爆音姫のゆゆしき問題
――昔々ある国に、たいへん美しいお姫様が生まれました。
王様と王妃様、そして幼い王子様は、女神様に愛された美姫の誕生に大喜びです。騎士や侍女、官吏たちも、生まれて間もないというのに将来有望なお姫様の誕生に、歓声を堪えることができません。
お姫様が生まれて十日後。王家のしきたりに則ってお姫様のお披露目会が行われました。
王族誕生のお披露目会では、女神様のお言葉を聞くことのできる聖女が女神様のお告げを皆に知らせることになっています。生まれた王子王女がどのような人生を歩むかを宣言されるので、皆も期待していました。
そして、いよいよ聖女が入場し、国王一家の前に跪きます。
歴代の聖女の中でも随一の預言能力を持つ彼女は目を閉じ、澄み渡る声で言いました。
『女神様のお言葉をお伝えます』
皆、ごくりと唾を呑んで聖女の言葉に傾聴します。
『曰く、王女は国一番の美女となるでしょう』
皆、歓声を上げます。王様も王妃様も、満面の笑みです。
『曰く、王女は聖なる力を有しており、あらゆる魔をはね除けることでしょう』
おおお! と皆がどよめきます。
『曰く、美しく賢くお優しい王女に、多数の求婚者が集うでしょう』
その通りだ、と皆は笑顔で頷きます。
『曰く、王女はどこの国にも嫁に行くことなく、この国で一生を終えるでしょう』
――皆の表情が、凍りました。
それまで和気藹々としていた会場が水を打ったように静まりかえり、誰も何も言いません。
皆、驚きのあまり声も出なかったのです。
しかしそれは、預言した聖女本人もでした。
聖女は預言を終えたとたん、真っ青な顔になりました。まさか、女神様からのお告げがあのようなものだとは思ってもいなかったのでしょう。
王様も王妃様も、驚きました。でも二人とも、聖女を罰したりはしません。賢い王様は、聖女に罪があるわけではないと分かっていたからです。
さて。なにやら不吉な預言を受けたお姫様。
生まれて間もない彼女は何も知ることなく、王妃様の腕の中ですやすやと眠っておりました。
うららかな春の日。
季節の花が咲き乱れる中庭に立てられた、可愛らしい東屋。そこは今、小鳥がさえずっているかのような愛らしい声で満ちていた。
「まあ! ではクリフォード様は遠乗りがお好きですのね」
そう言って愛らしく笑うのは、金の巻き毛にサファイアの目の美少女。
今年で十六歳になった、ここフランセーヌ王国の王女ヘンリエッタである。
国一番の美女になると、生まれた時に宣言された王女。彼女はその預言に違うことなく、美しく賢く、そして心優しい姫君に成長した。
自分の美貌を鼻に掛けることなく、相手の貴賤問わず平等に接し、知識豊富で気品にあふれた王女は、国民たちの誇りである。いつかきっと、すばらしい貴公子に見初められて幸せな結婚をするのだろうと、皆が信じていた。
そんな彼女は現在、絶賛お見合い中である。相手は、大国の第三王子。
王子は東屋で王女の姿を見た瞬間から彼女に心を奪われたようで、熱心に王女を口説いている。王女もにこやかに王子に応え、これならうまくいくのでは――と、お付きの者たちは期待の眼差しで彼らを見つめている。
……だが、「うまくいくかも」と思っているのは何も、全ての人間ではない。
王女の護衛騎士が、隣に立つ侍女をそっと窺う。侍女は騎士の視線を受け、神妙な顔で眉を寄せた。
――今日はまだ、「来て」いないな?
