美女作家・美山美雪の暗黒都市紀行! 危険必至のギリギリルポ! 最終回
今は潰れた自費出版系の出版社に応募したやつです。最終選考まで残って、半額出すから自費出版しませんか?と営業されました
1
天才少女作家、二十歳過ぎれば只の人ってね。
女子中高生が取っ付きの良い漫画的で軽快、且コミカルな台詞を多用。ヒロインはちょっぴりドジでうっかり屋さん、でも元気で明るくて好奇心旺盛な、特別美人でも特別利口でもない、むしろ実際にいたら馬鹿の部類か? とにかく極普通の女子高生。そんなヒロインの周りには意地悪で不良っぽい、でも本当は優しくてシャイな美少年、或いは、クールでニヒル、でも本当は優しくてシャイな眼鏡の美少年、後、何でも良いけど本当は優しくてシャイな美少年。そしてその美少年達が、極普通の女子高生であるところのヒロインに挙って恋慕する。そんな極普通の女子高生である所のヒロインの周囲では、むしろお前が犯人だろう? って位に、連続殺人や密室殺人等と言う血腥い事件が頻発、続発。しかも日本の警察が民間人の、それも極普通の女子高生や、本当は優しくてシャイな美少年達の事件への関与を平然と許している。そして持ち前の元気と明るさと好奇心で、恋に事件に大活躍☆ なんて言う摩訶不思議な小説がたくさん載っている、所謂ティーンズ小説誌のコンテストで大賞を受賞したのは十七の時。
「脅威の筆致を持った恐るべき十代!」とか「十代の少女が文学界に革命を起こす!」なんてね、随分と持て囃されましたよ。しかしね、そんな事当たり前なんですわ。私からすると。級友達がティーンズ小説か漫画に視力の無駄遣いをしている時に、私は一人、ドストエフスキー、太宰治、ジャンコクトーに坂口安吾、古今東西和洋折衷、文学の世界ってやつに、どっぷり首まで浸かっていたのですよ。そんな私が書いたのですもの、語尾に星やら、ビックリやら、ハートやらがつくような、そんな文章になる訳がないのですよ。
しかし少女作家も年を取り、何時しか少女でなくなり、すると物珍しさは失われ、よくいる女流作家になり果てる。
よくいる、スーパーのワゴンセールで一山幾ら、みたいな存在に。
そんな訳で、二十二歳頃には、すっかり仕事が枯渇していた私は、今度はルポライターになった。
仕事の枯渇と経済の枯渇は当たり前だが比例し、すっかり貧に喘いでいた私に、知り合いの「口裂け女は実在する?」とか「芸能人と姦れる! 噂のフーゾク店に潜入!」みたいな、都市伝説やエロ、所謂、アンダーグラウンドネタを扱うインチキ臭い雑誌のインチキ臭い編集者が
「鮪漁船の体験ルポをやらないか?」
と持ちかけて来た。
ギャラの半分が前金と聞き、神に言われるまでもなく、既にパンのみに生きる術さえ失していた私は即座に飛び付いた。
実際の私は美女じゃない。しかしそこは、プロのメイクとカメラマンが、腕に選りをかけて撮影したスチールでごまかし、「美女作家・美山美雪の暗黒都市紀行! 危険必至のギリギリルポ!」なんて、どことなくエロ、どことなく怪しげな、阿呆な男どもの妄想をかきたて、股間を硬く充血させ、荒い息遣いで雑誌を手に取り、でもさり気無い風を装って、レジに持って行かせるような、煽動的なタイトルを七十二ポイントで表紙に掲載、結果、見事に雑誌の売上は跳ね上がった。
それからと言うもの、私は若くて美人だけど、どんなルポルタージュでもやる女、金さえ払えば何でもやる命知らずな女、として業界では知られる存在となった。二匹目、三匹目の泥鰌を狙う、似たりよったりの他紙からもお声がかかり、又、件の雑誌もその功績を認め「美女作家・美山美雪の暗黒都市紀行! 危険必至のギリギリルポ!」はシリーズ化される事と相成り、それら雑誌に掲載された私のルポルタージュには、大変好ましい金額のギャラが支払われるに至り、枯渇した経済も巻き返した。
しかし、取立て屋体験、たこ部屋体験、深夜の歌舞伎町潜入体験、所詮、何をやっても同じ展開の焼き直し。次第に飽きられ、又しても物珍しさも薄れ、徐々に売上も振るわなくなり、私のギャラも好ましくない金額になり又しても経済は枯渇の陰を落とし始めた。悪循環を断ち切らんと打ち出される、新たな企画はどぎつさを増し、それでも現状、私には必死の食い扶持である。ある程度までは対応していたものの、遂には援助交際体験の依頼が来た時、流石に自身の身の危険、そして、この世界での自分の価値の没落を感じ、足を洗おうと決めた。
