六
――これより始まりますは、尊厳への堕落
「地獄を……ちょうだい……とは?」
閻魔大王はまだ脳の処理が追い付いておらず、そのまま聞き返すほかなかった。
赤鬼はまたしても淀みなく答えるのだった。
「だから、俺たちが地獄を管轄するの。
だって閻魔サマ現場に全然顔出してないじゃん。
いくら忙しいと言ってもそのへんしっかりしてもらわないと……」
とどのつまり、やはりそのままの意味なのだ。
地獄をよこせということだった。
地獄は閻魔大王が管轄しているが、厳密には閻魔大王のものではない。
天上界が創り出した天上界のものだ。それを勝手に引き渡すなど…、たとえ宇宙の秩序が乱れようともあってはならない。
「拒否する」
閻魔大王もまた、淀みなく切り返した。
赤鬼は食い下がる。
「なんで?」
「地獄はそもそも私のものではない。
どうしてもココが欲しいなら天上界へ訴えよ」
「了解」
赤鬼は閻魔大王に興味を失くすと、その後ろから近づいてくる存在に気を取られた。
眩しい。この血生臭い場所に不釣り合いなほど清廉な雰囲気を醸し出していた。
「………」
頭を丸めた人間。
驚いた表情をして赤鬼を見つめていた。
赤鬼は少しだけ、心臓の鼓動が落ち着くのを感じた。
「私は如嬰という者です。
あなたが…例の鬼になってしまった罪人ですか…?」
「違うよ。
俺は罪人じゃない」
「……」
如嬰は閻魔大王の様子を伺った。
閻魔大王は複雑な表情を浮かべるしかなかった。
…なぜあの時……!
もっともっとよく吟味しなかったのか…。
奈落もまた、俯くしかなかった。
如嬰は大体を察したようだった。
「失礼しました。
あなた、お名前はあるのですか?」
赤鬼はその場に座り込むと、殺した獄卒を岩壁の隅へ押し込んで寛いだ。
「ない」
「そうですか……。
あの、罪人ではないのにあなたはなぜ無間地獄へ落とされたのですか?」
赤鬼は如嬰をギロリと睨み付けた。
そしてすぐに閻魔大王へ視線を移す。
「教えてよ」
閻魔大王は暫く沈黙した後、語り始めた。
「……私は、絶対におかしいと感じたんだ。
お前たちの罰は明らかに重すぎる。生まれたての赤子ふたりに無間地獄なんて……。
しかし、…天上界の重鎮と話し合った結果、……憶測でおまえたちを半ば乱暴に地獄へ落とした…。
本当に申し訳ない……。すべては私の責任だ。
ここまで深刻な事態になるなんて想像していなかった…。愚鈍だった」
赤鬼は静かに閻魔大王の言葉に耳を傾けていた。
如嬰も口を挟まなかった。
「…私を憎むなら、好きなだけ憎んでくれ。
この身で償ってもいい。気が済むまで切り刻んでくれて構わない。
許してくれなど言うつもりはない…。
しかしどうか、地獄を譲渡することだけは勘弁願えないだろうか。
地獄は天上界が所有する絶対的な機関であって、私ですら軽んじて支配することはできない。
それほど重いものなのだ。簡単に引き渡すことはできない」
双子に与えてきた何千年もの痛みを閻魔大王ひとりで贖うことは到底できない。
それでも閻魔大王は、蓮宮を庇うかたちですべての責任を負おうとした。
これは明らかな冤罪であり、いわれのない罪で幾度となく虐殺された。
双子の怒りはいかばかりか、言葉などで形容できない。
それを閻魔大王も奈落も理解していた。
奈落は差し出がましいとは思いながらも、閻魔大王と共に償おうと決意していた。
「閻魔サマ、まぁ俺の話も聞いてよ」
今度は赤鬼が口を開いた。
「今、この獄卒を殺してわかった。
俺はどうやら相当強い獄卒になってしまったらしい。
そしてこれからも勝手にどんどん強くなると思う。
で、閻魔サマはご自分ひとりで俺たちの怒りを受け止めようとか思ってるみたいだけど…。
俺は怒ってなんかないよ。話聞いてた? 俺はあなたを恨んでないんだってば」
「俺が言いたいのはそんなチンケなことじゃないよ。
たしかに俺は無実の罪でアホかってくらい何度も何度もぶち殺されて、正直狂いそうにもなった。
けど、それの仕返しをしたって仕方ないだろ? 殺されたから殺し返すなんてこと考えてないよ。
でもね、閻魔サマ。俺は怖いんだよ。
だって俺ってこれからどうなる? まさかこのまま放置するワケないよな? 閻魔サマがそれでもいいよって言ってもさ、
そのさらに上の立場の連中が許さないだろ?
