幼少期5
特に何も起きないまま、変わらないまま、時間は過ぎ去っていく。
優は小学六年生、十二歳になった。
身長が伸び、髪が伸び、優の容姿は少女らしくなってきていた。
入学前あれほど嫌がっていた小学校にも、ほとんど休むことなく通っている。
そして、優が六年生になってしばらくしたある日。
夕食を食べたあと、優は片付けをしようと立ち上がった聖司と那乃を呼び止めた。
「伯父さん、伯母さん」
聖司と那乃は振り返った。
優は静かな表情をしていて、それが逆に二人をどきりとさせた。
小学校六年生とはとても思えないような、落ち着いた眼差しだった。
優は笑みを含んだ声で、問いかけた。
「あたしのこと、教えてください。二人は知ってるんでしょ?あたしがおかしいこと」
聖司も那乃も、その眼差しに射すくめられたように動けなくなる。
あの幼く無邪気だった優は、もうどこにもいないと肌で感じたから。
いつから優は、こんなに大人びた子供になったのだろう。
黙ってしまった二人に、優はさらに語りかける。
「あたしの記憶にはところどころ穴がある。自分が何をしてたのか、覚えてないことが今もたまにある。でも周りの人はあたしがやったって言う。あたしの知らないあたしがそこにいる」
まっすぐ聖司と那乃の目を見て、優は続けた。
「あたしじゃない『あたし』のこと、二人は知ってるんでしょ?じゃなきゃ、病院になんて連れてかないよね」
少し驚いて、那乃は聖司を見た。
あのときまだ五歳だったのに、優は病院に連れて行かれた日のことを覚えているようだった。
医師との会話は聞いていなかったはずだが、この様子だともううっすら気づいているかもしれない。
「だから教えてください。あたしがあたしのこと知らないなんて嫌なの、だっておかしいじゃない。周りは知ってるのにあたしは自分のこと知らないなんて。自分のことくらい理解したいの」
言いながら、優は聖司と那乃に頭を下げた。
あたしはもう、右も左もわからないような子供じゃないんだよ。
そう言われているようだった。
聖司と那乃は目配せしあい、食器をそのままにして座り直した。
そして、ようやく聖司と那乃は話した。
優が実の両親に捨てられたことを知ったから養子縁組をして自分たちの子供にした、というところから。
優が多重人格であること、優の中に兄の希を模した人格がいること。
記憶がない間の時間は、おそらく希と入れ替わっているだろうということ。
聖司と那乃にわからないことや不確かなことは流石に話さなかったが、知っていることは全てきちんと話した。
優は終始黙って聞いていた。
話が終わっても黙ったまま何も言わない。
優がどんな反応をするか読めず、聖司と那乃ははらはらしながら優の顔を伺った。
しばらく経ってから、優は突然ふわりと微笑んだ。
それは見た者を魅了する笑み。
まだ十二歳の少女のそれとは思えないほど、優の微笑は人間離れしている。
聖司と那乃はごくりと息をのんだ。
「あたし、本当に『普通』じゃなかったんだね」
その言葉の意味を図りかねて、聖司は首をかしげた。
普通じゃないとは、どういう意味だろうか。
聖司の隣の那乃も首をかしげている。
そんな二人をよそに、優はさらに笑みを深くして言い放つ。
「あたし、人間が大嫌いなんだ。だって」
優はふふ、と声を立てて笑った。
「どいつもこいつも同じにしか見えないんだもの。ちょっと普通じゃないって思ったら、その相手を集団で攻撃。バカを通り越して理解不能だよね」
優が思っていることを語るなんて珍しいな…。明日は雪が降るんじゃないか?
