其の伍
その日のうちにトオルは定期船で町の港へと渡った。
宿泊者のほかに島民以外で島に来た人間は、買い付けた魚を届けに来た漁師だけだったから、話を聞くだけの価値はあると考えてのことだったが、おりんが付いてくることは想定していなかった。
タオルを鉢巻にした五十歳ぐらいの漁師は、若い仲間と二人で魚を運んだと話した。
「それがとんでもねえボロ船でよお」
漁師は、船は支配人の寺師が手配したもので、警察にも同じことを聞かれたと面倒そうな顔になった。
「あの支配人に船のことなんてわかるはずがねえんだ。山梨の出だそうだから、いいようにだまくらかされたんだべな」
トオルはその船を見るために港へ向かった。他の漁船から少し離れた所に舫ってあったが、いまもまだあったのかという木造船で、ペンキも剥げている。船縁に残る多くのキズは、この船が海で過ごした過酷な時間を物語っていた。
魚を運ぶためには『カメ』と呼ばれる水槽に海水を貯める必要がある。
カメがあって使われていない船はこの船しかなかったのかもしれない、と思いながら岸壁から船に飛び乗り、トオルは詳しく調べ始めた。
もっともさして大きな船ではなく、船のナンバーから五トン未満であることがわかる。五トンまでは3ナンバー、五トン以上は2ナンバー、それ以上の大型船は1ナンバーとして表示されているのだ。
調べに時間は必要なかった。船を調べ終わったトオルが、岸壁でまた海の中を覗きこんでいるおりんに声をかけた。
「おりんちゃん、かくれんぼしよう」
えっ、かくれんぼ?
おりんの想像が膨らんだ。
おりんが隠れる。トオルが探す。船の隅で小さくなっているおりんを見つけて肩に手を置いて言う。
「おりんちゃん、見~つけた。下手だなあ、隠れるの」
「あっ、見つかっちゃった~」
そしてそれから、それから。空想は実体験を超えて羽ばたいていた。
「おりんちゃんが鬼だからね。二十数えたら探して」
えっ?私が鬼?
おりんの空想の風船は見る間に萎んだ。
「十九、二十」
おりんは律儀に数を数えてから、閉じていた目を開けた。
目の前には舫ってある木造船があるだけだ。その船の中を探してみることにした。
カメの蓋を開けて中を見たが空だった。もう一つのカメもロープや予備の錨が詰め込まれ、人の入るスペースはない。エンジンの周囲は修理のときなどに人一人が体をカニのように横にしてやっと通れるほどで隠れることはできない。
船の大艫、つまり一番後には四角い箱が置いてある。おりんが知るはずもなかったがそれは船のトイレで、遊漁船として釣り客を乗せるときには使うが、漁に出るときは漁師たちは陸に置いていく。床に開けられた四角い窓のような穴からは海水が見えるだけだった。
この船に隠れたのでなければ、二十数えているうちに一目散に走って他の場所に行ったか、それとも海に飛び込んで潜ったか、まさかそこまでやるとは思えない。
岸壁に上がって、
「ボンさん、降参です」
あたりを見回しながら、おりんが大声を上げると、トオルが船縁からひょっこりと顔を出した。
「えっ、船に隠れてたんですか?」
トオルはおりんを手招いてもう一度船に乗せた。
「どこに隠れてたんですか?」
まっちゃトオルが舵の下にある床の一部をずらすと、そこに小さな入口が現れた。中を覗くと高さは一メートルにも満たない畳一畳より少し広い程度の空間があった。
「ここはね、遠くまで漁に行ったときに『沖泊まり』と言って船で寝るためのスペースなんだ。今の船はスピードがあってすぐ戻れるから、もう作られていないと思うよ。ボクもお父さんから聞いたことがあったけど、見るのは初めてだよ。夫婦で乗る『夫婦船』の場合ここで出来た子供もいたんだって」
トオルが珍しく冗談めいたものを交えた。
海沿いの街道に面していて、表にはビーチサンダルや水中メガネ、シュノーケルなどが並べてある。
夏の時期だけの海水浴客を相手の商売だが、漁業だけでは生計が成り立たない苦労がわかる、漁師らしくない家だった。
トオルたちは話を聞くためにまた戻ってきていた。
普段は雇われて釣り客相手の船の船頭をしているという。
活魚を運ぶ今回のような仕事は初めてだったが、人が死んでも貰うものは貰うと、釣り船で売るアジ釣りの仕掛けを作りながら何度か繰り返した。船宿に常備された仕掛けを売らずに自分で作った仕掛けを売れば結構な小遣い銭になるのだ。
「島に行ったのは何時ですか」
「九時頃に着いたかな。そん時はまだ社長も生きていて、魚を生簀に移すのを見てたぞ」
「行ったのはふたりだけですか?」
「ああ、ふたりもいれば十分な仕事だべ」
おりんがアジの仕掛け作りに挑戦している。
「おねえちゃん、うまいもんだ。漁師になれるぞ」
仕掛けを結ぶ手を止めて漁師がおりんに言う。トオルに対しての声より半オクターブほども上がっているのは、客には横柄だが若い女には弱いことは、どの漁師に共通しているからだ。
「支配人はどうしていました?」
「魚をかき集めて、船に積むのを手伝ってたな。島から帰って来たら朝に運ぶ分の魚の打合せをしてたな」
トオルが沖泊まりのスペースのことを聞くと、知らんと、ぞんざいに答えてから、またおりんを褒め始めていた。