その後二年間、原点回帰、やはり私は文学だ。小説を、それも、もう女子中高生相手のティーンズ小説ではなく、ちゃんとした大人が、文学の粋や価値を解するような、そんな大人が読む類、そうだ、純文学だ。純文学で華麗に文学世界に返り咲きを図るのだ。図らねば、と全く何の仕事もせず、原稿の執筆に打ち込んだが、思うように筆、実際はパソコンを使っているのだが、は進まず、只、無情に月日のみが流れて行き、案の定、経済は枯渇し、再び貧に喘ぐ日々となった。
シケモクを拾い吸い、施されたパンの耳を齧り、なるべくカロリーを消費しないように、動かずにごろりと横になって過ごしていたある日、件のインチキ臭い雑誌のインチキ臭い編集者が電話をして来た。
「最近すっかり噂を聞かないが、どうして暮らしているんだい?」
「どうもこうもないですわ。さもしいモク拾いになり下がっていますわ。」
「結婚はまだしてないのか?」
「普通、結婚していたらモク拾い等しないでしょう?」
「それは好都合。又、うちの仕事を受けてはくれないか?」
2
そのインチキ臭い雑誌が、独自に行ったアンケートに拠ると、百人中九十二人の二十代の女子が
「幾ら貰ったら好きでもない相手と結婚出来るか?」
との問いに
「二億円」
と答えている。
それに対して、百人中八十六人の三十代男子が
「結婚相手を金で買えるとしたら幾らまで出せるか?」
との問いに、やはり
「二億円」
と答えている。
つまり三十代の男子と二十代の女子の、需要と供給は一致している。それを体験ルポで証明する、と言う企画らしい。
具体的には、一生の企画にする訳にはいかないので、人生八十年として換算し、その後、連れ添う人生が二十歳で数えて六十年、一年間なら約三百万円。趣旨を明かさず、ランダムに選んだ三十代男子と、三百万円と引き換えに結婚し、一年後に離婚。その一年間の生活をルポルタージュとして纏めろ、と言う事だった。ギャラは後払いだが、その三百万円は私の自由にして良い、との事だった。
「結婚と言う事はセックスもしなければならないのか?」
「美山ちゃん、今幾つよ?」
「二十七。後半年もすれば八になるが?」
「鮪の頃は二十二だったよな? 君は見栄えも良い方だったから、例え、エロがなくても、アイドルのように気取って写った写真でも載せて、後は読者に、勝手な妄想をさせておけば売上は上がった。しかし三十路も近い女となれば、もう読者はごまかされんよ。」
つまり、結婚する気のない独身女性が増える一方、結婚したがっているが出来ない独身男性が増えている現代社会に、警鐘を打ち鳴らすようなルポルタージュではない、と言う事か。私とて、それ程、貞操観念のしっかりした女の訳ではないが、それにしても、それにしてもな仕事だな… と懊悩し、返答に困っていると
「じゃあ良いや。他を当たるよ。」
と、電話を切ろうとする。
私の電話は携帯、それもプリペイド方式の携帯電話で、現在、プリペイドカードを買う余裕がない。そうすると、受けるは出来てもかけるは出来ない。つまり、この通話を切られてしまうと、私の気持ちがやる方向に固まったとしても、返答するには鳩を飛ばすか、狼煙を上げるかしか術がなくなる。生憎私は、鳩も狼煙も持ち合わせていない。
要するに、選択の余地はない。
「やります。」
と言う経緯を経て、私、元・天才少女作家、現・落ち目の女流作家にして命知らずのルポライター、である、美山美雪は三ヶ月と十日前、「香田浩介、三十四歳、銀行員、性格:自分じゃ判らないけど、よく良い人ねって言われます。趣味:これと言ってないけど… ボランティアとか人の役に立つ事が好きかな? メッセージ:最初は気軽に話せる友達から、特別な関係になれたら良いな。」と婚姻関係を結び香田美雪となり、今、現在は夫であるところの香田浩介の帰りを待っている。
3
四ヶ月前に、必要経費として仮払いされた一万円を使い、漫画喫茶のパソコンで出会い系サイトに「ミユミユ、二十七歳、フリーター、性格:さばさば系。男っぽいかも。趣味:読書と映画鑑賞。音楽は洋楽なら割と聴く。メッセージ:三百万円であなたのお嫁さんになります」とのメッセージを掲載したところ、「僕じゃ駄目ですか?」とメールをして来たのが夫、香田浩介だ。勿論一年後に私に離婚され、更にその後、雑誌にルポルタージュが掲載されるなんて知らない。
浩介とは、特にお互い立ち入った事情を聞くでもなく、只々、段取りを打ち合わせる十数通のメールをやり取りしただけだったので、出会い系サイトのプロフィール欄から得た人となりしか解らない。しかも結婚への急速な進展は、二人に顔を合わせる暇を与えず、結局相手の姿すら、式当日までお互い知る事はなかった。
極普通のサラリーマン。それが、浩介の第一印象だった。