騎士の眼差しが問う。侍女は頷き、主君である王女に視線を戻した。
王女と王子は、楽しそうに話をしている。王子が何か冗談でも言ったのだろう、王女は「まあ!」と声を上げ、くすくすと笑い――
――王女の小鼻が、ひくっと動いた。
とたん、侍女と騎士が動く。
侍女がささっと前に出て、扇を広げて王女の顔を覆い隠してしまう。
「申し訳ありません、クリフォード殿下。ヘンリエッタ様の持病である頭痛の前触れが出ましたわ」
「……え?」
「しばしお待ちを。……ヘンリエッタ様、こちらへ」
ぽかんとする王子を差し置き、侍女が王女を立たせ騎士が目の前にさっと目隠し用の衝立を置いてしまう。このような巨大な衝立を今までどこに隠していたのか、それは企業秘密である。
王子から姿が見えなくなったのを確認し、侍女は問答無用で王女の腰を掴み、ずるずると物陰まで引きずってしまう。待ちかまえていた侍女たちが大きな布を広げ、連れてこられた王女に覆い被せた。
「……さあ、姫様。準備はできましたよ」
侍女が王女に囁くが、当の王女は返事ができる状態ではなかった。
王女を隠した布は最初、ぴくりともしなかった。だが、やがてその布の固まりが小刻みに揺れ、「フンガ……フンガ……」と怪しい声が漏れてくる。
「姫様、我慢なさりませぬように。クリフォード殿下は皆が見張っております」
侍女がそう言って王女を励ました。とたん――
「……ぶえぇっくしょいやぁぁぁぁぁぁぁあああっくしょぉめぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
大地が揺れ、木々が震える。
鳥たちが一斉に飛び立ち、旋風が巻き起こる。
王城の庭園から放たれた爆音は、空を飛び、野を越え、遙か彼方まで響き渡る。
フランセーヌ王国の国民たちは空を見上げ、「ああ、今日も山の神様はお元気でいらっしゃる」とのほほんと言い、遙か彼方の軍事国家の皇帝は、「……今日もまた、地獄の使者が吠えている……」と恐れおののく。
ほぼ全ての人間は、知らない。
大地を震わせるその爆音が、才色兼備で知られる王女様のくしゃみであることなんて。
「リゼぇぇ……今日もだめだったわぁぁぁぁ!」
その日の夕刻。
王女ヘンリエッタは、ベッドに突っ伏してよよよと泣いていた。髪を振り乱し、お茶会の時のままのドレスは皺になっているというのに気品と愛らしさを失うことはない。
「姫様はよく頑張られましたよ。クリフォード殿下は驚きこそすれ、アレが姫様のものだとは気づかれてませんでした」
侍女リゼは主君の髪を撫で、必死に慰めている。
「クリフォード殿下からお手紙を預かっておりますよ。……読まれますか?」
「読みたい……でも、もう一度お会いする勇気がないわ……」
ヘンリエッタは涙で濡れた顔を上げる。目元を真っ赤に腫らした顔も、非常に愛らしい。
「今度こそ、うまくいくと思ったのに。……やっぱり無理なのよ。だってわたくし、お嫁に行けないって預言されたのですもの!」
「それは……」
リゼは言葉に詰まってしまう。
王女ヘンリエッタは、嫁に行けずこの国で一生を終えると預言された。つまり、王女の責務である嫁入りができないのだ。
なぜそんなことに……と、預言を聞いた誰もが思った。だが王女が「あること」をした日、皆はその理由を知るのだった。
「女神様は残酷でいらっしゃるわ! どうしてわたくしのくしゃみは、あんな爆音を立てるの!? 他の皆様は、とてもとても可愛らしいくしゃみをなさるというのに!」
ヘンリエッタは、人生で何度目になるか分からない言葉を嘆く。
そう、ヘンリエッタは点から二物も三物も与えられているが、ひとつだけ――くしゃみの音がとんでもないという欠点を持っていた。
どれくらい酷いかというと、遙か遠くの国までその爆音が聞こえるくらい。それも、どうやらどこまで行っても同じ音量で聞こえるのだという。これはもう、呪い以外の何物でもない。
では、くしゃみが出そうになっても我慢すればいいのではないか? 皆そう思ったが、簡単には解決しない。何を思ったのか、ヘンリエッタの爆音くしゃみは一日に最低でも一度、放出されるのだ。
ヘンリエッタの乳兄弟でもあるリゼは毎日、「姫様くしゃみ記録」ノートを付けているのだが、残念なことに爆弾がいつ投下されるのかは決まっていない。朝一番の時もあれば、夜になってぶっ放される時もある。昼前に一度出たから安心――と思いきや、夕方に二発目が発射されることも。リゼ記録によると、一日の過去最大噴出回数は五回である。
