七
――蜘蛛の糸は畜生の眼前に顕現するか?
閻魔大王は項垂れたまま地獄を後にした。
奈落はあえて追従せず、無間地獄に残った。
如嬰はまだ赤鬼を観察していた。
彼は岩の上で寝そべっていたが、当然、如嬰以外に近づく者はいなかった。
そんな彼の傍らで立ったまま問いかける。
「これは個人的に聞きたいのですが、赤鬼さんは私をどう見ますか?」
赤鬼は素直に答える。
「……。閻魔サマよりは好感度が上かな~? なんか嫌な感じしないし。
あっでも閻魔サマは名前をくれたから嫌いではないし……」
如嬰は微笑む。
間違いない。この元人間に罪はない。
罪のある人間は閻魔大王や自分のような如来を嫌う。
羨望であったり、逆恨みであったり理由は様々だが、罪を犯した自覚がある者は決まって我々にそういった眼差しを向ける。
赤鬼には、先ほどのやりとりに閻魔を詰るような口調は少々見られたものの、加害性は皆無だった。
地獄を管轄して云々のくだりは物騒ではあったが、まず彼自身に警戒すべき点がないことを安心する。
すると、
「兄さん…」
人影。そして声。
一間遅れて血の臭い。
如嬰はとっさに振り返る。
そこには一本の角を携えた鬼がいた。
「兄さん」という台詞から察するに、これが赤鬼の弟なのだろう。
顔が血に塗れて真っ赤だった。自身の血なのか返り血なのかはわからなかったが。
それにしても兄弟だというのにまったく容姿が違う。
褐色肌の赤鬼と異なり、弟は真っ白だった。
角の数も違う。赤鬼は二本だが、弟は一本。
顔も似ていなかった。
「止まらない? 血」
赤鬼は心配そうに弟に駆け寄る。
よく観察すると、血は額の角の付け根から流れていた。
明らかな致命傷に見えたが、弟は平然としていた。
「あの頭痛……これが原因なんだね。
これ、固さからして骨でしょ……? 骨が肉や皮膚を突き破ってくるんだから痛いのは当たり前だよね……」
「でももう痛くないよな? どうしたら血は止まるんだろう?
俺はすぐ止まったんだけど……」
如嬰は兄弟にしかわからない会話を聞いていた。
大体を察するに、鬼に変異したとき、まるでその証として生えてきた角が兄弟に頭痛を与えたのだ。
兄である赤鬼はすぐに血が止まったが弟はなかなか止まらず、今までどこかをうろつきながら血を止めようと彷徨っていたのだろう。
「……誰?」
弟は如嬰に気づくと怪訝な顔つきになった。
兄と違い警戒心は人並みのようだ。
「私は如嬰と申します。あなたは?」
言ってから、失言であったことに気づき後悔する。
この兄弟には名前がないのだった。
「俺……誰……?」
弟は虚ろな瞳で如嬰をぼんやり見た。
赤鬼は少しだけ狼狽する。先ほど閻魔に食ってかかった威勢はない。
弟については多少の人間味を表すようだ。
如嬰は話を変えるように懐から何かを取り出した。
「天上界にはさまざまな植物があります。
これを差し上げましょう」
「……もも?」
「はい。邪気を祓ってくれる果実です。
血は邪気の類いですから、これが止血に役立ってくれるでしょう」
如嬰には考えがあった。
天上界の桃は病気や怪我を癒やすが、邪悪な存在には毒になる。
兄・赤鬼個人に邪な心がないことはわかったが、弟もそうだとは限らない。
万が一弟に有害性があれば、触れただけで嫌悪感を感じるだろう。
兄弟どちらも純真であってくれ……如嬰はそう祈りながら弟に果実を渡す。
「……? ……」
両手で桃を受けとった弟は、その微妙な感触にいささかの違和感を感じているようだったが、嫌悪している様子はない。
しばらく手の上で転がしたり匂いを嗅いだりして観察していたが、やがて弟は自分の角の上あたりに桃を持ち上げると、握りつぶした。
果汁が角の付け根にポタポタと垂らされる。
「……」
如嬰は思わず笑ってしまった。