私は出会い系サイトに限らず、大手の運営による安全な出会い系サイト、即ちコミュニケーションサイトや、チャット、BBS等の投稿的な要素の強いものに至るまで、要するに、インターネットを通じて、赤の他人と交流するようなサービスを利用した事がない。必要がないからしなかったに過ぎないのだが、昨今の、この、インターネットが原因となる凶行が多い時勢を考えると、やはり偏見はある。
そんな私の、インターネットによる赤の他人とのコミュニケーション初体験が、悪名高き出会い系サイト。しかも食い扶持を稼ぐ為とは言え、この体たらく。
明らかに危険。その上先の偏見も加担し、多分生理的に女に受け入れられないようなタイプ、例えば、物凄く太っているとか、禿げているとか臭いとか、或いは、露骨に性格の歪みがファッションやルックスに現れているようなタイプが殆どなんだろうなあ。そのような人物の、鬱屈した、屈折した性欲を、一年間処理せねばならないのか。きっとAVばっかり見て過ごして来たんだろうから、顔面射精とかSMもどきの事に変な憧れを抱いたりしてるかも知れないなあ。その方が本は売れるだろうけど、大変な事になっちゃったなあ、と杞憂し、屈託していた。
だから浩介が極普通のサラリーマンに見えたのは、ささやかだが一種の安心感を私にもたらせた。
式には、浩介の勤め先の人間や浩介の郷里の友人、浩介の家族親戚等が参列したが、私の方は、と言うと、件のインチキ臭い編集者とそのアシスタントをしているアルバイトの女子大生位のものだった。当然である。こんな茶番劇の為に、わざわざ郷里から家族親戚を呼べるものか。遠方に住まうので、こうも急では来られなかった、等と浩介やその家族親戚には伝え、式では、家族からの電報と偽った、実は前日に私が出した電報が読み上げられた。
定石通り、段取り通りに結婚式と披露宴を終え、カジュアルで、とは表向き、やはり何処か余所余所しい二次会が済み、浩介には住み慣れた、私にとっては新居に当たる、浩介の住まうマンションに帰り、手近の白と茶色の縞のカバーに覆われた、2人がけの脚付きソファに私が突っ伏した頃には、夜中の二時半を回っていた。
「ああ、疲れた。」
普段から、それ程格式ばった席に出る事のなかった私は、その事から来る重圧と緊張に大変な疲労困憊を感じていた。しかし、今日は結婚初夜。些か尋常な結婚とは違うが、結婚初夜が結婚初夜である事実に変わりはない訳だから、やはりするべき事はしなくてはいけないのだろうか? 予想より普通だったし、これも仕事のうちだから、姦って姦れない事はないだろうけど、疲れているから面倒臭い。これが大恋愛の末、いや、そこまで行かないまでも、普通に恋愛した末、結ばれた相手ならそうも思わないのだろうけど、所詮は初対面の相手。疲労回復と安眠を優先したくもなるよなあ。しかし… ううむ、等と私は逡巡に逡巡を重ねていたのだが、どうにも結論は出ないし、浩介その人に聞くのが一番だ、と思い、ぐるりを見渡したが当の浩介の姿がない。見えるのはセンスの良い、豊かなデザインの色鮮やかな家具。しかし、その配色、デザインの一貫性の無さは、まるでそれらの持つ、優れたセンスを殺すかのように、取り留めがない。例えば食器棚が白のフォークロア調、オーディオボードが明るい緑の六十年代アメリカン調、私が突っ伏した脚付きのソファは、地の色が茶色でカバーが茶と白の縞、そのデザインはロココ調いった具合。センスがないのか、そのような事を思慮する時間もない程、緊急に家具を要する何かがあったのか、はた又、たまたま近所の家具店が潰れた時に深く考えずセール特価品を纏め買いしたのか? しかし、それにしても、食器棚、オーディオボートへの収納となるとおざなりで、しまう、と言うよりは放り込んである、押し込んである、といった感がある。食器棚には、明らかに適当に手前に押し込んだと思しき皿、その奥にはその皿に押されて横倒しとなった瀟洒なワイングラスがあり、その下の段には茶碗と鍋が斜めに並んでいる。オーディオボードはCDもビデオもDVDも雑多に平積みされて、何度か崩れて、それを直す事無く新たに押し込んだ事がありありと解る。
私とて、独居生活を始めた当初は、家具調度にも気を配り、お洒落で都会的な生活を目指したものだが、十年を数える今となっては、かなりいい加減で、着るものは、物干しにぶら下がっている一番手前を着る、食器は洗ってもしまわずに、水切り篭から直接発掘して使う、等の好い加減さを発揮しているが、そんな我が身に照らし合わせて考えた上でも、この何とも言えず、チグハグなおざなり感は目に余った。男の独居と女の独居で物臭の表面化にこれだけの差があると言うのだろうか?
