二
―我が痛みは幾京先の、裁きの布石の為に
「奈落~、ごめん…。
やっぱりお前がいてくれた方がいいかな~っ?」
「はあ、今回は何年くらいですかね」
「ん~、千くらい」
「御意」
閻魔大王は奈落の事をよほど頼りにしているようだった。
奈落はそのことを光栄に思いつつも、こんなに頻繁に呼び出すならいっそ側近として置いてくれればいいのに、と思っていた。
「(千年か)」
実際、地獄には明確な時間の意識がない。
何せ無間地獄の刑期は六八二京だ。人間界の宇宙の寿命なんかよりよっぽど長い。
時間など数えるだけ無駄だった。
地獄は死者の集い。獄卒は熱をもって動きはするが、「生きている」という概念はない。
なので長生きという感覚もない。もし奈落を年齢に換算したらとんでもないことになる。
そんな地獄の住人にとって、千年は実に短いものだった。
「人間界で大量殺人でもありましたか?」
「あ~いや、う~ん、まあちょっと。
そうでなくても今の人間界って人間が多いじゃん…、それだけ死ぬ人間も多いの~」
その上軽度とはいえ罪を背負った人間ばかりだから、忙しいったらないか。
奈落は苦笑しつつ、そうですねと答えた。
一番忙しいのは、戦犯裁判の時だ。
戦争に参加し、死んだ者の裁きには悩んだ。
人殺しは言うまでもなく罪だが、問題なのは本人達に罪の意識がないことだ。
戦争は互いの正義が衝突することで起きるから、正義を達成するための殺しもまた正義とする軍人たちの心持ちには驚かされた。
ただの快楽殺人犯なら、罪の意識があるから楽だった。
彼らは悪いことをして喜んでいる。行為の前提に、それが悪いことだと認識して殺しをやっている。
冥界では閻魔大王がすべての法だが、普遍的な法はない。
冥界はそもそも人間のためにある。人間に普遍性はない。然れば冥界にも普遍性などないのだ。
すなわち閻魔大王は変わり続けなければならない。いや、意思に関係なく変わり続けてしまう。
そして閻魔大王が変わるということは、法が変わるということだ。
「そもそもね、普遍性のあるモノなんて存在しないんだよ。
あの御方が説いたように」
「あの御方」は、いつだったか人間界に興味を示してそこに来訪した。
そして、一人間に天啓を与え、諸行無常を説かせた。
それが、所謂仏教の始めとなった。
「あの御方」は何物でもない、天上界そのものである。
そして冥府を、閻魔大王を創り出し、地獄を生み出した。
「閻魔さま、そろそろ開廷です」
奈落は獄卒だった。
獄卒は閻魔大王に作られた道具だから、天上界や人間界には一切興味がなかった。
そういう風に作られている。ただ罪人を虐殺するためだけの鬼だった。
だからといって地獄に興味があるわけでもなかった。
閻魔大王に作られた一番最初の獄卒、その自覚だけはあったが、何か感じることはほとんどなかった。
何人を何回殺したか…どうやって殺したか…。
もう覚えていない。ぼんやり返り血を浴びながら、刑期を終えた罪人たちを輪廻に見送ってきた。
人間を殺すのに飽きていた。
その飽きるという感覚さえ、奈落にはうまく掴めなかった。
獄卒は元来そういうものだ。
余計な感情機能はない、機械のようなもの。
その奈落の心に飽きというものが来ているということは…
「(機械で言うなら故障、だな)」
閻魔の前に、死んだ人間が陳列している。
獄卒が死んでもここに並ぶことすらできないんだろうな、と奈落は思った。
「奈落、いったん持ち場に戻ったら?
ひと段落ついたし」
何千年か経ったある日、終業時刻を迎えた閻魔大王が伸びをしながら言う。
「そうですか」
奈落はそれだけ返事して一礼すると、無間地獄の道を歩き出した。
「(地獄に戻っても、特に変化はないと思うけど)」
これまで目立った問題があったことは一度もない。
一つ上げるとしたら、昔生きている人間の魂が冥界に迷い込んだことがあった。
幽体離脱というやつなのか、それ自体は珍しくないが、あの世まで来ることは滅多にない。
しかも、地獄に。
その魂は戦々恐々として地獄中を逃げ回っていたが、獄卒に生きている魂を虐める権限はないから杞憂だった。
結局どこかの獄卒が魂を捕まえ、閻魔に引き渡して、無事人間界へ帰れたみたいだが…。
「アイツ、絶対人間界で地獄の事を吹聴して回るぜ」
「違えねえ」
「名前、なんて言ったっけ?」
「知らねー。いちいち人間の名前覚えてるわけねーだろ」
後から閻魔が言ったことには、案の定書物に地獄の事を著していたようだ。
仏僧だったそうだが、他のことは何も知らされていない。
「あんまり怖がっていたからちょっと脅かしちゃった。
悪いことするとお前もあそこに落ちるぞ~って、あははは」
閻魔大王は暢気に笑っていたが、その書物を読んだ人間たちは青ざめるなり馬鹿にするなりして騒いでいたことだろう。
とにかく、奈落の記憶に残っているのはそれくらいだ。
「奈落さま」
不意に部下に声をかけられた。
まだ無間地獄への道中だった。
「なぜお前がここにいるんだ?
無間地獄から出ていいのは俺だけのはずだが」
「申し訳ありません、しかしどうしてもご報告した方が良いと思って…」
奈落は眉をひそめる。
「それなら冥界まで連絡をよこせばいいものを。
閻魔さまに聞かれるとマズイことでも起こったか?」
部下は、黙り込んだ。
まさか。
「……何があった」
血塗れなのはいつものことだ。
罪人の悲鳴が聞こえる。問題ない。
燃える音、壊れる音、すべて聞き慣れたもの。
「それで、何が異常なんだ?」
部下は何かを探しているようだった。
奈落も部下を追って地獄内を進む。
「……いた」
部下が指をさした先を見た。
男の罪人が挽肉にされている。
特に変わったことはない。
「ハッキリ言え、何が異常だ」
部下は、少し震えながら発言した。
「………双子、です」
意味がわからなかった。
確かに挽肉は二人分あったが、兄弟一緒に同じ地獄へ落ちるなど珍しくもない。
それが双子だと何か問題が?
「…それで?」
奈落は未だに腑に落ちず、冷静に聞き返す。
部下は少し声を荒げた。
「……赤ん坊の双子です!」
奈落の脳髄に電気が走った。
頭を一瞬焼かれたような痛みに貫かれた。
待て。
「男の罪人が挽肉にされている」
「挽肉は二人分あった」
…その責め苦を受けている罪人を男と判断した根拠は身体つきだった。
実によくある、よくいる成人男性のものだった。
そしてその体型に基づいて、肉の山を「二人分」と判断した。
待て待て。
赤ん坊?
違う。アレはどう見ても大人だ。
双子の赤ん坊? 双子の双子の……赤ん坊……いやいや。
死んだ人間は成長しない……。でも……。
奈落は、はっとして今二人を挽肉にした獄卒に言う。
「蘇らせろ!」
その獄卒は少し驚いて、すぐに復活させた。
その姿を見た瞬間、奈落の右腕に小さな痛みが生じた。
あの日、初めての日、あのガキに噛まれたところだった。
「どうも……お久しぶり」
そう呟いたのは、およそ成人の、あの日のものとは似ても似つかぬ、青年だった。