五
――不可逆の呵責は 胸中へと燻る
無間地獄は異様な雰囲気に包まれていた。
閻魔大王がいらしている。
獄卒たちはその珍しさに思わず虐待する手を止めてしまい、閻魔大王と奈落が歩くのを凝視する。
緊迫し、些か不気味な空気だった。
閻魔大王は、奈落の案内する道を歩くにつれ、感じ取っていた。
明らかに異例の事態が起きている―。
奈落もまた感じた。何度か味わった正体不明の"不安"
「(しかし、なんだ…?)」
一度目は、何千年も前双子を無間地獄へ連れてゆくとき。
二度目は、開いたばかりの眼でこちらを見つめられたとき。
三度目は―それこそ不安が確信に変わった―、奴らがありえない成長を果たしていたとき。
それらの経験から感じ取ったものとはまた違う何かを感じる。
今度は一体なんだというのか。
私に逆らい爪を立て、目を見開いて睨み付け、挙句の果てに死を乗り越えて成長した。
その上いったい何があると?
「(結局…、ニンゲンなのだから…)」
案じることはない。
何度も繰り返した気休めだったが、とにかく今の奈落にはそれしかなかった。
「……」
閻魔大王が、小さく息を漏らした。
呼吸に失敗した音だった。
奈落はもう、呼吸もできなかった。
このまま死んでしまえばいいのにとすら思った。
「あはは…はあ……はあ…くっくっく……、
無間地獄の鬼って言っても……同じ鬼同士ならなんとかなるんだねェ…」
鮮血。肉片。死体。
傍らに立って息を切らす鬼―鬼?
ニタニタ笑っている。その姿は血に塗れている。
肉塊を握る頑強な手、鋭い角、牙、爪。
その姿、まさに――――。
「………、……。
…………」
閻魔大王の頭の中で、あらゆる可能性が浮上しては弾けていく。
その衝撃で頭部が溶かされんばかりの痛みと、全身の血管が詰まる感覚。
急激に冷やされた体温、気味の悪い発汗、動悸。
やがて"それ"はこちらに気付いて、口角を上げて我々を見つめる。
その異様な、「鬼のようなもの」に吸い込まれる心地がして、閻魔大王は半ば無意識に、ぽつりと呟いていた。
「――赤鬼だ…」
赤鬼。
それはかつて無間地獄に存在していた獄卒のひとり。
どの獄卒よりも剛健で、正義感が強く、罪を許せない者だった。
そして、罪人から浴びた血を清めることをしなかった。
"この者達には、来世で清く生きてほしいのだ。
この者達の穢れた罪は、すべて私が引き受ける。
穢れを残されるのは地獄だけでよい、鬼だけでよい…。"
そんな思いで赤鬼は、獄卒として何京年もの時を繰り返した。
そしてその宣誓通り赤く染まった容姿にちなんで、閻魔大王が直々に与えた名が「赤鬼」だった。
奈落を含め、すべての獄卒が規範とするべきだと認めた、地獄の鬼の鑑であった。
そんな折、赤鬼は閻魔大王の勅許なしに地獄を抜け出した。
向かった先は天上界。
如来たちが自分を凝視するのも気に留めず、麗らかな木々や蓮の間を一目散に走り抜けていった。
―御大蓮宮、天上界の管理人、その下へ参上したのだ。
"御大蓮宮様、謹んで申し上げます。
私は八大地獄、無間の鬼としてその身体を与えられ、今までその務めを果たしてまいりました。"
"私は人間を憎んでいます。罪を犯し、命を、その尊厳を傷つける人間を憎んでいます。
しかし"
"しかし……"
蓮宮は、「これ」を言った獄卒は消してしまうことにしていた。
"本当にここまでする必要があるのですか……?"
獄卒は、単に罪人を虐め殺すだけのもの。
その為だけに作られたもの。
言わば、機械だった。
獄卒が、獄卒としての思考能力を超越した思想を持つことは、機械でいうところの"故障"に他ならなかった。
赤鬼は「消された」。
存在が消された。赤鬼という獄卒がいたことも、赤鬼を讃えた大勢の獄卒たちの記憶も全て抹消された。
蓮宮と閻魔大王だけが、永遠にその存在を記憶している。
もう遠い遠い昔のことだった。
「…………どうして…」
閻魔大王はここにきて赤鬼と再会したのだ。
記憶している"赤鬼"は誠実で正義感が強い、獄卒の鑑。
しかし今現在目の前で、獄卒を返り討ちにして笑みを浮かべている"赤鬼"からは、そんなもの微塵たりとも感じない。
返り血で真っ赤なことは共通していても、…少なくとも"赤鬼"はこんな狂気に満ちた表情は浮かべない。
「私を恨んでいるのか…?」
お前を消したことを恨んでいるのか?
だから再び復活したのか?
私に復讐をするのか…?
赤鬼は一瞬怪訝な顔をすると、すぐに合点がいったように表情を綻ばせた。
「ああ…、閻魔サマ……だよね?
綺麗な服だし……」
「恨んでないよ!」
耳を疑った。
屈託のない笑顔で淀みなく答えた。
恨んでない、私のことを…閻魔大王の事を恨んでないと言った。
しかし、すぐに閻魔大王は幾千年前の決断を激しく後悔することになった。
その原因は限りなく単純で、残酷なもの。
「恨まないから、ちょうだい。
地獄」
閻魔大王に対する宣戦布告ともいえる、要求だった。
驚いた。
獄卒どもが騒然としていて、罪人を持て余している。
「あの…何があったんですか?」
如嬰は近くの獄卒に問うた。
ここを除く八大地獄をすべて廻ったが異変はなかった。まさか無間地獄で異常が起きているとは夢にも思っていなかった。
「……罪人が鬼になってしまったとか…。
それで…閻魔大王様が…直々にいらっしゃっていて…」
獄卒は呆然としながら答えた。
如嬰はこれまでにない戦慄を覚えた。
意味がわからない。
鬼になったということはつまり、獄卒になったということか?
獄卒は閻魔大王に"創られるもの"であって、人間が変化するはずない…。
「閻魔大王はどこにいるのですか?」
如嬰は道を尋ねながらその場へ向かっていった。
徐々に感じ始めるぞわぞわした感覚。
もともと聖が来る場所ではないうえ、更に畳み掛けるように瘴気が襲う。
「(こんなになるまで……?)」
やはり地獄の責め苦は厳しすぎるのではないか。
これでは痛みを教え反省を促すという本来の目的を逸脱して、単なる快楽のための虐待になるまいか。
一度蓮宮様と真剣に話し合う必要がありそうだ。
聖はまだ、双子の姿を見ない。
これから起ころうとしている泥沼の争いのことも知らない。