第一章
「もうさ、もう、あつら本当にムカつく。お酒が呑めないののなにがいけないのさ。お酒が呑めないからってバカにしてさ。別に呑めない訳じゃないもん。呑むとすぐ眠くなるだけだもん。」
そう愚痴る沙依に隆生が、それを呑めないっていうんだろとからかうように言った。
「なんつうか、お前本当に変わったな。第二部特殊部隊の連中もだけど。端から見てるとお前らのばたばた劇はまじで笑えるぞ。まぁ、最初は色々あったけど、今じゃお前もすっかり隊長として馴染んで纏まったんだから良かったじゃねぇか。」
そう言う隆生に沙依は不服そうな顔をした。
「全然良くない。あいつらぼこぼこにして内心ぶちまけて、お前ら全員大っ嫌いだって言い放った後さ。あの時、一馬からあいつらの態度が掌返したように変わるぞって言われてたけど。それにしても変わりすぎだから。というか、こんな風に変わるとか想像してなかったよ。確かに一馬の助けもあって締まるところはちゃんと締まってるけどさ、怒鳴り合いすることもしばしばだけどちゃんと指示も入るし、あいつらもちゃんと苦手なことも努力するようになったし、ちゃんと業務回るようになったけどさ。でも、あいつらやたら馴れ馴れしいし、子供扱いされてからかわれるし、なんかバカにされるし、嫌だ。わたし隊長なのに、尊厳もなにもあったもんじゃないからね。」
そうふて腐れる沙依を見て、隆生はお前はガキだからなと言った。
「隊長になったばっかの時に死にかけて以来、お前急にガキになったよな。今まで我慢してたもんぶちまけて開き直ったのかもしれないけど、正直俺もお前の変わりように最初ついていけなかったからな。さすがにもう慣れたけど。」
「そんなに変わった?」
「あぁ、変わった変わった。別人みたいに変わった。そっくりな別人だって言われた方が納得できるくらい変わった。お前が変わったのが死にかけたせいなのか、前世の記憶取り戻したせいなのかはわかんないけど、本当に誰だよお前ってくらい変わった。俺たちの始祖になった最初の六人兄弟の生まれ変わりは、生まれ変わっても記憶が継続するんだっけか?それを長男に封印されてたけどそれが解けて皆記憶を取り戻したって話しだけど、他の五人は記憶取り戻してもそんなに変わらないのに、お前だけは変わりすぎだろ。」
隆生にそう言われて沙依は遠くを見た。
「兄様を説得して色々してさ、しばらくはやっぱ落ち着かなかったけど今は平和になってさ。良かったなって思うんだけど、なんか変な気分。違和感が拭えないというか、何というか。なんか今の生活がしっくりこないんだ。」
そう言う沙依に、隆生がついこないだまで戦争ばっかしてたのにすっかり平和になったからなと言って、沙依はわたしのはそういうのじゃないんだけどさと思った。第二部特殊部隊の隊長に就任したばかりの頃に沙依は出兵して死にかけて、意識のない間、自身の能力で遠い未来の可能性を自分が実際に体験したような感覚で視ていた。あまりにもその時視たものが鮮明すぎて、それと現在との違いに今でも沙依は違和感が拭えないのだ。もう絶対に来ることがない未来。その未来を変えるために自分で決断し、行動して、望んで手に入れたはずの今の生活は、確かに平和だが多くのしこりを抱えているように思えた。自分が視た未来では人間とターチェの間に起きた大きな戦争でターチェが絶滅しかけ、この国も一度滅ぶことになった。それを乗り越え、国が復興され平和になった未来は、同じ戦争がない世界でも今とは色々と条件が違う。ほとんどの国が滅び、ターチェの数が激減し、復興された国があったとしてもそのどれもが外界との接触を避け深く隠れるようになった未来と、それらがなく全く今まで通りにもかかわらず戦争が起こされる理由がなくなったから戦争がほとんど無くなった今ではだいぶ違う。人間とのあの戦争を乗り越えたからこそ起きた人々の心境の変化や成長もなければ、あの戦争の引き金となった出来事の産物で生まれた人々と出会うことももうない。あの戦争を回避したことは、その先にあった幸せな未来を知っている沙依にとって良いことばかりではなかった。もう来ることのない未来などいくら鮮明に記憶していたところでそのうち忘れ、ただの夢と変わらなくなるのかもしれない。でも、今はまだそれに対する未練が拭いきれなくて沙依は時折切なくなった。
ターチェの始祖となった最初の六人兄弟。その六人は地上の神である父親殺しの罪を背負い、何度生まれ変わっても殺され続ける運命を強いられた。その六人を表す言葉がコーリャン。最初の兄弟を表す言葉だったはずのその言葉は、ある一定以上の力をもった子供の総称となり、最初の兄弟だけが殺され続けるはずの運命は、多くの子供達が殺される風習に変わった。そんな中、コーリャン狩りの風習を撤回し、コーリャンの受け入れをするようになったこの国、龍籠は、それを理由に他の国から狙われ続ける事になり、そしてずっと戦争を続けていた。
そんな戦争続きの日常が変わったのはほんの数年前のこと。最初の兄弟の魂を継ぐ者達の手で、地上を手に入れようとしていた天上の者が倒されたことでのことだった。地上を手に入れようと地上の神を狂わせ、兄弟達が父から譲り受けた地上を治めるための能力を奪いとろうとしていた天上の者が倒され、その脅威が去った時、最初の兄弟の長兄が持つ精神支配の能力により、全ては地上を我が物としようとしたその天上の者の仕業だったのだと、もう脅威は去ったのだと、コーリャン狩りの正当性はないのだと、ターチェ全体の意識に拡散された。その後しばらくは事後処理に落ち着かない日々が続いたが、その混乱も去りようやく平和な日々が訪れた。しかし、長兄の精神支配でも人の想いまでは縛れない、永く染みついた風習による偏見や差別の意識も、それによって生み出された憎しみや苦しみも、その全てを完全に拭い去ることはできず、今でもそれは人々の中にしこりとなって残っていた。
「そういや最近、成得の奴を仕事以外で見かけないな。前はあんなにお前に付きまとってたのに、さすがのあいつもあれだけ付きまとって胸や尻を散々揉んでた相手が前世で妹だったって思い出して、顔合わせ辛くなったか?」
隆生のその言葉を聞いて沙依はなんとも言えない顔をした。