たしかに血の出ている部分に塗り薬の要領で使用するという手段もあったかもしれないが……。
「食べればよいのですよ。せっかく美味ですのにもったいない」
「でも血は止まったね」
赤鬼は着物の袖で弟の血を拭う。
弟は無残な姿になってしまった桃を見つめていた。
ほのかに甘い香りがして、なるほどたしかに食用であったのだと気づいた。
「甘い」
ぐちゃぐちゃになった桃を食べる弟。
毒として作用しなかったことを喜んだ如嬰は、また桃を二つ取り出して兄弟に一つずつ渡す。
「おいしい」
「おいしいね」
これまでまともなものを食べてこなかったであろう二人を見て、如嬰はますます救済の使命感に駆られた。
「ではあなたの名前は桃鬼でいかがでしょうか」
「ももおに」
弟は与えられた名前を素っ頓狂に復唱する。
表情にあまり変化がないため、満更でもないのか不満なのかわからない。
「なんでもいいよ、名前なんて。
俺は赤鬼。閻魔サマにつけてもらったの~」
桃を食みながら赤鬼は少しだけ楽しそうに身体を揺らす。
その様子は文字通り「無邪気」だった。
もしかしたら精神年齢は赤子のままなのかもしれない。
「(本当に心配はいらないようです。
私としては、兄弟を人間の姿に戻してやって、本来彼らが来るべき天上界に招いてやりたいが……)」
如嬰は天上界へ帰ったとき、真っ先に蓮宮にこれらの出来事を話す覚悟があった。
蓮宮は地獄の罪人を毛嫌いするため、話を聞いてくれるかどうかすら怪しかったが。
「私はそろそろ帰ろうと思います。
また近いうちに顔を見せると思います」
「帰っちゃうのー?」
赤鬼は残念そうだ。相当如嬰のことを気に入っている様子だった。
桃鬼はわからない。無表情で桃を囓っている。
「あなたたちのことを天上界の皆さんにお話ししなければならないので…。
まだまだ完全な涅槃の境地に至れていない凡夫でありますが、なんとかあなたたちを弁護します。
それでは……」
それだけ言うと、如嬰は着物を翻して立ち去った。
聖は、この無間地獄においては輝かしいくらいの存在であったため、彼が消えたあとの場はろうそくの灯りが一つ消えたかのようだった。
罪人を燃やし焦がす業火が発する不気味な光とは違い、美しく穏やかな輝きを纏っていた。
だから赤鬼は、より一層寂しく感じた。
「ねはんの きょうち?」
桃鬼は如嬰の言ったことが理解できていない。
赤鬼は岩の上に再び寝そべると、何故だか得意げに如嬰について語るのだった。
「なんでもいいよ。とにかくあのお坊さんはね……、俺たちを助けてくれるんだって。
どういう風に助けてくれるのかはわからないけど……。だから悪い人じゃないよ。
それよりこの白装束もう嫌だよーーー。もっと綺麗な着物がよくない?」
「なんでもいい……」
「桃鬼なんて真っ白な肌に白装束だよ。
なんかお化けみたいじゃん」
「というかお化けなんだよなぁ……」
「獄卒だよ。お化けじゃないもん」
「閻魔大王は俺たちのこと死んでるって思ってるしお化けでしょ」
「あんなヤツの言うこと無視すればいいんだよ」
「……」
双子とはいえ同じ性格ではないらしい。
鬼になってしまう以前より、意見に食い違いが起きることが頻繁にあった。
ただ桃鬼は主張しない性格のようで、結局兄に従う形になっている。
赤鬼にすら、桃鬼の考えていることはよくわからない。
頭痛の時は自分よりも活発に動いていたのに、会話の際は恐ろしく冷淡だ。
「(……)」
赤鬼は何か考えたが、ほとんど無意識に近い思考レベルだったため、自分でも何を思案したのかわからない。
それは、自分で自分のことを気づけないことによく似ている。
無自覚の自分の性質に気づくのは、他者の特徴を掴むよりずっと難しい。
だからこそ、他者からはわかってしまうもの。
