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沖泊まり  作者: 山中 洸
3/9

其の参

 山崎の陶芸自慢が工房に入って来た男に中断された。

「社長、明日のセレモニーの件で聞きたいと電話が入っています」

 痩せぎすで長身の狐顔の男だ。ポマードでしっかりと整えた髪型と制服がいかにも田舎のホテルマンを感じさせる。

「トオルちゃん、支配人の寺師君だ」

 山崎の紹介に寺師は深々とトオルに頭を下げたが、ホテルマンの礼ではない。必要以上に慇懃いんぎんな仕草は、寺師という男がトオルたちをどのように思っているかを物語っている。たかが旅役者、と思う心の現れだった。

「お世話になります」

 トオルもわざとらしく深々と礼をした。二人の様子を山崎が複雑な表情で見比べるように眺めていた。

 電話の応対を済ませてから、山崎はトオルをロビーのソファーへと誘った。

「閉めると聞くと客が増える。電車も遊園地も無くなるとわかると見に来るし、遊びにも来る。どうして閉めることになったか考えてみろって言いたいよ」

 山崎は腹立たしそうに言ってから、コーヒーをぐびりと音を立てて飲んだ。

「社長、板長が呼んでいます」

 寺師がまた山崎を呼びに来た。

「ああ、いま行くよ」

 返事をした山崎は、寺師の姿がフロントの陰に消えるのを待ってから、

「ああ見えて女好きでね。それで借金もあるらしいんだが、相談に乗ってやるのに何も話さないんだ」

 独り言のようだが、山崎がホテルの閉鎖とともに従業員の今後の事を心配していることがトオルに伝わってくる。

「じゃあ、またあとで」

 トオルが寂しそうな山崎の背中を見送った。

 その夜は、一座の歓迎するための宴会が開かれることになった。

 他の宿泊客も参加することになったが、トオルたちの他には客は三人だけで、常連だという高島義男と兼子という初老の夫婦者と、あと一人は飛び込みで泊まった三十代後半の男だった。宿泊カードには東京で税理士の事務所をしていると書かれていたが、商売柄か物腰の柔らかい、人懐っこい笑顔が印象的な男だった。名前を静間誠といった。

 宴会は六時からの予定だった。まだ時間があったのでトオルは部屋の窓辺に座り、ぼんやりと海を見ていた。

 昼はヨットが浮かび、夕暮れ時には港に帰る漁船の姿も見えたが、もう沖合には船影はなく、陸からゆっくりと夜が準備を始めている海だった。

 亡くなったトオルの父親である先代橘雪之丞は、無類の釣り好きだった。

 何が釣れるかわからないから面白いと、もっぱら海釣りばかりだったが、興行先で時間ができると、トオルを連れて釣り船に乗った。

 岩を洗う波は規則的だが、時折大きな波が飛沫を飛ばす。白い泡の浮かぶ群青の海水は、水深が深いことを教えてくれている。

 窓の下の海を見ながら,ここから竿を出せば何か釣れるかもしれないと考えるほど、いつの間にかトオルも釣り好きになっていた。

 部屋の入口でホテルの従業員の声がした。まだ宴会には時間は早いと思いながら迎え入れると、

「申し訳ありませんが、宴会の時間を七時にしてくれと申しております」

 三十ぐらいだろうか、とりたてて特徴は無いが、畳についたスカートからのぞく膝小僧の形がいい女だ。

「構いませんが、なぜ?」

生簀いけすが壊れてしまいまして、その修理というか、後始末に時間がかかるそうです」

「壊れたんですか」

「ええ、水が抜けてしまったとかで、時間がかかると板長が申しております」

 トオルは少し腹を立てていた。

 もちろん生簀が壊れたことは彼女の責任ではないのだが、仕事の場所で起こったことは自分たちの責任であって、少なくても客に謝るときは人のせいにしてはいけない、ということを父親から教え込まれていた。

 しかし、考えてみればトオルたちは客ではなかったし、山崎のホテルだということもある。

「それは大変ですね」

「ええ、私どもも困っています」

 まだ言いたいことはあったが、手ごたえのない女の態度にトオルは注意するのを諦めた。

 ホテルには特大の水槽があり、そこから網で掬ったり、釣ったりした魚を調理してくれるサービスを、世間に先駆けて行っていた。

 幅、長さともに十メートルはある、小さなプールといった感のある水槽の栓が外れ、海水が抜けてしまったというのだ。ねじ式なので自然に取れるはずなどないと従業員は言ったが、問題は明日招待している閉館セレモニーの客に出す魚がなくなってしまったことだ。

 漁協や業者から活魚を買い付けるために、支配人の寺師が急いで船をチャーターして町の漁港に行っていると言った。

 従業員は自分たちは被害者だという姿勢を最後まで崩さなかった。

 海水がなくなったことで、アジやタイ、そしてイサキなどの中層を泳ぐ魚はほぼ全滅で、海底の砂の中に住むヒラメや岩場の窪みに残った海水の中に隠れていたカサゴなどが、わずかに助かっただけだった。

 もっともおかげでトオルたちは、獲れたてと同じ新鮮な魚を腹いっぱい堪能できることになった。

 おりんは宿の浴衣を着ていたが、帯は柔道のように左右に垂らして結んでいる。

「ボンさん、このお魚はなんですか?」

「それはイサキ。焼き魚になるために生まれてきたような魚だよ」

「この丸いお魚は?」

 丸い魚ではない。丸く巻いて酒蒸しにしてあるのだ。

「アマダイ。京都の方ではグジと呼ばれている魚だよ」

 山国育ちで魚に疎いおりんの質問攻めにあっていた。おりんは未成年だし、トオルも酒はほとんど飲めないから、他愛もないおりんの質問は、どんちゃん騒ぎの宴会での暇つぶしには良かったが、さすがに面倒になってきていた。

「ボンさん、これは?」

 見たことのない魚だった。

 刺身だが、透き通るような透明の身の中に細かい血管のようなスジが走っている。

 トオルが答えに窮していると、隣に座っていた税理士の静間が代わりに答えた。

「それはメゴチです。天ぷらの定番ですよ。刺身にするのは珍しいですね。鮮度がいいんですね。土地によってはネズッポと呼ぶところもあります」

「お詳しいですね。釣り、なさるんですか?」

「ええ、まあ」

 静間は曖昧な笑顔になった。

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