「ねぇ、隆生。好きな人ができたとしてだよ、その人と恋人になるためにはどうやって距離を縮めれば良いのかな?そもそもさ、どうやって関係って変わるの?」
沙依の急な問題提起に隆生は怪訝な顔をしてはぁ?と声を上げた。
「なんで俺にそれ訊くんだよ。知らねぇよそんなもの。」
「だって、隆生モテるじゃん。いろんな女の子に告白されてるけど、付き合ったりそうじゃなかったりしてるしさ、その違いって何かなって気になったんだよ。あといつも彼女できても長続きしないけどどうしてかなとか。」
そう言う沙依に隆生は、何だよ急にと毒吐いた。
「どうして長続きしないのかとか俺の方が知りたいわ。あっちが好きだって言ってきて付き合って、他の女といるのが嫌だとか言うから、恋人いる間はお前と訓練所で手合わせするのもこうして茶するのも止めたりとかしてんのにさ、お前とつるまなくても非番の日に訓練所行くなとか、あれがやだこれがやだ、ああしろこうしろ、どうしてこうしてくれないんだとか言われて結局最後はフラれるんだぜ。マジ、女って訳わかんないし、面倒臭い。」
「じゃあなんで懲りずに恋人作るの?」
「そりゃ俺だってそういう相手が欲しくない訳じゃないし、いいなって思うから付き合うんだろうが。見た目が好みならよく知らない奴でも大丈夫って奴もいるけど、俺の場合は全然知らない奴とかは無理。でも、こいつなら大丈夫かなとか思っても結局、付き合い出すとそんな感じだからな。本当、女の考えてる事って訳がわからない。」
そう言って、どうしてお前とこんな話ししなきゃいけないんだよと不機嫌そうにする隆生に、沙依はわたしの交友関係の狭さ知ってるくせにとふて腐れた。
「わたしだってさ、今までそういう相手作った事がないだけで、そういうことに興味がないわけじゃないんだよ。そういう相手が欲しいなとか思わなくもないわけでさ。でもさ、シュンちゃんにそんなこと言ったら、嬉々としてどうしてそんな気になったのかとか根掘り葉掘り訊かれた挙げ句、せっかくそんな気が起きてきたなら女の子らしくしなくちゃねとか言って着せ替え人形にされて化粧とかさせられて振り回されるのが目に見えてるし。シュンちゃんがダメなら隆生以外にこんな話しができる相手、わたしにいるわけないじゃん。沙衣もコーエーも絶対頼りにならないからね。行徳さんはわかんないけど、父親にそういう話しするっていうのはさ、やっぱ、ちょっと気が引けるじゃん。」
そう言う沙依を見て隆生は目を細めた。
「何お前、もしかして好きな奴でもできたのか?男おとすつもりなら、普段色気のかけらもなにもないんだから、本当に春李に任せて少しは女らしくしてもらった方がいいんじゃないか?」
そう言われて沙依は顔が熱くなった。
「うるさいな。どうせわたしは沙衣と違って女らしさのかけらもないよ。見た目はそっくりなのになって言われて残念なもの見る目で見られるのもしばしばだけどさ。沙衣みたいに料理が上手で手先が器用で裁縫上手でって訳じゃないし。がさつだし、筋肉質だし・・・。」
そんなことをぶつぶつ言いながら沙依は机に突っ伏した。
「やっぱちょっとは女の子らしくする努力しなきゃなのかな?でもさ、子供の頃からずっと軍人やってこうしてきてさ、今更恥じらいとか淑やかさ身につけろとか無理だから。女の子らしい格好は少しぐらい頑張ってもいいかもしれないけど。でも、わたしに女らしさとか求めても無理だから。」
そう言っていじける沙依に隆生は、元々見た目はいいんだし多少努力すればお前なら大抵の男落とせるんじゃねぇか?と言って、ふと思い出したように、お前の場合お前自身よりお前の後ろにいる怖い叔父さんをなんとかしないと恋人とか作れなさそうだなと言った。
「急に色気付きやがって、お前がそんな風になる相手って誰だよ。」
そう訊いてくる隆生に沙依は教えないと言った。
「隆生に教えたら絶対にからかわれるもん。」
「つまり好きな奴ができたって事は認めるんだな。」
そう言って、お前が恋ねぇとニヤニヤしながら見下ろしてくる隆生を睨めつけて沙依はその顔なんか嫌だと呟いた。
○ ○
沙依は自室で横になってぼーっと天上を見上げていた。
「お前は嘘をつき続けて本当のことを隠し通す覚悟を決めろ。大好きな父親を殺す決断をしたことも、大好きな兄姉に嘘をついて罪を犯させることも全部、お前の罪は俺も一緒に背負ってやるから。」
自分の頭を撫でてそう言った成得の姿を思い出して沙依は苦しくなった。
世間では全ての元凶は天上の人になった。でも本当は違う。天上の人は確かに地上を手に入れるために地上の神を人の領域に堕とし狂わせ、その子供達から地上を治める術を奪おうとはした。でも、コーリャン狩りの風習ができて多くのターチェが苦しむこととなったのは、最初の兄弟の長兄と末妹が諍いを続けた結果だ。そして世間には隠されているが、天上の人と一緒に、人の領域に堕とされた地上の神もこの世界から消し去られた。地上を手に入れたかった天上の人に地上の神を捧げ、神の孤独に苛まされた地上の神に天上の人を捧げ、混じり合った二人の存在をこの世界から消し去った。地上の神殺しを企てたのは末妹であった沙依。長兄と末妹の罪を全て天上の人になすりつけることを考えたのは次兄であった成得。そしてそれらを人々に信じ込ませて仕上げたのは長兄だった行徳だった。他の兄弟は本当のことは何も知らない。世間の人と同じ認識しか持っていない。世間の人と違うのは、騙されて父を手にかけさせられたということだけ。そんなことを考えて、沙依は成得の顔を思い出した。
「余計なことは考えるなよ。お前が何をどう思ったって、お前が俺を頼りに来た時点で俺は共犯だ。だから昔みたいに素直に甘えて、ありがとう、次兄様大好きって言って笑っとけ。それだけで俺は充分だからさ。」
そう言って笑った成得の顔が頭の中に浮かんで、沙依は胸が締め付けられた。
あの件が片付いてから成得と私的な場所で会っていない。仕事上では事務的な話しかしていない。以前のように彼が自分に抱きついてくることも、あの時のように頭を撫でて優しく笑いかけてくれることもない。それどころか今は以前よりもずっと彼との間に距離ができてしまったと感じて、沙依はなんとも言えない感情に支配された。彼が以前のように自分に接してこなくても自分が彼に特別な感情を持っていなかったなら、きっと自分から彼に接しに行けたのだと思う。自分が彼を男の人として意識してさえいなければ、ただの大好きな次兄だと思っていたならば。そんなことを考えて沙依は俯せになって布団に顔を埋めた。