幼い頃からヘンリエッタと共にいるリゼはやがて、ヘンリエッタのくしゃみが出る傾向を見極める能力を身につけた。くしゃみ爆弾の一分ほど前になると、ヘンリエッタの小鼻がひくひく動く。やがてフガフガという音がしたら、発射約十秒前。それまでにヘンリエッタを人目の着かない場所に移動させるのだ。
ヘンリエッタがそんな生活を続けて、早十六年。
「このままじゃ結婚できない……」と、最近ではヘンリエッタ本人も諦めモードである。
結局その日、ヘンリエッタは一日部屋に籠もってしまった。
リゼはため息をつき、ヘンリエッタの夜食を準備する。
ヘンリエッタはすばらしい姫君である。どこに嫁に行っても恥ずかしくないし、誰にでも愛されるという自信もある。
だが――あの爆音くしゃみはどうしようもない。ヘンリエッタもすっかりネガティブになってしまい、「お見合い相手から嫌われる前に距離を置く」という流れになっていたのだ。
「お疲れ、リゼ。姫様は?」
夜食の乗ったカートを運んでいると、声を掛けられた。見ると、護衛騎士のヒースが片手を挙げてやってきているところだった。
リゼは肩を落とし、夜食を手で示す。
「すっかり落ち込まれていて……軽いものでも召し上がっていただけたらと準備したところよ」
「そっか……クリフォード殿下なら大丈夫かと思ったんだけどな」
「殿下ご本人は、姫様を気に入られたみたいよ。あの爆音についても、『工事でもなさっているのですか?』と言われていたし」
「うーん……でも、結婚するとなったら話は別だもんな」
ヒースは眉を垂らし、ぽんぽんとリゼの肩を叩く。
「姫様もそうだけど、リゼもあまり思い詰めるなよ。何かあったら、俺に言ってくれ」
「……分かったわ。それと、今日はサポートありがとう」
「どういたしまして」
「ヘンリエッタを幸せにしよう」という誓いを立てた侍女と騎士は、新たに決意を固めるのであった。
ある日、フランセーヌ王城で夜会が開かれることになった。
ヘンリエッタ王女には五歳年上の兄王子がいる。兄王子が隣国の王女を妻に迎えることになり、そのお披露目をかねた舞踏会である。
ちなみにこの王女はヘンリエッタの爆音くしゃみのことをカミングアウトされているものの、「くしゃみは生理現象ですからね」とあっさりと受け入れた、なかなか柔軟な姫君であった。
王族の国際結婚ということで、多数の来賓が招かれている。国内外問わず様々な貴族、王族たちが招かれ、舞踏会に参加するのだ。
当然、フランセーヌの王女であるヘンリエッタにも参加義務はある。あるのだが――
「……とうとう、今日は一度もくしゃみが出なかったわ」
鏡台の前に座るヘンリエッタは、うつろな声で言う。リゼたちの手によって美しく化粧されていたが、その目はあらぬ方向を彷徨っていた。
舞踏会に出なければならないのなら、せめてそれまでに一度噴出していれば――との願いもむなしく、本日は一度も投下されていない。一日最低一度は噴出するというデータを鑑みると、このままだと舞踏会中に発射する羽目になってしまう。
「どうしよう……さすがに踊っている最中だと、逃げ場がないわよね」
「……左様です」
リゼも唇を噛んで答える。
座っている時なら、リゼやヒースが駆けつければ何とでもなる。だが客とダンスをしている最中だと、タイムリミットである一分以内に避難するのはほぼ不可能だ。今までの夜会などは幸いにも開始前にぶっ放していたため、慌てることもなかったのだが。
今日はまだくしゃみが出ていない。ダンス中に小鼻ヒクヒクが起これば――
「……欠席、なさいますか?」
そっとリゼは問う。
国王たちも、ヘンリエッタの体質を十分理解している。その上で、娘本人がしたいようにと願っている。だからヘンリエッタがどうしても嫌だと言えば、夜会を欠席することも可能だろう。
だがヘンリエッタは青い顔を上げ、ゆっくり首を横に振った。
「……いいえ、お兄様のお披露目パーティーですもの。実妹であるわたくしが欠席すれば、お兄様やお義姉様にもご迷惑をおかけしてしまう。せめて――少しだけでも顔を出さなければならないわ」
「かしこまりました。では、頃合いを見てお部屋に戻ることにいたしましょう」
力強いリゼの言葉に、ヘンリエッタは少しだけ頬をゆるめて笑った。まだ頬は青白いが、微笑みはやはり、女神もかくやというほど美しかった。
計画は、こうだ。
ヘンリエッタはきっかり一時間で、体調不良を理由に退出する。リゼやヒースが影から様子を見、もし一時間以内にくしゃみ爆弾がセットされる傾向があれば駆けつける。
ヘンリエッタ退出後は、すぐさま部屋まで連れて帰って爆発に備える。「くしゃみ中の顔を見られたくない」というヘンリエッタの希望通り、寝室を密閉して爆発の時を待つだけだ。