まさか俺を天上界にご招待~なんて都合のいい話もあるわけないよなぁ。
そうなると、俺に対する冤罪はうやむやにして、あじゃあ、双子にはもう一回輪廻転生していただきましょうって、そうなるだろ?」
図星だった。
鬼になってしまった人間など放置するわけにはいかない。
鬼になってしまったからにはもう天上界になど送れない。
となれば、残った選択肢は再び浮世をやり直させることしかなかった。
「何が怖いって、また死んだときにまた同じことが起こること」
「俺もいろいろ考えたんだよ。俺はなぜ無実の罪でこんなにもいじめられなきゃならないのかって。
いくら考えても合理的な答えが出ないから、これは俺という存在に課せられた運命なのかもしれないって思うようになったんだ。
運命は肉の器を越えた魂の問題。いくら輪廻転生してあらゆる人生を歩もうと、行きつく先は同じもの。
じゃあ何? 俺は輪廻を巡るたびに何度も何度も何度も何度も無間地獄へ落とされなきゃならないワケ?
それって考え得る虐待の中で史上最悪に鬼畜~」
「そんなことは二度と起こらないようにする!
今後は吟味に吟味を重ねた裁判を行う。いくら時間をかけようとも!
だから…」
赤鬼は閻魔大王の嘆願を聞き流し、まぁまぁと制止する。
「そりゃ閻魔サマは一生懸命やってくれてるかもしれないけどさァ。
ままま、とりあえず今の話でしょ?
俺は地獄が欲しい。いや俺も所有しようだなんて思ってないよ。閻魔サマの管轄権を俺にくれればいいの。
そのへん上手いこと話しつけてきてよ。本当に俺に申し訳ないと思ってるならさ」
「……ッ」
閻魔大王が狼狽する。
いくらなんでも元々人間である存在に地獄の管轄権など引き渡したりしたらとんでもないことになる。
元来私欲の強い生き物なのだ。どう転んでも良い結果にはなるまい。
しかし向こうはそれ以外で償う方法がないと断言している。
閻魔大王にとって、「貴方を恨んでいない」というのは、交渉の余地を断絶されたともいえる極めて残酷な赦しだった。
自分だけが犠牲になるなら一向に構わない。しかしそれを望んでいないと既に先手を打たれたのだった。
「(こんな事態を天上界へそのまま丸投げなんてできない…
ここで決着を付けなければ…)」
閻魔大王が閉口していると、如嬰が口を挟んだ。
「私は天上界の者です。
管理者ではありませんが、管理者に渡りがつきます。
そこで聞きたいのですが、あなたは天上界へ行けるとしたら、行きたいですか?」
赤鬼は少し考える素振りをした。
「迷うな。
ちなみにどんなところなの?」
「私と同じ、如来が沢山いる。
静かで安らかな場所です。望まなければ二度と転生することはない。永遠に穏やかに過ごせる場所です」
「如嬰さんだっけ…? そもそも、そんな所を望む人間って…生きてた頃に一生懸命修行? してたヤツだけでしょ。
大抵の人間は欲望に塗れてる。まぁだからこそ地獄に行くのかな…?
俺だって欲はあるよ。今まで痛めつけられた全部を返上するくらい思いっきりやりたい放題したいよ。
だったら天上界は俺の場所じゃないよ」
如嬰は落ち着いて切り返す。
「では、あなたがもし地獄を手に入れたらどうするつもりなのですか?」
「革命を起こす」
「革命……?」
赤鬼は立ち上がって死んだ獄卒を抱き上げる。
そして簡単に蘇らせた。それが赤鬼が人間をやめた決定的な証明になった。
「(こいつは本当に獄卒になってしまったのか…)」
閻魔は改めて心の中でため息をつく。
後悔のため息。もうどうにもならない、不可逆への諦めのため息。
生き返った獄卒が怯えるように赤鬼を見つめた。
赤鬼はすぐにそれを手放すと、再び閻魔大王に向き直った。
鋭い刃物のように閻魔を刺すまなざし。
「あのさ。
いくらなんでもやりすぎ」
一瞬なんのことか分からなかったが、ついさっきまで閻魔大王もそれを考えていたのだった。
「確かにここにいる連中はクズかもしれないけど、だからってここまでする?