ナル。わたしは次兄様じゃなくてナルが好き。だからナルを次兄様とは思えないし、ナルに次兄様大好きとは言えない。でもナルへの好きは次兄様への好きとは違うから、素直に言葉にできないし、気軽に触れに行くことができない。
自分の能力で遠い未来の可能性を実体験したように視た沙依は、その未来を回避するための協力を求めるために成得の元を訪ねた。その時、彼を愛おしいと思う衝動に駆られ、彼に大好きと伝え彼の唇を奪ってしまった。そのことはその後のドタバタでうやむやになったが、あんなことはもうできない。そもそもあの時の衝動は、自分が視た未来の可能性の中で自分が彼に抱いていた想いにつられて起こったものだと沙依は思う。もう来ることのない遠い未来で、沙依と成得は恋人同士で、仲睦まじく過ごしていた。自分が視た未来の彼と今の彼が違うという事は解っている。だから今の彼が自分をあんな風に特別には想っていないことは理解している。でも、実際に彼を頼って、彼に助けられて、彼の本質は変わらないと沙依は思った。本当は色々と思うところはあるはずなのに自分の感情は押し込めて皆のために立つ彼を見て、その背中を支えたいと思った。彼の傍にいたいと、そう思った。不安に押しつぶされそうになっていた自分を彼が支えてくれた。一緒に罪を背負ってくれると言ってくれた。どんなに冷酷非道を取り繕っていても、本当はとても優しくて本当に頼もしいというのは変わらないと思う。だから今自分が抱いている彼への想いは、今の自分自身の想いだと沙依は確信していた。
「ナル。大好き。」
そう呟いて、沙依は自分の布団を抱きしめた。ここのところ避けられているのは解っているが、どうして避けられているのか解らなかった。その理由が隆生が言っていたようなものだったらいいと思うが、きっと違うと思う。今のナルは完全にわたしを拒絶している。仕事上で会った時の彼を思い出して沙依はそう思った。
「あの人は自分に気のある女に手は出しませんよ。」
そう声がして沙依は心臓が止まるかと思った。
「自室とはいえ気を抜きすぎではありませんか?まぁ、あの双子が住むこの家に悪意を持って侵入するなんて命知らずはこの国にはいないでしょうが。」
いつの間にか部屋にいた楓が無表情で淡々とそう言ってきて沙依は固まった。
「昔から散々付きまとわれてあれだけ性的嫌がらせを受け続け、あなたはずっとうちの隊長のことを避けていたと思っていたのですが。そんなあなたがいったいいつからあの人にそんな感情を抱くようになったのですかね。」
淡々と楓にそう言われ、沙依は顔が一気に熱くなった。
「あら、ずいぶんとかわいらしい反応をするんですね。そんなにあの人のことが好きなら、あの人のこと教えてあげましょうか?」
沙依を真っ直ぐ見つめながら楓はそう言って、返事を待たずに言葉を続けた。
「あの人は特定の相手は作りませんよ。どっかの女好きと違って、自分に好意を寄せる女の気持ちにつけ込んでしたい放題するような真似もしませんし、あの人が抱くのは完全に割り切った関係がもてる相手だけです。誰かに好意を寄せられても、自分に好意を寄せていると感じた時点でその人物と距離をとり、それでもと迫ってくる相手のことは容赦なく拒絶するんです。自分だけは特別だとか、自分ならどうにかできるなんて考えは捨てた方が賢明ですよ。普段が普段ですから、根がお人好しでお節介なあの人の甘さを勘違いして、あの人に好意を寄せて泣いた者は案外多いんです。」
そう言われて沙依は、自分が特別とか自分ならとかは思ってないけどさ、と呟いた。
「ナルがわたしを特別だと思ってるとしたら妹としてだと思うし。優しくしてくれたのだって、助けてくれたのだって、わたしが妹だったからだって解ってる。避けられてるのも解ってるし、だから勘違いなんてしないけどさ。でも、それでもわたしはナルのことが好きなんだ。」
そうやって感じていたことを口に出してみて、沙依は泣きたくなった。そんな沙依を一瞥して楓は、ずいぶんと本気であの人に想いを寄せているのですねと言った。
「青木沙依。あなたはどうしてあの人があんな風になったのか知りたいですか?」
そう言って楓は沙依の耳元に唇を寄せると、知りたかったら明日ここに指定された時間に指定された場所に来てくださいと言って手にメモを握らせた。
楓が部屋からいなくなると沙依は渡されたメモを開いてそれを呆然と眺めた。
○ ○
「青木沙依、こちらですよ。」
楓の声がして沙依はその方を向き、彼女に促されるままついて行った。人混みから離れ、路地裏をぐるぐると回り、寂れた建物に入って、その奥まった場所にある一室へ入っていく。
「こんな所まで無警戒にほいほい付いてくるなんて君は本当に軽率だね。その軽率さは今までずっと青木高英に過保護にされてきたからなのかな?彼の加護がない今でも自分が安全だなんて思っているの?バカだね。いくら内部の者であっても僕たちが安全であるなんて保証は何もないのにさ。」
室内にいた裕次郎にそう声を掛けられて沙依は驚いた。楓と肩を並べ情報司令部隊の副隊長を務めているこの人物は口がきけなかったはずだった。声が出ないわけではない。ただ会話をしない。完全記憶能力を保有し、情報司令部隊に集められた全ての情報の予備保管庫の役割を担っている彼は、いつも表情が乏しく保管された情報しか口にしないことから歩く図書館と揶揄されていた。
「僕が話していることが不思議?僕だってただのお飾りで副隊長をしている訳じゃないんだ。僕が話せないふりをしているのも、こうやって子供の姿をしているのもその方が都合がいいだけだよ。本当は姿だって大人の男になれる。試してみる?」
そう言う裕次郎に詰め寄られ、沙依は動じず彼を真っ直ぐ見つめた。所属する全員が諜報員としての側面を持っている情報司令部隊の隊員が、普段から人を欺いているというのは何ら不思議でもなんでもなかった。しかし、そうやって常に人を欺いていた彼が普通に会話をしてくる意味が沙依には解らなかった。