なんて思っていても始まらず、いや、始まっちゃっても困るので、とにかく浩介の意思を確認すべく、勝手の判らない新居を、あらぬドアを開けて、ああ、ここがトイレか、トイレも凄えセンスだよなあ、黄色い薔薇の便座カバーか、何処で売っているんだ?こんなの、とか、ここはクローゼットか、服のセンスは普通なんだなあ、なんて物見遊山しつつ見て歩くと、最後に選んだドアの向こうが寝室で、そこで、やはりここも、何故か和風モダンなベッドに白いフェイクファーのベッドカバーと言う、疑いたくなるセンスだったのだけど、浩介はとっくに寝ていた。何となく拍子抜けした私もソファに戻り、余った引出物のワインを飲んで寝た。
その後、浩介は一度も私に肉体関係を要求しない。
「君が望まない事はしないよ。」
多分、それが彼の優しさってやつなのだろう。確かに出会い系サイトのプロフィールにも良い人だと書いてあったし、この三ヶ月と十日間を考えても、浩介が怒ったところを見た事がない。
まあ、三百万円で一年間繋がれているだけの相手との性交渉と言う、何とも楽しくなさそうな行為をしないで良いのは、大変嬉しい事だが、しかし我々は、三百万円でお互いの需要と供給を満たす間柄なのだから、私の希望に留意する事なく、浩介は性交渉をする権利がある。勿論、私的には、雑誌の売上に貢献し、好ましいギャラを手に出来るか否かの問題もあるのだが、何も知らない浩介としては、夫として妻にこうあれ、と思う事さえも意見して良い訳で、にも関わらず、こう言う優しさを発揮されてしまうと、案外自由にさせてもらっている私は何となく決まりが悪い。
しかし、こいつは楽な仕事になりそうだ、なんて打算的な考えも頭に浮かび、って言うか、むしろその考えは、諸々の思考、葛藤をあっけなく色褪せさせ、私は甘んじて受け入れている。
4
ところで、今日は金曜日。朝起きて朝食を用意し、浩介を起こして、彼の食事中に弁当を拵え、送り出す時に、マンションの門扉横に隣接するゴミ集積場にゴミを出し、朝食の片づけをし、
「さ・て・と!」
なんて独り言を言いながら、掃除、洗濯等の家事をこなし、その後、秘密裏に持参したノートブックパソコンで、後に纏めるルポルタージュの為の覚書をし、夕方、近所のスーパーで本日の特売品、豚のばら肉を物色していると、隣の丸山さんの奥さんと、私が買おうと思った、一番量があるのに二十円引きになっている豚のばら肉に、偶然、同時に手を伸ばす事となり、つと見合わせたその目には、何だか蟲を見るような、って言うか珍獣? 珍しいものをみるような、それでいて、少し哀れみもあるような、何とも不思議な色合いがあり、その目の色に気を奪われた隙に、豚のばら肉は丸山さんに持ち去られた。いつものように何だか解らない気分で帰宅、夕食を作り、風呂を沸かし、ある決意をして夫の帰りを待っている。
人が嫌がる事は強制せず、何をしても怒らず、優しさで性欲もねじ伏せる、そんな浩介だがおかしな趣味と思われる、がある。
ある決意とは他でもない。その、趣味らしきについて、なのである。
呼び鈴が鳴る。浩介だ。お互い鍵を持っているのだが
「折角家で待ってる人がいるんだから、自分で鍵を開けてドアを開けるより、待っていてくれる人にドアを開けて欲しいんだ。」
と言って、浩介は呼び鈴を鳴らし、私にドアを開けさせる。長く、侘しく寂しかった一人暮らしを感じさせる。
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
「風呂も沸いてるけど。先にご飯で良いのかな?」
「そうだな。先に飯食っちゃうか。」
何気ない夫婦の会話。その実、赤の他人同士の、とんだ茶番。
本日の夕飯である所の、豚の角煮丼と大根の味噌汁、きゅうりとワカメの酢の物を食べながら、私は切り出すタイミングを計る。
その浩介の趣味らしきとは、小奇麗なオフィスビルのワンフロア、あるのはホワイトボードと無数のパイプ椅子、そして、そこには爽やかな笑顔、でも目は獲物を狙う獣のような鋭さを放つ男がいる。集められた人達は、何が起こるか解らず不安げな人、或いは、件の男と同様の爽やかな笑顔、でも目は獲物を狙う獣のような鋭さを放つ人。そのような人達が、腹立たしい訳でもないのに烈火の如く怒ったり、何も面白いネタもないのに息が詰まる程笑ったり、悲しくもないのに必死で大昔に死んだ犬の事とか思い出す等して号泣したりさせられる。その、キチガイの宴と見紛う大騒ぎの中、件の男が