聖司が現実逃避ぎみにそんなことを考えながら横を見ると、那乃は目を見開いて優を凝視している。
そういえば、昔から那乃は突発事態に弱かったな…。
聖司の思考もさらに現実から逃避していく。
何故か楽しそうに、優のセリフは続いた。
「でもいいの、だってあたしには関係ないから。人間どもがなにをしてようとあたしはあたし」
……に、「人間ども」とは…もうなにも言えない。
この状況はなにかの冗談だろうか、目の前の少女は本当に優なのだろうか…。
聖司の思考が現実逃避の極みに達しようとしたとき、優はなにかを思い出したようにポンと手を打った。
その仕草がコミカルに見えてしまい、聖司は額をおさえた。
僕、もうダメかもしれない…僕の姪ってこんな女の子だったっけか…。
ちなみに那乃はまだ優を凝視している。
「あのね、あたし聖司伯父さんと那乃伯母さんにききたいことがあるんだ」
那乃は優の質問に返事をしてくれそうにないので、仕方なく聖司が答えた。
壊れたロボットのようなぎこちない動きで優の方になんとか顔を向ける。
「な、なんだい?」
優は笑顔を引っこめ、真顔で問うてきた。
「友達を作るのって、義務?」
「は…え?」
質問に、さっきまでの話との一貫性が全くない。
聖司は思わず間抜けな声を出してしまった。
優は小さく頭をかたむけて、聖司をじっと見つめる。
「伯父さんも伯母さんも、よくあたしに言うじゃない。友達がどうとかこうとか」
聖司は眉をひそめた。
頭がついていけない…。
「あたし、伯父さんと伯母さんのことは好きだよ。だってあたしの親になってくれた人間だもの。だから二人があたしに、友達を作れって言うなら努力してみるけど。で、どうなの?」
優はなにを言っているんだろうか…僕がおかしいのか?
どちらかといえば『普通の人間』である聖司には、優の言葉が理解しきれなかった。
隣の那乃はいつのまにか復活していた。
そして聖司をさらに混乱の渦に落とす言葉を吐いた。
「そうねぇ、私もあんまり人間は好きじゃないから優の気持ちはわかる気がするわね」
聖司は驚愕して那乃を見た。
ブルータスお前もか!というセリフが頭の中で再生される。
那乃はさっきの優と同じような、人間離れした妖しい笑みを浮かべた。
「私も優のこと好きよ。可愛い姪で、娘だもの。だからこそ、あなたにはちゃんと分かってもらいたい」
人間離れした笑みを浮かべていても、那乃の眼差しは優しい母親のそれに近い。
聖司は的外れにそんなことを思った。
「私と聖司は、あなたに友達を作ってほしいと思ってる。でもね、それは義務ではないのよ。私たちがそう願っているというだけで、あなたに対する強制力は別にないの」
那乃は立ち上がり、優の方に近づいた。
「さっき私たちは今まであなたに黙っていたことを話したでしょう?」
優は無言で頷く。
那乃は床に膝立ちして、少し下から優を見上げた。
「あなたは昔から普通の子供と比べて変わってたし、多重人格って意味でも普通じゃないでしょ?だからこそ普通の子供みたいに過ごさせて、普通の幸せな子供になってほしかった。だから黙ってた」
無言のまま、少し表情をくもらせる優。
那乃は優しい口調で続ける。
「でもそれは些細な違いだったかも。さっきあなたが言った通り、普通だろうと普通じゃなかろうと、あなたはあなた。幸せかどうかは優次第なの。普段の生活は、楽しい?」
優はほんの少しだけ口角を上げた。
「楽しいよ。だってあたし、自由なんでしょう?友達がいるかどうかは人間にとって大事かもしれないけど、どう感じるかはあたし次第。そうでしょう?」
その笑顔に、那乃は自分の子供時代を重ねていた。
「そうよ。あなたが今楽しく過ごせているなら、それでいいの」
那乃が優をぎゅっと抱きしめる。
聖司は一連の流れをなにも言えずに見ていた。
なにも言えなかったというより、突っ込めなかったというべきだが。
目の前では那乃と優がひし、と抱き合ってなにやら感動的な雰囲気をかもし出している。
実際目の前の二人にとっては、お互いの意思を確認できた感動的な場面なのだろうが、残念ながら聖司はまだ理解しきれていなかった。
繰り返し述べるが、聖司は優や那乃と比べると『普通の人間』である。
この雰囲気はどこから出てきたんだろう…。
ちょっと整理してみよう、なんの話をしていたっけか…確か、優が多重人格だってことをようやくさっき本人にしゃべったんだよな?
聖司は優と那乃の方を見た。
それがどうしてこんな話になってるんだ?
優がいきなり、「あたし人間嫌いー」とか言い出したのは覚えている。
…うん…どうしてこうなった?