暫くそのまま見つめ合っていると、裕次郎はあからさまなため息をついた。
「僕には君という人が良く解らないよ。この状況で全く警戒しないことも、僕らに一切の不信感を持っていないことも僕には理解できない。正直、どうしてここに来たのかすら解らない。」
そう言われて沙依は、二人にわたしに対する害意はないからと言った。
「普段隠してる秘密を暴露してくる意味は解らないし、何かは企んでいるのかもしれないけど、それはどうでもいいよ。わたしはナルのことが知りたかったから来た、ただそれだけ。」
そう言う沙依を見て、楓と裕次郎は互いに目配せをしあった。
「では用件を率直に言わせていただきますが、もううちの隊長に関わらないでください。あなたに好意を持ってあの人に接近されると迷惑です。先日も言いましたが、あの人はそんな相手は求めていません。ですが、どんなに繕っても無下にできない存在であるあなたに近づかれてはあの人の均衡が崩れてしまいます。」
「あの人はずっと昔からぎりぎりの所でなんとか精神の均衡を保って生きてきた。あの人が選んだ結果とはいえ、あの人がずっと苦悩して、奮闘して、色々なものを切り捨てて自分を壊しながらも成すことができなかったことを、いとも簡単に青木行徳がやってのけてしまったせいで、今のあの人は自分の存在意義を見失ってしまったんだ。平和になって暇が多いせいで余計なことを沢山考えるようになって、余計なことが色々見えてしまって、あの人は今、本当に酷い状態だ。これ以上あの人の心の安定を崩されたくない。そもそも青木行徳と君が諍いなんか続けなければあの人はあんな風にならなかった。君がおとなしく長兄を父親の贄に差し出すか、青木行徳が末妹を父親の贄に差し出していればこんなことにはならなかったんだ。僕は正直、君たちが憎い。あの人の苦しみを何も知らないくせに、あの人に君の感情を押しつけるようなまねは絶対にするな。もし君が余計なことをしてこれ以上あの人を苦しめるのなら、それであの人に何かあったら、僕は君を許さない。」
「わたしも裕次郎と同じような気持ちです。ですが、何も知らないのにはいそうですかとはいかないことも承知しています。ですのでわたし達の知っている全てを教えましょう。これを聞いたらもう二度とうちの隊長に近づかないでください。余計なことをされてうちの隊長を追い詰められて再起不能にされては迷惑です。あの人はうちの部隊に必要不可決な人です。あの人の代わりが勤まるような人はいませんから。」
感情の読み取れない表情と声音でそう話す二人を見て沙依は何も言わなかった。成得ともう関わらないなどという約束もしなかった。そんなことを約束はできなかった。
「あの人がコーリャン狩りから逃れてこの国に来たのは、この国がコーリャン狩りを廃止しそれが浸透して落ち着いてきた頃だった。その頃のこの国は、コーリャン狩りが廃止されたとはいえ今とは比べものにならないくらいコーリャンに対しての偏見や差別が酷かった。そんな中、コーリャンであるあの人を養子にしたのは、この国のコーリャン狩り廃止運動の中心人物で、実際にコーリャン狩りの廃止を成し遂げた児島一寿だった。彼は当時の情報司令部隊の隊長を務めていた人物で、あの人はそんな一寿の元で育ち、彼の夢であった誰もが普通に暮らせる社会を同じように夢見た。そしてそれを実現させるために一寿から英才教育を受け、奮闘した。若い頃のあの人はそれはもう必死だったよ。国内で酷い扱いを受けていたコーリャンと認定された子供達を集めて、心身共にずたぼろになってた彼らと一緒に生活をして、面倒を見て、自傷他害行為に走ったりいろんなものへの依存症になったりした人に付き添って、支えて、差別を無くそうと周囲に働きかけて。あの人自身差別や偏見で酷い目に遭ってたっていうのにさ。僕らの前ではいつだって笑ってた。今みたいな人を見下して小馬鹿にしたようなあんな笑い方じゃなくて、相手に安心感を与えるような暖かい笑い方をいつもしてた。」
そう言って裕次郎は酷く懐かしそうな顔をした。
「僕はコーリャン狩りが廃止されてまもなくのこの国で生まれたコーリャンだった。コーリャンと認定された七歳の時、今まで普通に優しかった周りの大人の態度が変わって、急に罵詈雑言を浴びせられて、暴力を受けるようになって。最終的に家の奥に監禁されていなかったことにされた。何年か何百年か解らないけど、僕はずっと一歩も外に出られず、何かをすることも言葉を発することも許されず過ごして、結果、成長は止まり言葉を失った。あの人が千里眼で見つけ出して助けてくれたとき、僕は本当にこの姿から変われず話すことができなくなってたんだ。そんな僕にあの人はずっと寄り添ってくれた。僕は自分の能力のせいで忘れるということができないから、感情が動くようになってきた時は本当に酷いものだったよ。大暴れしたし、何度死のうとしたかも解らない。あの人に依存しきって、あの人が他の子供にとられるのが嫌で、色々したりもした。でも、あの人は優しかったけど、僕だけが特別という訳ではなかった。あの人は誰かだけを特別にはしなかった。誰であっても、他の子供を傷つけることを許さなかった。皆に同じように優しくて、皆を同じように大切にしてるんだなって解ったとき、僕はあの人の気を引こうと色々やって困らせるのは止めようと思った。あの人の手伝いがしたいと思うようになった。それでもこの姿のまま、話せるようになっても話せないフリをし続けていたのは、最初はあの人の気を引くためだったんだ。そうしていればあの人が気に掛けてくれるからそうしてた。問題行動を止めた後もそれだけは続けていたのは、それを止めたらあの人との繋がりがなくなってしまうような気がして怖かったからだった。あの人から離れたくなかったから、ずっとそんな演技を続けていた。いつかは止めなくてはと思いつつ、踏ん切りが付かなくて続けているうちに止めるわけにはいかなくなって、こうして今でも続けている。僕が問題行動を起こさなくなって、あの人の手伝いをするようになって、あの人はとても喜んで褒めてくれた。僕はそれが嬉しかった。だから、もっと役に立ちたいと思って、僕は志願して情報司令部隊に入隊し、あの人の部下になった。あの人は僕にとって父親のような存在なんだ。」