「今の姿が、あなた方の、真・実・の・姿! です! みっともないと、思いますか? でも、目をそらしては、ダ・メ! 逃げずに、今のみっともない、負・け・犬! の自分を、受・け・入・れ・て! 受・け・と・め・て! 本当の自分から、逃・げ・て! いたら、いつまでたっても、負・け・犬! の、ままです! 素直な、自・分! を、受け入れ、解き放つ事により、あなたは、新しい、未来を、切り開く、ポ・ジ・ティ・ブ! な、エ・ネ・ル・ギーィ! を得るのです!」
等と、阿呆に言い含めるようにセンテンス、センテンス、又、彼なりに重要と思われるシークエンスにゆっくりと抑揚をつけて、一人一人に鬱陶しい程近づき、大声でがなる。俗に言う自己啓発セミナー、それに通う事だった。
特に浩介に
「この変な集まりに通うのがあなたの趣味なのですか?」
と確認した訳ではないが、結婚してから三ヶ月と十日間、土日は必ずその、小奇麗なオフィスビルのワンフロアで開催されている、そんな集まりに連れて行かれている事から、これはこの人の趣味であろう、と推測した。
私は、と言うと偏屈な文学少女から少女作家になり、そこから先は、全くの適当な、成り行き任せの人生を歩いて来た者である。必要性を問うならば、勿論そのような講座は、私のような人間にこそ必要と言えるのだろうけど、そう言う人間と言うものは、得てしてそう言うものを毛嫌いしているものなのだ。
要するに嫌い。そう言う事である。
人が嫌がる事は強制せず、何をしても怒らず、優しさで性欲もねじ伏せる、浩介はそんな男なのだから、その旨伝える事に、別に神経質にならなくても良さそうな感はあるのだが、人と言うのは、趣味を否定される事を嫌う。流石に浩介と言えども、当て嵌まらないとは限らない。
幸いにも、私の得意料理の部類に入る、豚の角煮丼が功をそうしているのか、浩介は上機嫌だ。
「美雪ってキャラの割に和食が得意だよね。あ、別に変な意味じゃないよ。」
なんて戯れを述べ、その後、会社であった事等を話している。
「… 何かあった?」
「え? 何?」
どうやら、浩介に切り出すタイミングを計るのに神経を集中する余り、私は些か挙動が不信になっていたようだ。お陰で切り出さざるを得ない状況を自分で招いてしまった。
「あー… 今週末はちょっとのんびり過ごしたいなー、なんて」
「何? どう言う事?」
「あのー… ほら、私達が結婚してから毎週末、何かしら自己啓発セミナーみたいの、ってか、みたいじゃなくてそのものにさ、行ってんじゃん? でも、経緯はどうあれ、折角結婚したんだし、たまには二人でのんびり過ごす時間を持つのも、夫婦として必要不可欠な要素の一つと認識しておりまして、その…」
私は神経質になる余り、言葉に勢いもなく、終わりの方は、まるで汚職を問い詰められる政治家の答弁の如きを、ごにょごにょと口にした。
「美雪はああ言うの嫌なの?」
全く穏やかな口調で浩介が言った。やはり浩介は、私の憶測を上回る優しさを持った男なのだろうか? 何にせよ、その穏やかさは私に勢いをつけ、自然口も軽くした。
「うん。正直、あんまし好きじゃない。」
「でもさ、専業主婦になっちゃうと、中々自分を高める機会もなくなるじゃん。」
「それはそうかも知れないけど、まだ主婦業も慣れてない訳だし、そう言う事は、もうちょっと落ち着いてから考えたい。」
少しの、沈黙。空気が少し帯電しているような、神経質な感覚が蘇る。しかし、浩介の様子に変わる所はない。私がそう感じているだけかもしれない。
「そう言う事言ってる人って、結局何も始めないんだよ。」
気のせいではなかったようだった。その言葉からは、全く何の感情も感じられなかった。本心からの感情を抑えているせいだろう。浩介は多分、怒っているか、怒りつつある。だが、この言い草には、少し私も腹立たしさを覚えた。何故にそんな風に決め付けられなければならないのだ? 何も知らない、赤の他人のくせに。
「そんな事解る程の付き合いじゃないじゃん。」
軽い皮肉を込めて、だが、真実過ぎる事を言ってしまった。以前から私はそう言う所がある、と他人から指摘される点が二つある。一つは口の悪さ。もう一つは時々ギャグや皮肉が洒落にならない。今回も後者を発揮してしまったらしい。
「何?その言い方?」
失敗したのは重々承知の上だが、今更後には引けない。
「だって実際、私が二十七年間どういう生活したか知らないじゃん。それをそうやって決め付けて、したり顔で思い込みを押し付けるのってどうかと思う。」
空気の電圧は、更に上昇したような気がする。びりびりと青白く飛び散る火花が目に見えるようだった。