「危険だ……絶対に……。
存在してはいけない…………。
絶対にいけない……。お前たちは……。」
奈落は全身に戦慄を覚えながら、未だに赤鬼を注視していた。
「涅槃の境地……か……」
如嬰は既に地獄を出て、天上界への道を静かに歩いていた。
先ほど自らを凡夫と自虐したことが引っかかっていた。
「そもそも、涅槃の境地に至っている聖は、地獄の罪人など意に介さない。
不生不滅、なにも生まれない、生まない、そしてなにも滅びない、滅ぼさない存在……。
『存在』などと軽率に語ることすら冒涜であるくらいの高み……。
それに引き換え、私は欲まみれだ。罪人を救ってあげたいという欲がまだ残っている……。
……これではいけないのかもしれない……」
それでも。
あの無邪気な鬼を――哀れな人の子を、救いたい。
救わなければならない。
思えば如嬰の生前は自より他の人生であった。
自らの修行の妨げになろうとも、困窮する他者を放っておくことができない性分であった。
死後も、それは変わらない。
「諸行無常、変わらぬものなどないと言うが……。
私のこの性分はいくら時間を経ようと変わる気がしないな」
如嬰はやや自嘲気味に、しかしある種誇らしげに笑った。
「穢い話は御免被る」
案の定、蓮宮には話の導入すら聞いてもらえそうになかった。
蓮宮はその立場上、自らの意志で涅槃に至ることができない。
天上界の秩序を維持するという大任を背負っている以上、"ある程度"俗を纏っていなければならないからである。
蓮宮は責任ある役目を任されたことを光栄に思う反面、いくら修行しようとも真の聖にはなれないことについて絶望を抱いてもいた。
例えるなら、自分の身体が汚れていることを自覚しているのに、湯浴みで垢を落とすことを許されないようなもの。
心身共に、耐えがたい苦痛であることは明白だった。
それだけ一層、他の如来と比べて地獄の住人に対する負の感情は大きい。
もとより罪人などという穢れた存在は不快であるのに、自分もまた穢れを帯びていることをありありと実感してしまう。
自己嫌悪、そしてさらに燃える憎悪。それがまた自己嫌悪の炎を燻る。
負の連鎖。
「偉大なる大御蓮宮」は、そんな世界で永遠を過ごしていた。
しかし如嬰も引き下がらない。
「異例中の異例なのです。せめて話だけでもお聞き入れください。
これは惨劇です!」
「惨劇……?」
如嬰から放たれるあまりにも物騒な単語を、蓮宮は聞き流すわけにはいかなかった。
「……、話してみよ」
如嬰はひとまず蓮宮が耳を傾けてくれたことに安心する。
なるべく蓮宮を刺激しないように冷静に話し始めた。
人の子が無実の罪で無間地獄へ落とされてしまったこと。
それに反発したのか、鬼に変化してしまったこと。
「(地獄を管轄するつもりであることはあえて話さないでおくべきだろうか……)」
少し考えたが、まずは兄弟を庇うことを優先した。
「人間が鬼に堕落してしまうなど、惨劇以外の何でありましょう。
蓮宮様、どうか彼らをなんとか人の姿に戻し、天上界に招く努力をすることをお許しください」
如嬰は天上界の一如来にすぎず、勝手な行動はできなかった。
もし兄弟を救済し天上界へ連れてくるのであれば、その管理人である蓮宮の賛同は不可欠なのだ。
穢れ嫌いの蓮宮のことなので望みは薄かったが、閻魔大王からそもそもあの兄弟の地獄行きは蓮宮が下した決断だと聞いている。
蓮宮にも責任感があるはずであり、如嬰の望み通りとは行かなくとも何らかの対策を講じてくれるだろう。
そして、彼はしばらく黙り込み、やがて答えた。
「拒否する」
「…………!」
やはり一筋縄ではいかない。
如嬰は内心残念に思いつつ、蓮宮の次の言葉を待った。
「消せ」
「…………?」
消……。
「え……、は……?
