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沖泊まり  作者: 山中 洸
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其の壱

 両開きの引き戸は台風のとき以外は閉じられることはない。内側は土がむき出しの靴脱ぎになっていて、脱ぎ散らかされているのがかかとの潰れた革靴だったり歯のちびた下駄だったり、季節々々で履物の種類が違う、アパートで唯一季節感のある場所には、いまは安物のビーチサンダルが散乱していて、夏だとわかる。

 一階の一番奥には大家が住み、その手前の比較的広い三部屋は、親からの仕送りが滞ることのない学生が住んでいて、通称VIPルームと呼ばれている。

 広めの木の階段を上がるとすぐに共同の炊事場があって、廊下の両側は各四部屋、合計八部屋に区切られているが、もともと設計したものではなく、あとから仕切りを設けたから、それぞれの部屋の広さが四畳と変わった広さになっている。廊下の中央に二か所あるトイレは大家の自慢で、順番待ちから解放される学生たちにも、この点だけは感謝されていた。

 『富士見荘』という、取って付けたような名前の男子学生専用の木造アパートが、橘徹の東京での住まいだった。

 トオルはその日は久しぶりに早く帰ることができた。もっとも早く帰ってみたところで、これといってすることもなかったから、普段の心で開けた部屋の、普段のものではない光景は、その心の虚を突いた。

「おりんちゃん、何してるの!」

「お帰りなさい。大家さんに、妹だと言ったら入れてくれました」

 クーラーなどとは無縁の貧乏学生の安アパートだから、窓を開け放し、サロペットの胸元に団扇で風を送っている『おりん』は顔色ひとつ変えることなく、もう長くこの部屋に住んでいるかのように溶け込んでいる。

 ピントがどこかずれているというより、ピントそのものがない娘だ。

 サロペットの下がタンクトップという不思議な格好は、肉付きの良い肩と太い二の腕が肉体労働をする人間を連想させて、色気など全くない。健康的な体型は、元柔道の五輪強化選手だったことを納得させるのに十分だった。

 トオルの部屋に行くことが決まったとき、おりんはひそかに期待していた。

 散らかった部屋に男なら誰でも持っているという種類の雑誌があって、そこから発生した淫靡いんびな空気が男臭さと入り混じって部屋中に充満している。現実として体験したことのないおりんは、テレビドラマで見た、息子の雑誌を見つけて戸惑いながらも複雑な笑みを浮かべる母親のシーンを想像して胸をときめかせていたのだが、ちゃぶ台とそこに置かれたポットと湯呑、家財道具といえそうなものはそれだけで、いまどき冷蔵庫さえもない。

 壁面には専門書らしきものが積まれていて、薄い万年床にタオルケットが四隅を主張するようにきっちりと広げられている。家財道具がないせいもあるが、片付きすぎるほど片付いていることも拍子抜けした理由だった。仕方なく窓の外の、旬を迎えて収穫を待つばかりのキャベツ畑を眺めているところにトオルが帰ってきたのだ。

 トオルはトオルで悩んでいた。女とふたりっきりになったときに部屋の戸は閉めるべきなのか開けておくべきなのか。閉めて変に勘ぐられるのも嫌だったが、開けておくと文学部に通う隣の学生が先程から用事もないのに、手にする物を変えて部屋の前を行ったり来たりしている。悩んだ末、トオルはおりんをひとまず外に連れ出すことにした。

 隣がコンビニで、トラックの運転手や工事現場で働く人間を相手にした定食屋だ。

 全ての料理を中華鍋で済ませてしまうのは元が中華料理屋だったからだが、ハムカツの衣の厚さにばらつきがあっても文句をいう客はいない、量の多いことで知られる飯屋だ。

「おや、学生さん、今日は連れてる彼女が違うね」

 トオルはこの定食屋に女を連れてきたことなどない。この店の主人が女連れの客に必ずかける他愛のない軽口だった。

 おりんは別段気にする様子もなく、油と煤で汚れた価格表を睨みつけるように見ている。いまはトオルの女関係より食べ物の方が優先しているようだ。

 悩んだ末にレバニラ炒めと大盛りライスを、生卵と味噌汁付きで頼んだ。トオルは味噌ラーメンにした。

 注文した料理を平らげてから、おりんがようやくトオルを訪ねた理由を話し始めた。

「ボンさん、鷹ガ島の山崎さんを知ってますよね。その山崎さんがホテルを閉めるんですって」

 ボンとは一座でのトオルの呼び名だ。

 本来ならば父親の先代橘雪之丞が興した旅芝居一座を継ぐはずだったから、ぼっちゃんの意味を込めてボンと呼ばれているが、その父親は交通事故で命を落とし、一座はいまトオルの母の弟の鶴田亀之助が座長をしている。

「ああ知ってるよ、お父さんの代から世話になった人だから。そうなの、ホテルをやめるんだ」

「やめて、お年寄りのための施設にするんですって。それでね、ホテルの閉館セレモニーをするから、一座に出てほしいって言っているそうです」

 レバニラのニラが奥歯にひっかかり、舌で取ろうして顎が左右に動く、出来の悪い腹話術の人形のようなしゃべり方になっている。

「座長がね……」

 しばらくニラとの闘いが続く。

「いま大阪の方で興行中でね……」

 ニラを探り当てたようだ。

「手の空いている人で行くことになって……」

 ニラとの闘いに勝利したらしい。

「ボンさんも呼べって」

 プラスチックのコップのぬるい水を飲んでから、

「迎えに来ました」

 おりんがようやくトオルと視線を合わせた。

 悲しく文法を間違う普段の会話よりも分かりやすいと思えるのが不思議だった。

「もう……、みんな来てるの?」

 話し方がおりんに似てきているのに気づいてトオルは慌てた。

「はい」

「どこにいるの?」

「鷹ガ島の見えるところにある町に泊まっています」

 おりんは指を折りながら、来ている座員の名前を上げ始めた。手が空いているというよりは、一座にいてもあまり出番のない顔触れだった。当然のようにその中に『ウマ』の名前もあった。

 アパートに戻ると、トオルはすっかりヒーローになっていた。奇人、変人の類は住んでいるが、さすがに女を連れ込む猛者はいなかった。外観を見ただけで間違いなく女が逃げ帰ってしまうこの魔の巣窟のような建物に、女を連れ込んだ勇者に祀り上げられていたのだ。

「さあ、風呂に行くぞ!」

「さあ、早く寝ろ!」

 必要以上に大声をあげて自分たちの様子をアパートの連中に知らせるという苦労のおかげで疲れ果て、トオルは早々と眠りにつくことができた。


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