お互いが目を合わせぬまま、長過ぎる沈黙が続いた後、つと私の目を捉えた浩介が口を開いた。
「そっか。ごめんな、美雪の気持ちに気が付かないで。」
もしも私に、猫みたいな尖がった耳があったなら、耳を頭にぴったりとつけている、そんな気分でいたので、予期せぬ穏やかな口振りで浩介の口から出た言葉に肩透かしを食った。
元々浩介の人並み外れた優しさに、おんぶに抱っこで仕事をこなしている私だが、幾ら何でも、ここまでされて抜け抜けとしていられる程、残念ながら、太い神経は持ち合わせていない。この週末には、この借りはかっちり支払うつもりだ。それがもし、肉体関係だったとしても、私は吝かではないつもりでいた。
平日よりも早起きして家事は一切済ませ、サービスすんぜ! どっからでもかかって来い! との気合を胸に秘め
「どっか、ぶらっと出かけてみる? それともビデオでも借りて家でのんびり見る?」
なんて積極的に働きかける。
「… そうだな。ちょっと買い物にでも行こうか? 君だって普段はスーパー位しか行かないだろ?」
気合を入れすぎたせいかもしれない。浩介のいつも通りの穏やかな対応に、拍子抜けと言うか、何だ、気負う程でもなかったのか、なんて、たかを括る気持ちになってしまった。
頭打ちの流通業界を救った、アメリカからやって来た、全く新しい店舗展開。特に地方の余りまくっている広大な土地を安く、且つ、県民の地域活性化意識が働くせいで暖かく迎えられ、使う事が出来る、そんなところが急速な増加を促した、ショッピングモール。
首都圏内の、やや地方都市に位置するこの町にも勿論存在する。
「美雪はここ来た事ないだろ? こんな田舎にしちゃ、結構色々売ってんだぜ?」
浩介の発言は最もなんだが、私にはそれ以前の問題である。私が、偏屈な文学少女から少女作家、そしてその後は全くの適当な、成り行き任せ、そんな人生で得たものは、多くの他人が見られないような世界が日常で、案外、普通に婦女子が出入りするような、こんな店の方が遥かに非日常であると言う認識。三十路も近い女が情けない。情けないが、陽気にざわついた人ごみに、少々浮き足立ちはする。
檻から出され立ての猿みたいに、きょろきょろ、ふらふらと私は落ち着きがない。そんな私の右手に浩介の左手が触れ、私と浩介は、案外自然に手を繋いだ。
そう言えば、夜の生活は言うに及ばず、浩介と肉体の一部が触れ合うのは、これが初めての事だった。
「逸れるなよ。この辺、他に娯楽ないからさ、休みの日って言うと皆ここ来ちゃって、えらく混むんだよ。」
自分が私に触れる事を、私が望まない事と考えている浩介の、私に触れた事への言い訳にも聞こえる言葉だったが、確かに気温が上昇する程、人で溢れ返っている。陽気にざわついた人ごみに、私は、まるで退化した目を持つ下水道に住む鼠のように、目が眩み真っ当な視覚を奪われ、確かに浩介の左手が必要だと言えた。
浩介は、時には人の流れに沿って、時には人の流れの途絶えた辺りを見つけ出し、上手く私を誘導して行く。私は、夫と言う立場の赤の他人に為されるがままになっていた。それ程、貞操観念のしっかりした女の訳ではないので、勿論今までだって、男女交際の一つや二つしている。当然、男女の事にも及んでいる。しかし、何故、夫と言う立場の赤の他人である浩介の右手を、こうも頼もしく感じてしまうんだろう? なんてぼんやり考えながら。やがて、私と浩介は人ごみの少ない、喫煙所とベンチと、そして何とも怪しげなテナントの前に辿り付いた。
「癒しと気功のさろん・高輝舎」
「日本に古来より伝承する高次元のエネルギー・“気”を高める事によりあなたを新しい世界へ導くさろんです。」
一応、言葉を、文字を生活の糧とする者である私は、それなりに文字や言葉への拘りとかセンスはあるつもりだ。
日本古来が平仮名の「さろん」ってどうよ? なんて、私の文字や言葉に対する職業的なセンスと拘りから来る感慨を他所に、浩介はその怪しげなテナントに向かう。まさか。入るのか? 私は心が青ざめた。
「あら、香田さん。こんにちは。」
「どうも。ご無沙汰しちゃって。」
入った。
入ってしまった。
しかも、作務衣姿の受付嬢と思しき女性と顔見知りの様子である。
私が漠として、自分が本当に浩介の事を何も知らないのだなあ、と考えているのを他所に、二人は、あはは、おほほ、と大いに盛り上がっている。。怪しげなテナントである事を棚上げしての、そのややセンチな感情は、昨日の良心の呵責と、今触れ合っている右手のせいかもしれない。二人で一頻り盛り上がった後、つと受付嬢と思しきが私に目を向けた。これは、挨拶のタイミングを促す大人の社交術ってやつだな。諸々の感情に捕らわれた私は、ここは恙無くこなさねば、とまるで愛想の良いように受付嬢と思しきと目を合わせ笑顔を作ろうとした。