優と那乃の会話のぶっ飛び加減に頭痛を感じ、聖司は頭を抱えた。
そんな聖司をよそに、今度は那乃がポン、と手を打った。
今度はなにを言い出すのか、と聖司は身構える。
「優、あなたの質問にちゃんとは答えてなかったから、一言でまとめるわ。好きになさい」
え。
聖司はまたもや予想外の言葉にあ然とした。
そこは普通の親なら、あなたが友達作ってくれたら嬉しいわーとか言うところでは?
「優がほしいと思った時に友達を作ればいいの。今は人間となんか関わりたくない!っていうなら、別にいいわ。好きにしていいのよ」
内容の過激さに反して、那乃の口調は穏やかだった。
聖司は微妙に汗をかきながら思った。
人間が大嫌いってとこから、話がだいぶ過激に発展してないか?
優は那乃の言葉に、満面の笑みで答えた。
「わかった、ありがとう伯母さん!それなら今は友達とかいらないかな。あたしの世界にはしばらく、伯父さんと伯母さんがいれば十分だもの…って伯父さん?聖司伯父さん?」
あ然と優を見ていた聖司は、呼びかけられて我に返った。
「……はっ、ごめんよ優、那乃。僕には二人の話が半分くらいしか分からなかったものでね。僕は優や那乃と比べたら普通に生活してきたから、あまり言えることはないんだ」
でもね、と聖司は続ける。
優と那乃の暴論に少し影響を受けたかもしれない、聖司は「普通の親」であることを諦めてきていた。
いいのさ普通の親じゃなくても!優は可愛い姪で娘だから!
「僕も一点においては那乃と同じように思った。友達は、優がほしいと思って行動してたらそのうちできるものだ。だから、今一人でいても楽しいっていうなら、無理に友達を作ることはしなくていいんだよ。優の好きにしていいんだ、優の生きる道なんだから」
僕と那乃がどう言おうと、いちばん大切なのは優が自分で決めることだよ。
聖司は話をそう締めくくった。
というか、これ以上暴論を展開させないでほしかった。
自分も若干暴力的な理論を述べたことに聖司は気づいていない。
優は嬉しそうに笑って、今度は聖司に飛びついた。
「ありがとう!伯父さんも大好き!」
よしよし、と優の頭を撫でながら、聖司は遠い目になった。
僕たち、さっきまでなにを話してたんだっけ?置いていかれている感が半端じゃない。
やっぱり僕がおかしいのだろうか…。
さらに繰り返し述べるが、おかしいのは優と那乃の方である。
聖司の方が一般的な感覚を持っている。
優は聖司の腕の中から聖司と那乃の顔を見上げ、さっきからずっと浮かべている満面の笑顔で聖司の頭痛を悪化させる言葉を放った。
「あたし、もし人間じゃない人間と会えたら、そのひとと友達になる!」
那乃は優の頭を撫でながら、かなり見当違いな感想を述べた。
「いいんじゃない、異種族間の友情って素敵よね」
ちなみに、那乃の職業はライトノベルの編集者である。
最近那乃が担当した作品に異種族の友情ものがあったようななかったような…だが優が言ってるのは、異種族とかそういう意味じゃないと思う。
聖司の頭痛はどんどん悪化する一方だった。
だいたい、家族の中に多重人格者がいるという時点でまるで小説やラノベである。
ジャンルはノンフィクションだが。
多重人格のことを話したあと深刻な感じになるかと思いきや、何故か優と那乃はとても楽しそうに盛り上がっている。
優にとって、多重人格はどんなものなのだろうか。聖司にはもうなにがなんだか分からなかった。
この家はいつから人外魔境になったのか…僕がしっかりしないと優も那乃も絶対おかしな方向に行ったまま戻ってこない…。
優がなんとなく普通の子供じゃないのは分かっていた。でもまさか那乃までここまでぶっ飛んでいたとは…。
だがいちばん信じられないのは、この状況を受け入れはじめ、あまつさえ家族が変人だと意外と楽しいかも!とか思ってる自分だ。
僕、病院行った方がいいかもしれない。
痛む頭を抑えて、聖司は深く深くため息をついたのだった。