ある意味賭である。一時間以内にくしゃみが出てしまうなら――廊下から部屋までの道で爆発するなら――その時に誰かに見られたなら――大惨事である。
だが、ヘンリエッタの希望と王女の責務との折衷案がこれである。国王たちの承認も得られたので、あとはうまく事が進むよう願うばかりだ。
本日の客には、年頃の貴公子たちも招かれている。中には、クリフォードのように以前ヘンリエッタと見合いしたことのある者もいるし、会ったことのない者もいる。
ヒースと共に小部屋から会場の様子を窺っていたリゼは、奥のソファ席を占領する一行を見て目を細める。
「……あれって、ガドマール帝国の皇子?」
「そうそう、軍事国家ガドマールのアルベリック殿下。『偏屈皇子』って呼ばれていて、どの夜会に出てもああやってつまらなそうにしていることで有名なんだ」
ヒースが教えてくれた。
アルベリック皇子は艶やかな黒髪に緑の目の美青年だが、なるほど確かに退屈そうにソファに身を沈めており、令嬢たちのダンスの相手をしようともしない。
「あんな態度をなさっているけれど、ガドマールは圧倒的な武力を誇る大国だからね。少々ひねくれた態度を取られても、こっちは何も言えないんだ」
「……そういえば、姫様のお見合い相談も来ていないわね」
「本人は、結婚なんて楽しくない、というお考えだそうだよ。でも、頭は切れるし剣の腕も立つしで、とても優秀なお方なのだとは言われている」
「……そうなのね」
リゼはじっとアルベリック皇子を見つめる。
彼の元に、ヘンリエッタが挨拶に向かっている。一瞬ひやりとしたが、アルベリック皇子は一言二言だけヘンリエッタと言葉を交わした後は、すぐに視線を逸らしてしまった。ヘンリエッタに興味はないようなので、彼にダンスに誘われることはないだろう。
「アルベリック皇子をじっと見ているね。彼が気になる?」
「……そうね。姫様がアルベリック皇子にダンスを申し込まれて、そのタイミングで爆裂されたら――と思うと不安だわ」
「……そう、か。うん、それならいいよ」
「……何のこと?」
こそこそと会話しながらヘンリエッタの動向を見守るリゼとヒース。
そうこうしているうちに、予定の一時間が無事に過ぎていた。
「少し体調が優れないので、部屋に戻ります」と国王たちに挨拶し、ヘンリエッタは無事に会場を抜け出した。
ヘンリエッタの側にはリゼとヒースが着いてくれたので、一気に安心できて微笑む。
「……なんとか一時間を過ごすことができたわ」
「ええ。ご立派です、姫様」
「お部屋まで、俺たちが責任を持ってお送りしますね」
リゼとヒースは子どもの頃から側にいて、ヘンリエッタを守ってくれている。彼らがいてくれるなら、きっと大丈夫だ。
そう思って笑うヘンリエッタだが――
「……ほう、体調不良という割には元気そうだな」
暗がりから響く、青年の声。とっさにリゼはヘンリエッタの背後に回り、ヒースは女性二人を背に庇うように立ちふさがる。
廊下の奥からやってきたのは、漆黒の髪の青年。皇子という身分だというのに供の一人も付けない彼はヘンリエッタたちの前まで来ると足を止め、ふっと馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「侍女や騎士とぺちゃくちゃお喋りする余裕があるとは……仮病か? フランセーヌ王国の王女も、たいしたことはないな」
「……アルベリック殿下。ヘンリエッタ様はお部屋に戻られる途中でございます」
ヒースが慇懃に答えるが、アルベリック皇子はヒースを一瞥するとその背中に隠れるヘンリエッタをじっと見てきた。
「……騎士に言い訳させて、自分は黙りか?」
「殿下、姫様は――」
なんとか冷静に声を絞り出したヒースだが、途中で言葉がとぎれる。
ヘンリエッタに背を向けるヒースには見えなかったが、リゼの「あっ」という声が聞こえたのだ。
……まずい。
今、おそらく自分の背後ではヘンリエッタが小鼻ヒクヒクモードに入っている。
こんなところで、くしゃみ爆発宣言が下されるとは――!
ヒースは必死で、アルベリック皇子を説き伏せる。とにかくヘンリエッタを部屋に送らせてほしいと。
だが皇子は酷薄な笑みを浮かべるだけで、「嫌だと言ったら?」「ヘンリエッタ王女の声をお聞きしたいのだが?」とのらりくらりとかわすのみ。
そうこうしているうちに、例の「フンガ……フンガ……!」が聞こえる。
爆弾投下、十秒前。
だめだ、とヒースは唇を噛む。
このままだと、ヘンリエッタは――国は――!