すると、ここにも、爽やかな笑顔、でも目は獲物を狙う獣のような鋭さを放つ顔。
私を捕らえていた諸々の感情、良心の呵責も右手のセンチメンタリズムも、先週末以来のこの懐かしい顔に打ち破られた。
「あら… こちらのお嬢さんは…?」
浩介が、繋いだ手をほどき、その手を私の肩に回して、少し前に押し出す。
「妻の美雪です。」
既に恙無くこなそうと言う意識は消え失せ、無愛想に頭を下げるに留まった。
5
その日の私は、我が身を鑑み、そして反省した。どうやら私のような、人生を適当に過ごした者は、世の中を常に懐疑的にしか眼に映せぬようになってしまうらしい。
だが、そんな考えが過るのは、やはり、それだけ良心の呵責と右手のセンチメンタリズムが強く作用していたからだと、今なら考える事が出来る。
要するに、その一時の諸々の感情が災いして、三ヶ月と十日続いた自己啓発セミナーに変わり、古来より伝承する高次元のエネルギー・“気”を高める事により、現代社会に蔓延するネガティブなエネルギーを、ポジティブな宇宙エネルギーに変え、悩みもなくなり、願いも叶い絶好調。そんな人生を現実のものとする脅威の気功術を身に付ける週末を送る事を受け入れてしまった。
そして、その後悔の第一週から数えて丁度五週間、結婚してから四ヶ月と二十日目の金曜日、再び、私は決意を固める。
今回は、二度目である。
仏の顔は三度までだそうだが、漢字で書くと片は違うが作りは同じ、しかし私と仏じゃ大違い。故に私も仏とは違う。
夕食の席で、徐に本題のみ切り出す。
「あのさあ、明日の気功、一人で行ってくれない? 私、もう止す。止したい。」
驚いた。
以前、私の母親が、町内会の旅行で博物館に行った。年の割には、夢見がちな母親は、
「マンモスの化石が見られるのよ。」
と喜んで出かけて行ったのだが、夕方遅く帰宅した母親に華やいだ様子はなく、どんよりと沈んで、がっくりと肩を落とし
「ねえ、美雪ちゃん、マンモスってアフリカ像より小さいんだよ、知ってた?」
等と言い、ため息を吐く。
「マンモスって、恐竜位に大きくて、牙がどーんと長くて、毛がわっさわっさしてるってイメージじゃない? 私、五十年もそう信じて夢や浪漫を抱いて来たのに、それを覆されたのよ。裏切られたわよ。がっかりよ。」
それだけ言い残して、夕飯も支度せずに、さっさと眠りに付いてしまった。よっぽどショックだったのか、マンモスのせいにして、夕飯を作る事をサボったのか、その辺は定かではないが、その夜、私は、コンビニエンスストアまで自転車を漕ぎ、カップラーメンとドクターペッパーを買って来て夕飯とした。当時、多感な年頃だった私にしてみれば、自分の親がマンモスに夢や浪漫を抱く五十歳である事に、どんより沈んで、がっくり肩を落としたい気分だったが、要するに、人は長年事実と信じてきた事が覆されると、裏切られ感や喪失感を抱き、大変に落ち込むものだ。そして今、私は二十七年、ずっと、顔色を失う、とか、顔色が変わる、等の言い回しは比喩だ、と思っていたのが覆されている真っ只中にいる。
私の一言で、浩介の顔色は一瞬にして変わった。
それは本当に、色が失われ、そして、変わったのだった。
しかし残念ながら私は、母親のように、さっさと寝てしまう訳には行かないらしい。
浩介の顔色が失われ、青白く変わり、それに呼応するかのように、空気は一気に火花を散らす程までの電圧を帯びた。急激に迎えた放電寸前の空気に、前回よりも大事になるぞ、と私は考えた。
それにしても、一体何でこんな事になるんだ? 確かに相手の趣味を、もうこれは、趣味と確定して良いのだろう、何せ立て続けにこれだ。それを否定するのは、多少の蟠りを生み出すものだ。しかし、別に、それ、その人そのものを否定しているとか、いや、それどころか、その人自身がその趣味を行い、愉しむ事に関しては、何ら否定していない。只、私は行わない、と言っているだけだ。言うなれば、譲り合い、譲歩、妥協しているのである。
「屑の癖に俺に逆らいやがる。」
その一言は、微かに空気が震えただけのような、振動に近いような声で放たれた。
私はその時は、初めて聞く、明らかに通常の浩介ならざる声に何の感慨も抱かず、只、放たれたその一言に、強く感情を突き動かされた。
屑? 屑だと? 今、この人、私を屑と言ったのか?