俺が起こしたい革命はその辺の変更。
だいたいさぁ」
赤鬼はつかつかと閻魔大王の前にやって来る。
物怖じなど一切ない。
「痛めつけて反省を促すってやり方が最ッ高に幼稚」
それは地獄の意義を丸ごと否定する主張だった。
閻魔大王も奈落も、そこまで深く考えたことはなかった。
「みんな思ってるよ…。ここの罪人だけじゃない。
上の方の地獄の罪人も全員思ってる。
これ本当に意味あんの? これで罪を償ったことになるの?
みんな痛みと恐怖で考える余裕はないけど、心底からそう感じてるに違いない」
「だったら…お前はどうするつもりだ…?」
「俺が考えたのは地獄で厭世を嫌というほど経験させること」
「……?」
合点がいっていない閻魔大王を横目に、赤鬼は如嬰に語りかける。
「人間にとって一番不幸なことはなんだと思う?」
如嬰は即答する。
「私欲に溺れて悪行と傲慢に堕落すること」
「うんうん。その回答はしっくりくるね」
赤鬼は満足そうに笑うと、また閻魔大王に向かう。
「その"私欲"をうんざりさせればいい。
簡単に言うと、地獄を修行場所にして、悟りと解脱を目指させればいい」
一見すると建設的な提案に感じなくもない。
しかし閻魔大王は食い下がった。
「生前に重大な罪を犯した罰を後悔させるのだ。
責め苦は必要だ」
「その責め苦が単調だって言ってんの。
虐殺じゃダメなんだよ。閻魔サマは何もわかってない」
わからない。
この鬼の考えていること一切がわからない。
読めない。掴めない。
「人間にとって一番つらいことはね、人間として生かされることなんだよ!」
人間として生きる。
人間社会に生まれ、一族と他者の間で板挟みになり、家柄、性別、身分、容姿の格差に苛まれ、他人を蹴落とすことでしか幸せをつかめない生き方。
勝利すれば極めて豪華に贅沢に、私欲のままに過ごすことができる。
敗北すれば貶められ、不自由な生活と貧窮に苦しむだけ。
そんな賭け事のような生き方。
「どんな虐待よりも苦しい。一度は幸福になれても、一寸先は闇。
いつ自分が敗者になるかわからない、怖くて、今の幸せすら怖くて、どこまで堕落するか怖くて怖くて、
そんな生活を続けて……、やっと競争や欲なんてくだらないって気づくんだ」
「市場の制度も作る。職業もつくる。その貴賎も明らかにする。
強者と弱者をつくる。金持ちと貧乏人をつくる。
強者は弱者をいじめる権利をもつ。人間なんだから弱いものイジメは大好きだよね?
弱者は当然地獄だよ。でも強者にも地獄の機会を与える。
強者も罪人。獄卒の気まぐれで何の予告もなく弱者側に堕とす。
これまでの幸福な暮らしへの応酬のように惨めな生活を強いられる。
閻魔サマは、人間を知らないから責め苦なんて単調な方法しか思いつかないんだよ。
いい? 人間は生きている間も苦しいんだよ。それは如嬰さんみたいなお坊さんが一番知っていることじゃないの?」
如嬰は変わらず冷静に返答する。
「その通りです。生老病死は間違いなく人間の苦しみであります。
生きている間が、修行なのです。そして苦しい死を乗り越えて、天上界にお招きに預かり、真の平穏を手に入れることができるのです。
…あなたの提案は短絡的かもしれませんが、一蹴するには惜しいかもしれません」
閻魔の知る如来は基本的に地獄の住人を厭悪するため、如嬰の返答にいささかの違和感を感じた。
が、如来ももとは人間であり、各々に個性があるということを思い出して気にするのをやめた。
ふと、閻魔は素朴な疑問を抱いた。
「聞いていいか?」
「何?」
赤鬼は如嬰の返答にそれなりに満足していたらしく、表情を多少ほころばせていた。
しかし、閻魔に話しかけられると再び氷のような目つきに戻る。
「お前はさっき私に対して、『人間を知らない』と言ったが、
お前だって生まれてすぐ死んだ赤子だったはず。人間を見てきたとは思えないが…」
「……?」
赤鬼は素っ頓狂な顔をした。
無言だったが、「は?」と言われた気がした。
「……おどろいた」
赤鬼はすぐに表情を変える。今度は呆れを露わにした表情だ。
「人間には前世があるんでしょう?」
「ある」
「前世の記憶を追憶しただけですー。
だから人間の世界を知っていますー」
閻魔を馬鹿にしたような口調で語る赤鬼。
それを見て思い出したかのように声を上げた。
「前世ッ! そうだ。無間地獄行きの根拠が前世にあるかもしれないと踏んでいたんだ。
お前の前世はどんなものだった?」
「根拠ォ? うーん。
名前はチャールズ。アメリカ生まれ。学歴は中の上。公立大学に進み、卒業後は食品会社の営業部に就職。
部長と仲が悪くて、ストレスで過食症に。5年ほどで治療する。そこそこ美人な女と結婚。子供を2人産む。
54歳で交通事故により死亡。死因は大量出血によるショック死」
「……―――…」
嘘をついているとしか思えなかった。
しかし、淀みなく答える様子にその可能性を潰される。
異端とは言いがたい人生。地獄に落ちるだろうか? 落ちるとしても軽度に決まっている。
ならばそのさらに前の人生か?
