夏風邪
大変です。
ふらふらとした足取りで、神社の社殿の前にやって来た男の人が「ゲホッ、ゴホッゴホッ。」と咳き込み始めました。
「あらあら、どうしたの?お家で寝ていた方がいいんじゃない?」
そうですね、ゆかこさん。この人は顔も赤いです。熱が出ているんじゃないですか?
「子どもがっ。私の風邪がうつって重篤な状態なんです。どうか、助けてやってくださいっ。」
その男の人の中は、悔やむ心と祈りの心でいっぱいでした。
ぶるぶると震える両手で懸命に祈っています。
「まぁ、なんてこと。まだ赤ちゃんじゃないの!」
ゆかこさんには見えるんでしょうか。
「これは大変ね。」
ゆかこさんは、地面を蹴って飛び上がるとものすごいスピードで町の中心地に向かって飛んでいきます。
ゆかこさんが降りて行った建物には、中央病院の文字がありました。
病室に入ったゆかこさんは、赤ちゃんのおでこに手をあててもにゃもにゃもにゃと呪文を唱えます。
そうすると赤ちゃんの身体の中からもやもやとした黒い煙が沸き上がって来ました。
ゆかこさんはポケットから赤いバッグを取り出すと、その中に黒い煙を丁寧に畳んでしまい込みます。
「やれやれ、なんとか間に合ったわ。」
「ほぎゃ、ほんぎゃ、ほんぎゃ。」
赤ちゃんが元気に泣き出しました。ベッドの側で疲れて寝ていたお母さんが慌てて飛び起きます。
「まぁ、声がっ。」
看護士さんとお医者さんも病室の中に駆け込んできました。
「もうこれで安心ね。」
ゆかこさんは、頷いて空にふわりと飛び上がりました。
神社に帰って来ると、男の人の側に行って赤ちゃんと同じようにおでこに手を当てます。
もにゃもにゃもにゃ呪文を唱えると、今度は灰色の煙が男の人の身体から出てきました。
「この風邪はたちの悪い風邪ね。全部仕舞っておきましょう。」
灰色の煙も綺麗に畳まれて赤いバッグの中に入って行きました。
祈りを終えた男の人は、自分の喉に手をやって「あれっ?」と首を傾げています。
「お父さん、これからは気を付けないといけませんよっ。」
ゆかこさんはそう言って、くちなしの実を男の人の上で絞りました。
薄っすらとオレンジ色をした霧が、男の人の身体を包み込みます。
狛犬がもの欲しそうにくぅーんと鳴きました。
ゆかこさんが、めっと狛犬を睨みます。
「まだよ。まだ時期じゃない。」
いったいどういう意味なんでしょうか。
帰って行く男の人の足取りは、さっきよりずっとしっかりしていました。
「あー、疲れたわっ。採りたての茄子で天ぷらでもしましょうか。」
そうですね、ゆかこさん。今日はお疲れさまでした。
田んぼの中で蛙たちもゲコゲコゲコと頷いています。
夏の風邪がバッグの中をガタガタッと揺らしましたよ。
よかった・・・ですよね?