど意識していなかった。
特に彼に、神谷明人。
実年齢でいえば7歳も年が離れている彼に対して、私はあまりに非情な振る舞いをしていたと今になっては思う。
彼は「白砂渚」と面識があった。
はじめは私が「白砂渚」でないことを見抜かれ、生活が乱されるのではないかと警戒をしたものだ。
でも、だからこそ警戒が解けたとき、私は彼と本心でしゃべれるようになった。
それこそが…過ちだったのかもしれない。
「楽しかったんだ…すごく」
仰向けになりながら天井を見上げてつぶやいた言葉。
それがまさしく今の私の本音だ。
楽しかった。
「白砂渚」としてではなく、「私」として喋れる人だったから。
でもそんな振る舞いは彼にとっては非常に毒だっただろう。
眉目秀麗で抜け目のなく、そしてとても優しい心を持った少年。
彼は初めて会ったときからどこか、女の子から好意を持たれることに対してあまり好ましくない反応をしていた。
だからそんな彼が、女の子に対して逆に好意を抱くなんてことはないはずだ。
特に「私」のような軽薄そうな奴に対して好意を持つなんてもってのほかだ…そう、思い込んでいた。
でもそれは間違った認識だった。
今の私は客観的に見ればフレンドリーで距離感が近い少女だ。
彼も私も普通の男女なら友達より先の関係に進めそうだと思わずにはいられないほど、仲は良かったと思う。
そんな少女から特別感を醸し出すような言葉を投げかけられれば、よほどのことがない限り意識もしてしまうのだろう。
私はそんなことすら気づいていなかった。
彼がどんな女の子に対しても一歩引いた姿勢で向き合っていると思い込んでいたから。
彼が恋愛に対して興味など微塵も持っていないと思っていたから。
そんな思い込みの中で私は彼に接し続けていた。
人は変化していく、それはどんな人にだって起こりうること。
そんな当たり前のことを私は今の今まで考えていなかった。
彼と過ごす時間、彼と一緒にいる空間の居心地の良さを私は何も考えず享受して、それを当たり前だと思っていたから。
私は彼に、神谷明人に甘えていたんだ。
「はぁ…」
そう思うとどうしようもないくらいに胸が痛い。
もっと私は自分のことを見つめなおすべきだったと今になって思ってしまう。
「私」は、私を受け入れられない…。
だからずっと目を背けてきていた、だけどそのせいで、人を傷つけようとしている。
それが、どうしようもなく怖い。
それじゃあ逆に彼の言葉を、「白砂渚」に好意を持ち始めた少年の言葉をそのまま聞いていたらどうなっただろう。
そんなことはわかりきっている。
私は彼の言葉を否定できないだろう。
彼のことを私が異性として強く意識していないとしていても、私は彼を受けれなければいけない。
なにせ私が撒いてしまった種だ。
ならその責任を私は取らなければならない。
昔の「俺」がそうしたように…。
だけどそんなことをすれば彼にも私にも幸せな結果は訪れないだろう。
互いの心に温度差がある状態で関係が進んだ男女は、遠からずその関係は破綻するからだ。
これは私の経験した幾つかの過去の中の一つの体験談でしかない。
だけどそんな破綻した状態の関係から友達に戻ろうとするのは、難しかったし、大概は失敗するはずだ。
仮に元通りになったとしてもそれは時間がかかるだろうし、その間に辛い思いを何度もしないといけなくなるだろう。
だからこそ、そんな思いはしたくないし、させたくもない。
だからこそ、私は彼の言葉を続けさせなかった。
それがその時の彼にどれだけ非情な言葉として聞こえたとしても。
それ以上の辛さを知ってほしくはないから。
そしてこれから彼に会うたび、私は彼を遠ざけていかなければならない。
あの居心地の良さに甘えてはいけない。
彼の好意を受け止めることのできない「私」が、これ以上彼のそばにいてはいけない。
「神谷君は、大切な友達だから……」
「白砂渚」を偽る私にこれ以上騙されて欲しくない。
だから、この胸を締め付けるような痛みも、なぜだか悲しくなるこの気持ちも、瞳から零れる涙も、私は受け入れなければいけないんだ。
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「…ぎさー…なぎさー!!!」
渚の部屋の扉が開けられ咲希が部屋に入ってくる。
既に渚が帰ってから結構時間が経っていた。
「咲希…姉!ど、どうしたの?」
「どうもこうもねえよ。夕飯やらないのかなーって呼びに来たら全く返事ないんだもん」
「え、あ!」
その言葉で我に返ったのか携帯の時計を見る渚。
既に帰ってから1時間経っていた。
普段の夕飯の時間は余裕で越えている。
「ご、ごめん、咲希姉。疲れてボケっとしてたら時間経っちゃったよ」
「いやまあそれはいいけど、返事くらいしろよな」
「ちょっとね、寝ちゃってたかも。今すぐ用意するね」
「頼んだ、腹減ったわ」
「でも残念ながら今日は冷凍食品だから許してね」
「あれ、珍しいな、どうしたんだよ」
「今日神谷君と一緒に帰ってきたから流石にさ、夕飯の買い物付き合わせるわけにもいかなかったし、それに今から買い物行っちゃうと、夕飯がすごく遅れちゃうからそういうこと」
「そういう?というか冷凍食品なら言ったらやっといたんに」
「ちっちっち、甘いね咲希姉。冷凍食品だってちょっとひと手間加えればもっと美味しくなるんだよ」
「まあ俺は食えれば何でも。じゃあ先下いってんぞ」
「うん、着替えたらすぐ行くから、だからちょっと待ってて」
「あいよ」
そう言うと咲希は部屋を出て行った。
ほんとにそれだけの用だったようである。
「よし、頑張ろ」
そう言うと渚も部屋の外へと出て行った。