それとも今の追憶で都合の悪い部分を語らなかったか?
そもそもこうなった以上、嘘をついても赤鬼には得がない気がするが。
「……」
だんだんワケがわからなくなってきた。
ではあの閻魔帳はなんだったのだろう。自動記入装置がはじめての誤作動を起こしたということなのか?
それで片付けてしまうのか…? ただ、だとすればやはり責任は私にもある。
あああ…誤作動にしても、なぜよりによって無間地獄? まだ軽度の地獄ならこんな凄惨な事態には至らなかったかもしれない。
というか、自動記入装置を過信しすぎた。なぜ…。どう考えてもおかしい判決…。なぜ考えなかったのだろう。
あのとき、終業時刻間近で疲れていたのかもしれない。いや、疲れていたからと言って許されることはないだろう。
疲れていたから、目の前の歩行者に気づけずブレーキが遅れて殺害……、という罪人を許してきたか?
こんなもの言い訳にならない。あああ……。忙しいからと言って自動記入装置なんて導入するのではなかった…。
いやいや、アレがないと追いつかない…。人間の数が多すぎだし罪を犯す人間も多過ぎ! 元はと言えば人間が悪……馬鹿か私は、何考えてるんだ?
頭が…クラクラしてきた……。……。
閻魔は目を伏せてしまった。
如嬰が再び話し出す。
「気になったのですが、閻魔大王はさっきあなたのことを『お前たち』と呼称していた気がします。
あなたの他にも無罪でここに落とされてしまった者がいるのですか?」
「俺の弟だよ」
奈落は、そういえば弟の姿がないことに気づいた。
赤鬼のように角が生えているだろうか。
「まーとにかく、管轄のことはまた後でもいいや。
どちらにせよ俺たち、この無間地獄でお世話になるわけだし?
奈落センパイ、よろしくおねがいしまーす」
赤鬼は仰々しく奈良にお辞儀する。
奈落は目眩がした。
「ところで、名前って誰につけてもらったの?」
なれなれしく話しかける赤鬼。
獄卒の名前は、生みの親である閻魔がつける。
閻魔の中では既に「赤鬼」として成立している元人間の鬼は、自分に呼び名がないことを多少不便に感じているようだった。
だから閻魔が力なく答える。
「赤鬼」
「え?」
「赤鬼でいいだろう。その返り血にちなんでお前に寄越す」
閻魔は疲れ切った表情を浮かべた。
かつて閻魔である自分も尊敬した「赤鬼」の名前を、こんな得体の知れない者につけるのには少々抵抗を感じた。
しかし、自分が取り返しのつかないことをしてしまったという罪悪感や、もうどうにもならない諦め、そしてもうどうにでもなれという投げやりな感情に苛まれ、半ば思考を停止させてしまっていた。
「ふーん、じゃ赤鬼です。よろしくね」
奈落もまた、赤鬼を認めた。
獄卒はあまり思考できないように作られているので、思考を諦めるのは閻魔より早かった。
如嬰は頭を抱える閻魔の後ろ姿に同情のまなざしを向けると、それを庇うように赤鬼に話しかける。
「一度、天上界の如来たちに相談してみましょう。
このような異例ですから、真剣な議論が必要です。
地獄の管轄云々も私がしっかり話をしておきます。閻魔大王は少しお休みになるとよいでしょう」
「……感謝申し上げます…」
赤鬼はそのやりとりに興味がないようだった。
他の獄卒に挨拶したり、奈落の角を触って自分のそれと比較したりしている。
鬼になってしまったというのにずいぶん暢気だ。
如嬰はその様子を静かに見ていた。
「(救ってやらなければ)」
心優しき如来としての使命感とともに、その場をあとにした。
無間地獄には、いつもと変わらない瘴気。そして、新しい獄卒を歓迎するかのように賑やかに炎を燃えさからせる。