「わたしは元々他国の間者でした。わたしはコーリャンと認定されるほどの力は持っていませんでしたが、一般に受け入れられるには強すぎる能力を持った子供でした。そのため、わたしは対コーリャン狩りの道具として英才教育を受け、人格を否定され、ただ道具であることのみを求められ、その思想を刷り込まれて育てられました。そして大昔、わたしは偵察の指令を受けこの国に潜入、潜伏していました。そして、ただ泳がされていただけとも知らず深入りしすぎて殺されかけ、命からがら脱出し、通信役の元に手に入れた情報を届けました。そしてもう使い物にならないと判断されたわたしは見限られ、通信役に処分されそうになり、そこをあの人に助けられました。当時のわたしは本当に未熟でバカだったので、わざと逃がされたなんて気づかず、まんまとあの人を通信役の所まで案内してしまったんですよ。わたしを助けたあの人は、わたしに自分の道具になれと言いました。どうせあいつらにはもういらないんだろ、なら俺の道具になれよって。俺は自分の物は大切にするから、あいつらみたいに使い捨てには絶対しないぞ。道具だって大切に扱えば長持ちするし、使い勝手も良くなる。同じ道具でも換えのきく使い捨ての道具よか、大切に扱われて末永く使ってもらえる一品物の道具の方がいいだろ?って、そんなことを言われて懐柔され、わたしはこの国に亡命してあの人の部下になり、あの人の監視下に置かれました。あの人は本当に自分の物を大切にする人ですから、約束通りわたしのことも大切にしてくれました。より優秀でより有能な誰よりも役に立つあの人の道具でありたいと思い、そうやってここで過ごすうちわたしは人格を取り戻し、道具から人になることができました。わたしは裕次郎ほど激しい何かはしませんでしたが、あの人の唯一無二の道具でありたいがために他を排除しようとしたり、優秀さを証明するためにあの人を殺そうとしてみたり等、あの人がわたしを庇って、うまく誘導してくれなかったら確実に粛清されていたであろうことをだいぶしましたね。本当に昔の自分はバカだったと思います。あの人はわたしにとって命の恩人であり、最も敬愛する人です。」
「昔のあの人はそうやって国内外問わず自分の手が届くところ全てに手を差し伸べて、自分の手元に置いて、ちゃんと心が動くようになるように、ちゃんと自分で生きていけるようになるように、助け、支え、育ててくれた。そうやって多くの人があの人の元で育って、あの人の元を巣立って行った。それでも僕のように問題の根が深くていつまでたってもあの人の傍を離れられない人も少なくなかった。あの頃はあの頃で幸せだった。大家族みたいで、皆でわいわいして、色々あったけど、僕はあの生活が好きだった。」
そこまで言うと裕次郎は辛そうな顔をした。
「でも、あの人がどんなに助けようとしてもダメな人はダメだった。あの人が手を差し伸べた時には既に手遅れだった人は、医療部隊に強制入院の名の下回収され、医療研究の人体実験の対象になって命を落とした。あの人の傍は本当に居心地が良かったから。あの人の所にいると、自分達が憎悪の対象で差別され攻撃されるなんていう事実を忘れられるぐらい幸せだったから、大丈夫になって去って行ったはずの人が、外での偏見や差別に耐えられずまた狂ったり、自分から命を落としてしまったり、本当に色々な事があったよ。そんな現実を目の当たりにして、あの人はより自分の目指す社会作りに専念していった。一方で、自分の手元に置いた子供達に情報司令部隊で必要な技術を教え込むようになって、皆自分の部下にして自分の庇護下に置くようになった。あの人はそれは厳しく指導し、くどいぐらい徹底的に規律を教え込んで、心を鬼にしてあたってたのに。最初はちゃんとしてた皆も次第に慣れて、これくらい大丈夫って気が緩むようになって、あの人がいくら言っても軽い気持ちであの人の言葉を受け流して、作戦で命を落とす人がでて・・・。」
そこで言葉を詰まらす裕次郎を一瞥し、楓が言葉を継いだ。
「そうした中、あの人が甘いから勘違いして一線を越えたバカが出て、あの人はその責任をとって自分の手でその人物を粛清しました。その結果、多くのどうしようもないバカ共が荒れて、それまで散々あの人に頼ってあの人に助けられてきたくせに、あの人に罵詈雑言を浴びせ、あの人の元を去って行きました。そして更にとんでもないバカがいるもので、そんな事があって憔悴しきったあの人を見て、もうあの人が部下を殺すことはないだろうなんて勘違いをして、軽い気持ちで一線を越えて、あの人はまた自分の部下を殺して、周囲から酷い誹謗中傷を受けました。そんなことを繰り返すうちにあの人はどんどんすり減っていって、胸の内をはき出さなくなっていって、人から距離をとるようになり、人と深く関わることをやめ、あんな風にいつも人を見下して小馬鹿にしたような笑い方をするようになりました。そうやって人を近づけさせないことであの人は相手と自分自身を護るようになっていった。誰に何と言われようと、誰にも理解されなくても、どんな酷い扱いを受けたって、それでもあの人は理想を諦めずずっと奮闘し続けていました。あの人はいつだってより多くの者を助けるために足掻いていました。そんなあの人を支えていたのはやはり養父である児島一寿だったと思います。彼はずっとそんなあの人を見守り、時に助言し助け、あの人と共に理想の実現を目指していた。そう思っていました。」
「僕は児島一寿は理想郷の実現を目指していたと思うよ。だからこそコーリャン狩りの廃止が可決され実行された後もそれに異を唱え、コーリャンへの差別偏見を増長させるようなことを続けていた、国内のコーリャンに対する差別主義の中心人物であった当時の青木家当主、青木源柳齋を殺害し、そして自身をあの人に殺させたんじゃないかと思ってる。彼はそうすることであの人の前に大きく立ちはだかるであろう存在を排除し、かつあの人を完全に退けない所にわざと追い込んだんじゃないかな。あの件があって以来、あの人は誰かと深く関わることを完全に拒絶するようになって、大切なものを作らないように、自分が固着してしまうような何かを作らないようになった。ずっとあの人の傍にいて、何があってもあの人の傍に残り続けていた僕たちでさえも拒絶しそうになったあの人を繋ぎ止めるために、僕は成長が止まり話せない状態のままのふりを続け、彼女はあの人の道具であり続けることに固着しているふりをし続けるようになった。そうすることで、まだ僕達にはあの人が必要なんだとあの人に信じさせた。最後に残った僕達まで失いたくないというあの人の気持ちを失わせないようにして、独りになりたくないというあの人の想いを失わせないようにして、あの人の心が完全に孤独に塗りつぶされて壊れてしまわないように、僕たちは今でもあの人のかわいそうな子供達を続けている。」