「殿下! 無礼を承知で申し上げます!」
こうなったら、自分の首が飛んだとしてもフランセーヌ王国を守らなければならない。
「ヒース!」と、ヘンリエッタを抱き寄せるリゼが自分を呼ぶ。だがヒースは一歩前に出て、おもしろがるような表情の皇子に詰め寄った。
「殿下、我が国には何があっても口外できぬことがあり――」
「……ぶるぅぅぅああああああああっくしょおおおおおおおおおおおい!!!!」
爆弾投下。無念。
廊下の窓ガラスがビリビリ振動し、ヒースとリゼの体に一瞬、ぐっと圧力が掛かる。だがそれは、彼らが間近でヘンリエッタのくしゃみを聞くことに慣れているからこの程度で済むだけ。
耐性のないアルベリック皇子の体が吹っ飛び、廊下の壁にだんっと打ち付けられる。
爆音は夜空を駆け、川を越え、山を越え、アルベリック皇子の故郷であるガドマール帝国まで届いた。
寝る支度をしていた皇帝はぎょっとし、「ああ、また地獄の使者が絶叫を……恐ろしや……」とガクブルしていた。
……ああ、やっちまった。
ヘンリエッタ、リゼ、ヒースの心の声が一致する。
ずるり――と、アルベリック皇子が床に頽れる。あまりの出来事に、彼はあの酷薄そうな笑みをかなぐり捨てて、目玉も飛び出さんばかりの表情をしていた。
「……今の、は」
皇子の掠れた声。
リゼからもらったハンカチで鼻をかんだヘンリエッタはごくっと唾を呑み、前に出た。
全ての責任は己が負う覚悟で。
「……殿下、今のは――」
「こ、これがあの、『フランセーヌより来たりし地獄の使者の咆吼』か!? 伝承だと思っていたのに……!」
ヘンリエッタを遮って喋るアルベリック皇子。
だが――様子がおかしい。
顔は真っ青で、体中がわなわなと震えている。
「……そうか、父上のおっしゃるとおりだったのか……地獄の使者の怒りを買っては、我がガドマールは……!」
「……で、殿下?」
「失礼する、ヘンリエッタ王女! ……くっ、すぐさま祈祷師を呼ばねば……フランセーヌに攻め入ろうとすれば、地獄の使者が我が国を焼き尽くし……ううっ!」
ぶつぶつ呟きつつ、アルベリック皇子は足早に去っていく。その後ろ姿に、先ほどまでの威圧感は欠片も見られない。
暫し三人は、呆然としてアルベリック皇子の背中を見つめていた。
「……そういえば」
「……ええ」
「ガドマールは最強の軍事国家ですが、とても迷信深いと……」
「私も聞いたことがあります。とりわけ、地獄の使者というものを恐れていると。ガドマールが軍事力をつけたのは、地獄の使者が来襲した時に応戦できるようにしているから、だとか」
「……そう」
「……助かった、のですね」
「そのようね……」
明くる日。
「うううう……リゼぇ、ヒースぅ……またお見合い失敗よぉぉぉぉ」
「姫様、どうか気を強くお持ちください」
「わたくしは、だめな王女なのよ……きっとそうなのよ……!」
「何をおっしゃいますか! 姫様のおかげでガドマールは大人しくなったのですから、胸を張ってください!」
リゼとヒースが、お見合い帰りのヘンリエッタを慰めていた。
相変わらずヘンリエッタのお見合いはうまくいかないが、あの夜会以降、ガドマール帝国との関係が変わった。
帰国したアルベリック皇子は、「フランセーヌ王国の王女をからかおうとしたら、地獄の使者の怒りを買った」と皇帝に説明したという。もともと迷信深い上、毎日空の彼方から聞こえてくる爆音におびえていた皇帝はすっかり信じてしまい、フランセーヌへの侵略を一切諦めたという。
噂によると、皇帝がフランセーヌ侵略を考えた日に限って、何度も何度も地獄の咆吼が聞こえていたため、もしかしたらフランセーヌを攻撃したらまずいのでは……と前々から思っていたそうだ。
そんな中、皇子の報告である。地獄の使者の報復を恐れる帝国はすっかり大人しくなり、あちこちの国にちょっかいを掛けていたのも今ではなりを潜めているとか。
「ううう……それはそうだけど、わたくしは幸せな結婚をしたいのに……」
「も、もちろんです! わたくしも全力で、姫様の結婚をサポートします!」
「俺たちがこれからも姫様をお守りしますので、ご安心を!」
「リゼ、ヒース……!」
「……あ、小鼻が」
美しき王女様に降りかかった、ゆゆしき問題。
だが、彼らは気づいていない。
聖女がもたらした預言は、「王女はどこの国にも嫁に行くことはない」というものであって、「一生結婚できない」というものではないこと。
そして王女は「あらゆる魔をはね除ける」力を持っており、一生国で暮らすということ。
世界を震撼させる爆音姫が理解ある貴公子を婿に迎え、そのくしゃみでフランセーヌを守っていくことになるとは、まだ誰も知らなかった。