あの…………、それは、どういう……?」
「消してしまえ。獄卒になったのなら話は早いであろう。
鬼になってしまった者を人間に戻すのは不可能だ。
だいたい、赤子であった兄弟の身体が成長している時点で異常というもの。
その時点で消滅させておくべきだ。
とにかく、暴走が始まる前に迅速に消してしまうことだ。
そのための術をそなたに教える。習得し次第すぐに実行せよ」
身体が冷える。
呼吸が止まる。
穢れを自覚しながら、穢れを忌避し続けた果ての、恐ろしく凍てついた心。
如嬰は胸を氷柱で貫かれる心地がした。
「あの……哀れな人の子を……。
見捨てろと……おっしゃるのですか……?」
「もう人の子ではない。
いくら哀れといえど、鬼になってしまった時点で救いようがない。
人間界でもそうであろう。不憫な境遇で育ち心を歪めたとて、人を傷つけてしまえば地獄行きだ。
それと同じこと、違うか?」
「し、しかし……、望んで鬼になったわけでもあるまいに……」
「望んで人殺しをしたわけでもない軍人を地獄に落とした例もあろう」
「それでも……、それでも、彼らは規格外の無間地獄……!
同情の余地もあろうというものでは……!?」
「等活地獄も無間地獄も地獄は地獄だ」
「――……」
じわり。
如嬰の心に貫かれた痛みが広がる。
血すら出ているかもしれない。
如嬰は尊敬する蓮宮の本当の姿を察してしまったのだ。
こんなになるまで、心を歪められた。
天上界に住まう清らかな身でありながら、溢れんばかりの憎悪と嫌悪を包み隠すこともしない。
穢き鬼への底知れぬ嫌悪。それが蓮宮を更に歪め、歪曲は蓮宮自身の穢れを強くする。
蓮宮が常に感じているであろう苦痛を、如嬰は共感してしまう。
じわり、じわり。血が広がる。
こんなにも痛々しいお気持ちで、蓮宮様は…………。
「それでも……、それでも……、あの兄弟の無間の痛みに比べれば……!!」
如嬰は自然と涙を流していた。
自分はなんて安らかで恵まれた環境に居たのだろう。
何の責任を負うこともなく、自己満足で罪人を救済してきた。
それを見るたびに蓮宮はどんなに心苦しい思いをしていただろう。
自分よりも穢れた罪人の分際で、懺悔をしただけで救われる人間たちを見て、どんな思いであっただろう。
どう足掻いても穢れを祓いきることができない自分自身をどんなに恨めしく思ったことだろう。
「だからこそ……、蓮宮様……、あの兄弟を…………。
憐れむことができませんか……」
蓮宮は、自分の痛みを他者ができる最大限の域で共感している如嬰を見て、少なからず心を揺さぶられた。
自分のことをここまで理解しようとしてくれた如来は彼だけだったかもしれない。
「…………、当てはあるのか?
鬼を人に戻す術などないぞ」
絶望に満たされた眼差しに変わりはなかったものの、蓮宮の心は先ほどよりもほんの少しだけ如嬰に歩み寄っていた。
「探します。どんなに時間がかかろうと」
涙を拭った如嬰は真っ直ぐな眼差しを蓮宮に向けた。
そして淀みなく答えた。
「絶望的だな」
蓮宮は冷めているが、それでいて如嬰を否定するような面持ちではない。
如嬰は視線をまったく逸らさない。瞳の奥には、鋼のように堅い強固なる慈悲と意志。
「…………、勝手にするがよい」
蓮宮は、自分の穢れが少し、少しだけ、拭われた心地がした。