裕次郎がそう言い終えると、少し間を開けて楓が言葉を紡いだ。
「この国の中心となる役割を持った家系が、血縁関係が残っているかどうかはともかく最初の兄弟が築いた家庭の延長線にあることはご存じですね。ですが、その家系は青木、山邉、正蔵の三つ。六人兄弟のうち四男と末妹は未婚で家庭を持っていなかったとはいえ、どうして中心となる家系が四つではなく三つしかないと思いますか?」
そう問われても沙依には解らなかった。青木は兄様の家庭。青木は元々地上の神を祀っていた神官の家で神と人間を繋ぐ役割を持っており、その娘は生まれた時から長兄の許嫁として育てられ娘の成人と共に二人は結婚した。山邉は三兄様の家庭。最初から結婚相手が決まっていた兄様と違って、三兄様は自由恋愛の末、神官を護る役割を担った近衛兵の家の娘と結婚した。そして正蔵は姉様の家庭。姉様は幼馴染みの医者の家の男性と結婚した。そう考えて、沙依は次兄様の家庭がないと思った。次兄様はある日突然家を出て行って、それから戻ってこなくなった。結婚するときに一度、結婚相手を連れてきたことがあったようだが自分は会っていない。会ってはいないが、次兄様も結婚して家庭を持っていたはずだ。なのに、どうして次兄様の家庭だけ残っていないの?そんなことを考えて沙依は嫌な予感がした。
「一つの家庭は最初の兄弟の魂に罰を与え続ける事に最初から反対し、抵抗を続け、最終的に粛清されました。結婚して家を出ていたその家の娘もまたその思想を持っていたという事で粛清され、その家は根絶されました。ようはその一家はコーリャン狩りに反対するとこうなるという見せしめに使われたんですよ。そこまで徹底的にコーリャン狩りの思想を浸透させ、恐怖を持って異を唱えさせないようにしたのが青木家です。そして、根絶されたその家と繋がりがあるにも関わらず何故か見逃された娘の配偶者、その人物の姓が児島。あの人の養父、児島一寿の先祖に当たる人物です。」
そう言って楓は沙依を一瞥した。
「理解できましたか?今あなたの頭の中で繋がったことが、あなたと同じように前世の記憶を取り戻したあの人の中でも繋がっているということです。今のあの人は本当にぎりぎりの所でなんとか留まっている状態です。今のあの人に余計な感情に振り回される余裕なんてありません。解ったならもう二度とうちの隊長に近づかないでください。」
そう言うと楓は扉を開け沙依に出て行くように促した。神妙な顔をしていた沙依が黙ったまま出て行くのを見送って、楓は扉を閉めた。
「これで本当に大丈夫かな?」
そう言う裕次郎に楓は、さぁ?と言って肩をすくめて見せた。
「青木沙依はもうあの人に近づかないと明言しませんでしたから、色々考えた上で接触するんじゃないですか?」
「彼女は上手くやってくれるだろうか?」
「どうでしょうね。あなたもよく解っているでしょ?結局周りが何をしようと最終的にはあの人が自分で這い上がるしかない。助かるかどうかはあの人次第です。」
「彼女が上手く動いてくれたとして、邪魔が入らなければいいけど。」
「青木高英の方は青木行徳が抑えてくれます。わたし達では青木高英をなんとかできない以上、今は青木行徳を信じるしかないでしょう。今のあの人が心を許すとしたら、その相手として考えられるのは彼女しかいない。ですので何が何でも彼女には働いてもらわないといけません。悔しいですが、もうわたし達ではあの人を支えきれませんから。」
そう言う楓の手を裕次郎は握った。
「別にわたしは不安など抱いていません。勘違いしないでください。」
いつも通りの無表情で無機質な声でそう言う楓に、裕次郎は僕が不安なんだと言った。
「君が言う通りもう僕らじゃもうあの人は支えられない。僕たちだけは絶対にあの人を裏切らない。僕たちだけは絶対にあの人の傍にいて、もしもの時は僕たちがあの人を殺すんだってそう誓ったね。そう誓ってずっと僕たちはあの人が望むかわいそうな子供達のままでいた。心に傷を抱えたままの、あの人がいなくては生きていけない子供達のままでい続けた。でも、もうそれだけじゃどうにもできない。」
そう言うと裕次郎は俯いて、僕は青木行徳が憎いと絞り出すように言って、楓の手を握った手に力を入れた。
「あいつのせいであの人はあんな風になった。あいつのせいであの人は。あいつの能力が効かなくなるほどあの人の心に深い傷を負わせて、あの人をあんな風に壊したのはあいつだろ。何が想いまでは縛れないだ。精神支配なんて反則的な能力をもってるんだから、なんとかしろよ。なんとかしてみせろよ。」
「わたしも青木行徳が憎いですよ。ですが、どれだけ彼を恨もうと、現状を嘆こうと意味はありません。彼は今彼ができる最大限の協力をしてくれています。彼がいなくては彼と同じ能力を持った青木高英を抑えることはできません。青木高英を抑えられなければ青木沙依をこちらに協力させることもできません。今は耐えてください。」
そう言って楓は裕次郎の手を握り返した。
「そもそもわたし達がかわいそうな子供のふりを続けるのにも限界があったんです。あの人は本当はとっくにわたし達がもう大丈夫だと気がついている。でも、自分を守るために気づかないふりをし続けていただけですよ。本当にわたし達にまだ自分が必要だと思っていたのなら、あの人が崩れるわけがない。わたし達があの人に守られなくても大丈夫だと本当は気がついているから耐えられなくなってしまったんです。それに、あの人が望んだような平和が訪れてしまったから、自分がすべきことを見失ってしまったんでしょ。結局、記憶が戻ったのはただのきっかけで、言い訳をして立ち続けていること自体に限界が来たんですよ。全く、平和というものも手放しに喜ぶことができないものですね。」
