一
―貴殿 我が罪せらるるは何の故にぞ
「変死?」
冥界はすでに亥の刻を迎えており、終業時刻目前であった。
「はい、其の方は一女より生れてすぐ、息を引き取ったようです」
閻魔大王は本日最後の亡者を一瞥しつつ、閻魔帳を眺めてあれこれ思案していた。
「しかし、ううん…生れてすぐ死ぬなどは…珍しい話ではないにしても…」
閻魔帳は閻魔自らが直接記しているわけではない。
浮世の人間の増加、さらに厳密に言えば、罪を犯す人間の増加により、もはや閻魔自身が手動で人間の生前を監視することはできなくなっていた。
そのため現在は側近の獄卒や自動記入装置を駆使し、閻魔は全体の監督を行うことが中心となっていた。
「これは自動記入装置で書かれたものか…。
これまで一度も間違いがあったことはないし、信じていいんだろうけどねえ…」
先程から閻魔が判決を渋っているのは、閻魔帳の内容に不可解な記述が含まれているからである。
「双子の赤ん坊が無間地獄……」
閻魔を目の前にいかなる反応もせず、ただじっと床に転がったまま眠っている本日最後の亡者は―、
名を授かる前に、産声を上げる事もなく急死した二卵性双生児だった。
本来、無間地獄に落ちる人間は珍しい。
そこは生半可な悪行では到底至ることのできない、八大地獄最大にして最恐の地獄であった。
それに加え、生れたての赤子はほとんど、何の問題もなく天上界へ行けるものとされていた。
罪を重ねる前に死んだのだから当然である。
稀に不貞の子であり、親が罪悪の類であるとか、或いは前世からの罪がまだ赦されていないとか、そういった理由で軽度の地獄に落とされることはあるが、赤子で無間地獄行きというケースは地獄の成立以来初めてのことだった。
「一度よく吟味した方がよいかと」
閻魔の側近である獄卒が双子を横目に見ながら言う。
彼の名は奈落。
無間地獄の管轄を一任されている、最古参の獄卒のひとりである。
緋色の単眼を鋭く光らせて閻魔の傍らに立つ姿は、大抵の亡者を怯ませるものだった。
が、双子は閻魔にも奈落にも興味を示さないかのように、ぽかんと眠っているだけだった。
…基本、閻魔帳に基づいてすべての判決は下される。
おそらく双子の無間地獄行きは変わらないだろう。
奈落は同情するように目を伏せて少し笑った。
「(これからずいぶん長い間、付き合うことになるね…)」
「前世様々の罪を犯したうえ親殺しをして、その罪が未だに許されていないのだろうと、
天上界の蓮宮様が仰ったよ」
天上界―いわゆる天国―の秩序を管理する如来、蓮宮は時々裁判に干渉する。
閻魔が判決を決めかねているときに助言する形で天上界から連絡をとっていた。
「けれども無間地獄は少し法外だよねえ…おっといけねえ、閻魔ともあろう私が法外だのなんだのと…」
閻魔の独り言をぼんやり聞きながら奈落は思案していた。が、よほど前世の罪が重いのだろうとすぐに考えるのをやめた。
どうせ赤ん坊なのだから、感情も感覚も感傷もなく責め苦を受け流すだろうと思っていた。
「んだば奈落、そいつら連れて行って」
閻魔は完璧にオフモードになって正装の紐を緩め、寝室へ向かった。
終業時刻はとっくに過ぎていた。
奈落が双子を抱きかかえ、地獄の入り口へ向かう。
裁判所から無間地獄までの道のりはそれなりに長い。
「(無間の長も閻魔の補佐もやらされてちゃ、そのうち足がなくなるね…)」
奈落は特に思ってもいない不平を心中で言って、そういえば自分も眠かったことを思い出した。
「…?」
ふと右腕に違和感があって目をやると、双子の一方が奈落の腕に噛み付いていた。
噛み付くといっても、歯すらない状態なので痛くはない。
兄弟、か。
「俺はお前たちを全く知らないし、もしかしたら誰も知らないんだろうけど、
きっとお前が兄貴なんだろうね」
兄と断定された方の赤子は、薄い爪を立てて奈落に攻撃するようにしがみ付く。
奈落は嘲笑うようにその様子を見ていたが、一瞬なにか得体の知れないものが全身を襲うような感覚になった。
「……」
兄は未だに腕に爪を立てている。
奈落は歩みを止めてそれを凝視する。
一間置いて、今しがた感じた感覚が一種の"不安"であったことを悟る。
不安? この俺が?
首も据わっていないガキが、無間の鬼をどう脅かすと?
笑わせる。
今ここで一度殺すか。
奈落は左の手をパキパキと鳴らした。
蚊を叩き潰すも同然。
肉塊にしてやる。
ぞくり
腕を動かしかけた奈落は、再び"それ"に襲われた。
今度はなんだ…。
弟が腕に力を込めて、ぎゅう、としがみついていた。
奈落は苛立った。
名すらない間抜けな童め、どうあっても抵抗しようというわけか。
ならば徹底的に捻り殺してやる。据わらぬ首を何度も刎ねて、開かぬ目を抉りだしてやろう。
お前たちの産声は血の海の中で上がるんだ。
奈落は兄を殺さず、先ほどより足早に無間地獄へと向かった。
「新しく落ちた罪人だ。
赤子だからといって容赦はするなよ。
いつものように…」
無間地獄に到着してすぐ部下の獄卒に指示して、奈落は弟を他の獄卒の方に投げ、
兄を持ち上げて握り潰した。
中身を絞り出すように力を込め、頭部を破壊する。
小さな脳味噌が血飛沫と共にボトボトと溢れ落ち、身体が痙攣してやがて息絶えた。
奈落はそれをすぐに蘇らせ、尚もぽかんとしている兄に向かって言う。
「言葉がわからないうえ、苦楽も判断できない赤子だから、ある意味他の罪人と比べればまだ楽な方かもね。
他の連中は何が快楽で何が苦痛か知っているし、感情が発達している分、ココは真の地獄といえる。
多分お前たちは冤罪だけど、閻魔様や天上界の意向だから仕方ないね」
奈落は再び自分の睡魔を思い出し、その場を後にしようとした。
が、またしても……感じた。
「チッ…」
この不安は一体なんなんだ?
たかだかガキ二匹、指一本で殺せてしまうというのに。
今殺して分かった。何の変哲もないガキだ。
それなのにこの妙な感覚はなんだ。こいつに一体なにができると?
奈落は苛立ちを振り払うように兄を睨み付けた。
心臓が跳ね上がった。
「………」
開眼している。
奈落は総毛立った。
おかしい。
死んだ人間は成長しない。
20歳で死ねば、永遠に20歳の身体機能を保つ。
背が伸びる、髪が伸びるといった長期的な成長はしない。
消化機能や涙液の分泌などはするが、要するに容姿は変わらないのだ。
赤子の目が開くのには個人差はあれど、大抵すぐに開くもののようだ。
問題は赤子の開眼が「成長」に分類されるか否か。
こいつらは生れてすぐ死んだ。
開眼する前に死んだ!
ならばずっとその状態のはずではないのか?
成長するのはありえないことなのだ。
死にながらにして生きているようなものである。
「………」
奈落は、考えるのをやめた。
どんな事態が起ころうと、所詮は人間。
たとえ赤子のままだろうが大人に成長しようが、我々無間の鬼にとってはなんのことはない。
仕事に支障は出ない。ならばいいではないか。
半ば気休めの決着で思考を終わらせると、未だにぞくぞくとする背中を無視して奈落は眠りについた。