そう言って楓は遠くを見た。
「今の情報司令部隊はほぼあの人が拾って育てた人材で構成されていますが、あの人がああなる前に拾った者であの人の傍に残ったのは、もうわたしとあなただけですからね。きっとわたし達はあの人の過ちの象徴。助けられなかった全ての者の象徴。今のあの人にはわたし達の存在は重いのかもしれません。結局、わたし達ではあの人を支えられなし、助けることなんてできないんですよ。わたし達はあの人を支えていたんじゃない。ただあの人を突き動かし続けるための動力でしかなかった。あの人の目にはわたし達なんてちゃんと見えていないし、そもそもあの人は見ようとすらしていないんですから。本当に困ったものです。まったく、医療部隊での治療を受け入れてくれればとも思いますが、それ自体あの人にとって心的外傷ですからね。人にはそれを勧めても自分自身はそれをしない。今のあの人は心の底では誰も信用できないし、自分を任せることができない。わたし達ではその壁を壊せない。本当に嫌になります。」
「それでも僕はあの人が大切だ。」
「わたしもあの人を愛しています。」
そう言って楓は裕次郎に視線をおとした。
「あの人が本当は全てを助けたかったのだと知っているのはわたしたちだけです。本当は線引きなどせず無条件に全てに手を差し伸べたい人だというのを知っているのはわたし達だけです。あの人がそういう人だったから、わたし達はこうして生きている。あの人がそういう人でなかったら、あの人にそういう時期がなければ、わたし達はあのまま死んでいた。あの人はあの頃のことを未熟で余計な犠牲を増やしてしまっただけの時期だと後悔しているのかもしれませんが、それが間違いだけではなかったと証明できるのはわたし達だけです。いい機会です。わたしたちももうあの人のかわいそうな子供達は卒業して今度こそあの人を助け支える存在になりましょう。そのためにはまずはあの人があの頃のわたし達を助けてくれたように、あの人自身が誰かに助けてもらわなくてはいけません。その役割は、悔しいですが他の誰かに託すしかない。ですがわたし達に何もできない訳ではない。わたし達はわたし達にできる最大限の事をしましょう。」
「そしてもしもあの人が助からないところまでいってしまったら。」
「あなたが援護して。」
「君があの人を殺す。」
そう言い合って二人はお互いに目配せをした。
「そうならないように祈りましょう。」
そう言う楓に裕次郎はそうだねと言って遠くを見た。
「どうせ思い出すなら生まれる前のことじゃなくて、昔あの人が僕達に言ったことを思い出してくれればいいのに。」
「そうですね。あの人がわたし達に何を願って、それでわたし達がどうしてきたのか実感してくれればいいとわたしも思います。ですが、どうせあの人は思い出さないでしょ。」
「そうだね。あの人は自分のことより人のこと、幸せなことより辛いことばかりに目を向ける人だから。」
そんな話をして二人は遠い過去に想いを馳せた。
○ ○
沙依は行徳の執務室を訪れていた。楓達から話しを聞いて色々考えた。考えて、結局何も解らなかった。解らなかったから、かつて一番上の兄だった人に話を聞きに来た。
「兄様。どうして次兄様の家族を殺したの?」
そう訊ねる沙依に行徳は困ったような顔をした。
「そんなことをするつもりはなかった。と言うのは言い訳にしかならないな。それが起きた時には既に俺も死んでいたとはいえ、そうするように人を縛ったのは俺だからな。」
そう言って行徳は沙依に座るように促してお茶を淹れた。沙依が席に着くと、行徳はお茶を机に並べ、自分も彼女の向かいに座り一口お茶をすすった。
「人の魂は俺たちのそれより弱い。ターチェの魂もまた、俺たち最初の兄弟の魂と比べたらその強度は比べものにならない。だから当時の俺は、只の人間がまさか神の力である俺の能力に抵抗できるなんて想像すらしていなかった。しかし次郎の妻は、次郎を強く想う心から俺の能力を覆してしまった。それだけ次郎は深く愛されていたということだ。しかしその結果、彼女と俺の力に縛られた者との間に隔たりができてしまった。俺の力に抗えるほど強い想いを抱ける者はそうはいないから、彼女の想いにつられる者がいたとしてもそれは強制的に矯正されて、そしてお前の知ったような結果に繋がった。」
そう言うと行徳は目を伏せた。
「俺のしたことでコーリャン狩りの風習が生まれ、多くの者が苦しみ命を落とすことになったことは理解していたが、次郎の家族がそんなことになっていたとはこの未来にたどり着くまで知らなかった。俺は自分の目的のために目の前の事しか見ず、他の選択など考えもせずに、ただひたすら太郎だった時お前を通して見た未来と同じ結末に辿り着く事だけを考えて生きてきた。つまりこれは俺の怠慢の結果だ。俺は決して許されないことをした。だから俺は許されることを望んではいないし、自分がしてしまったことの結果を全て受け止めるつもりでいる。」
そう言って行徳は静かに沙依を見つめた。
「これは俺の罪だ。決してお前のせいじゃない。そこは間違えるな。いいな。」
そう言う行徳の声は静かで、しかし決して反論を言わせない圧力をもっていた。そう言われて黙り込む沙依に行徳はおいでと優しい声音で声を掛けた。沙依は促されるままに行徳の元に行き、その膝の上に乗った。優しく頭を撫でられてなんとも言えない気持ちになる。
「俺は間違った。でも、俺が願ったことは間違いではなかったと思っている。俺はいつだってお前達の平穏と幸せを願っている。自分を責めることはやめなさい。それは意味の無いことだ。全て俺が悪い。お前達は何も悪くない。お前達が自分を責めることは何もない。」
そんな行徳の言葉を聞きながら沙依は眠気に襲われ、そしてその意識を手放した。
「末姫。出てきなさい。」
行徳が沙依の耳元でそう言うと、沙依が目を開き行徳を見つめた。
「兄様がわたしを呼ぶなんて珍しいね。」
そう言う沙依は沙依ではなかった。それは神になってしまった最初の兄弟の末っ子。こことは違う時間軸にいた末姫のなれの果てであり、沙依と精神を共有する存在だった。
「お前の知っていることを沙依も全て知っているという訳ではないんだな。」
そう言う行徳に末姫は、わたしと沙依は違うものだからねと答えた。
「沙依とわたしは同化しなかった。人である沙依と神であるわたしとじゃどちらの方が優位か解るでしょ?」
そう言って末姫は行徳から視線を逸らした。
「わたしは全てのわたしと同じ存在であり違う存在だけど、ここにいる沙依はここにいる沙依自身でしかない。確かに意識をずらせば沙依もわたしと同じモノを視ることができる。でも、わたしと違って他のわたしの思考に干渉することはできない。全てのわたしの思考や行動に干渉できるのも、他の人の意識に働きかけて辿り着くべき未来をねじ曲げることができるのも、神であるわたしだけ。だから沙依はわたしが何をしたのかも、何をしてるのかも、知らないし解らない。沙依にできるのは父様から受け継いだ能力で厄災が起こる未来を確定させること、その副産物として未来の分岐を覗く事ができること。あとは本来この時間の沙依ができないはずのことでも、沙依が実体験したように感じてるもうこの時間軸で来ることのない未来での沙依ができたことができるくらいかな。それ以外は沙依は普通の人とそんなに変わらないよ。元が人じゃないから、気脈に流れる気の質も、練れる練気の量も他の人の比ではないけれど、練気を消費すれば消耗することに変わりはないし、気脈に流れる気を完全に使い切ってしまえば死が待っているのも変わらない。その死が普通なら肉体の死を意味するのに対し、沙依の場合は存在そのものが消えることになるだけ。神の欠片でしかない沙依には限界があるけど、神であるわたしには限界はない。沙依とわたしは元が同じものでも存在の意味自体が違う。もし沙依がわたしと同化してわたしと同じ存在になったら、それはここにいる沙依の存在がこの世界から失われるということだよ。それをわたしは望んでいない。わたしはただの概念(完全なる神)になんてなりたくはない。だからこうやって実態をもって世界と繋がれる駒は多い方がいい。沙依には沙依としてこの世界で生きていて欲しい。」
「次郎の家族に俺の能力が効かなかったのはお前の仕業か?」
「そうだね。わたしの加護があったから次兄様の家族には兄様の力が効かなかった。そして、わたしの加護があったからその後もその意思は受け継がれて、勢力を伸ばし、この国のコーリャン狩りの廃止に繋がった。つまり次兄様の家族があんな目に遭ったのは、わたしが兄様の邪魔をした結果だよ。兄様と違ってわたしはああなることが解っててそれをした。つまり、わたしがわたしの目的のために次兄様の家族を皆殺しにした。今でもあれは必要な犠牲だと思ってる。そうでなければ何度もあんなこと繰り返したりしないよ。」
それを聞いて行徳は暫く黙り込んだ。
「末姫。絶対それを沙依や他の奴に知られないようにしろ。絶対にだ。いいな。」
威圧感のある低い声で静かにそう言う行徳に、末姫は善処すると言った。
「知られないように努力はするけど、わたしだって絶対じゃないから確約はできないよ。」
そう言って末姫は困ったように笑った。
「ごめんね、兄様。そもそもわたしにとっては全ての時間は等しく同じだから、今しか生きられない兄様達の感覚をわたしは理解できない。人の感情も感覚もわたしはちゃんと理解できない。それでも、兄様がわたしに何か望むなら、わたしはそれに答えたいと思う。兄様が許してくれなくても、わたしは兄様の味方でい続けるって約束する。だから何かあったらまた呼んで。兄様が繋がりを切っちゃったから、直接会話するためにはもうこうして沙依の身体を借りないと無理だけど、話さなくてもいいなら、願ってくれればわたしに届く。いつだってわたしはすぐ傍にいてずっと見守ってるから。」
そう言うと末姫は、兄様大好きと言い残して沙依の意識から居なくなった。
「沙依。疲れているのなら家に帰って休みなさい。」
行徳はそう声を掛けて沙依を起こした。そして、ごめんなさい、なんか急に眠くなってと目をこすりながら言う沙依の頭を行徳は優しく撫でた。
「兄様。わたしどうすればいいんだろう?」
そう言う沙依に行徳は困ったような視線を向けた。
「あいつが俺を恨んで気が晴れると言うのならいいが、そうではないからな。」
そう言って行徳は沙依に自分がこの国に来た時のことを話した。
「俺がこの身体に生まれてこの国に辿り着いたとき、この国のコーリャンに対する軋轢はまだまだ酷かった。俺と高英を養子にした青木源柳齋は、その中でも際だってコーリャンへの差別主義を貫いていた人物だった。そんな人物がコーリャンである俺と高英を養子にしたのは、決して反コーリャン狩り派へ歩み寄ろうとした結果ではない。俺たちの能力を利用して当時劣勢になりかけていた差別主義の盛り返しを計り、コーリャン狩りを復活させるためだった。彼は子供のうちなら俺たちを思い通りに操れると思って侮っていたんだ。そして目的を果たした後は俺たちを殺す算段も立てていた。それを知った児島一寿は俺に能力を使って青木源柳齋から青木の秘術等、青木家を存続させるのに必要な情報を盗むことを指示し、それが完了すると彼を殺害した。児島一寿は俺が前世の記憶を保持し当時もう既に成熟していたことに気が付いて、俺にそういう指示をした。俺は彼が何をするつもりであるかを理解していながら手を貸し、成得が彼を殺すのを傍観した。結局、成得を追い詰めたのは俺なんだ。太郎であったときも、行徳になった後も、俺があいつを傷つけ、追い詰め、あんな風にした。あいつは何も言わないが、あいつにとって俺は許すことができない存在のはずだ。青木という家のことも。だから沙依。俺との養子縁組を解消して青木の家を離れてもいいぞ。お前が青木を背負う必要は無い。」
「わたしが青木を離れた所で意味は無いし、なんの解決にもならないよ。」
そう言って沙依は難しい顔をして黙り込んだ。そんな沙依に行徳は、そうだなと呟いて、俺もできる限りのことはするつもりだと言った。
「俺自身、自分に何ができるのかはまだ解らないが、お前もお前なりに自分にできる事が見つかるといいな。」
そう言う行徳に優しく頭を撫でられて、沙依は頑張ると小さな声で呟いた。