いや、確かに屑なんだが、しかし、こんな些事に基づいて、屑と言われる程には屑ではない、と思う。
その旨を、突き動かされた感情の赴くままに浩介に伝えるべく、発言に必要な酸素を吸い込み、肺に送り込んだ。
その時、やっと私は気づいた。
この人は、浩介は、まともじゃないかもしれないぞ?
一瞬にして失われ、変わった顔色。
今はもう、青白いを通り越し、透き通るように白く、デスマスクのように人の人である全てを払拭し、赤く充血した目だけが過剰に生気を放っている。その目はこちらに向けられているが、何も映していないかに思われる。
そして声。あの震動に近いような声。
浩介のみならず、私の二十七年間の人生で知り合った全ての人達、勿論、鮪漁船の海千山千のおっちゃん達、取り立て屋のチンピラの兄ちゃん達、たこ部屋の社会不適合者達、深夜の歌舞伎町の住民達やら、そんな人達を含めて考えても、あんな声で人が話すのを初めて聞いた。
もう一度浩介をまじまじと見直す。
激昂を抑えているのか、貧乏揺すりをしている。初めは小さくだったが、次第にテーブルに居並ぶ食器類が、かたかた、かたかた、と音を立てる程まで高まった。
もう一度、私は思う。この人は、浩介は、まともじゃないかもしれないぞ。
確かに、極普通のサラリーマンの風情、物凄く太っている訳でも、禿げている訳でも、臭い訳でも、露骨に性格の歪みがファッションやルックスに現れている訳でもない。
しかし忘れてはいけない。
出会い系サイトの
「三百万円であなたのお嫁さんになります」
等と言う、ふざけた、本心であるなら、書いた奴はよっぽど金に困っているか、相当まともじゃないか、どう転んでも、怪しいのは確実なメッセージに食いついてきた男・それがこの人、香田浩介なのである。
私は吐き出されるはずの言葉を飲み込んだ。
6
私は、非常に満ち足りた気分でいる。
今日土曜日、浩介は一人で気功に行っている。
昨夜、私が言葉を飲み込み、後には、浩介の貧乏揺すりにより、テーブルに居並ぶ食器類が立てる、かたかた、かたかた、と言う音だけが残った。
私には、もうなす術はない。だからと言って、浩介に何かするように促す訳にもいかない。そんな事をしては、新聞沙汰に発展し兼ねないだろう。いやいや、銀行勤めは長きに渡っているのだろうし、幾ら何でも、そこまでまともじゃなくないだろう。しかし何処が、そこなんだか判断もつかないしなあ。何にせよ明日になったら、三百万円持って逃げよう。仕事のケツまくったとなると、この世界ではもう生きていけなくなるなあ。困った事だなあ。他に何も出来る事ないのになあ、等と悪戯に思慮思索に耽って、退屈な時をやり過ごしていると、
「取りあえず明日は俺一人で行くよ。それからの事は、又、日を改めて二人でよく話し合おう。」
退屈で長かった沈黙の間に、少々の平静さを取り戻したらしき浩介が、それだけ言って寝室へと消えた。
暫らくは浩介の消えた先、寝室のドアを眺めていたが、その時、ふと意地汚い思考が湧き上がった。こいつは、瓢箪から駒ってやつじゃないのか? 半年近くが過ぎた現在まで、セックスがない現状では、既に当初の企画では外れる事が目に見えている。それでなくても、この手の下世話で下らない企画は既に頭打ちだ。だったら、自己啓発セミナーやら気功やらに嵌って、まともじゃなくなった三十代独身男の、シリアスなルポルタージュに宗旨変えする方が、インチキ臭い編集者と件のインチキ臭い雑誌的にも良いんじゃないか? 勿論、私だって、これなら真っ当な物書きに返り咲ける。当初の予定とは若干違う路線になるが、これを足がかりに真っ当な仕事を続けていれば、何れ文学の機会も巡って来るだろう。
そして今、私は、自身の思いつきに浸り、充足した気分でノートブックパソコンを立ち上げ、これまでの覚書に目を通している。
読み返して見ると、どれ程、私が浩介を知らないかを思い知らされる。
まずは、浩介を知らねばならない。しかし、浩介がまともじゃない、との疑いをかけての事である。当たり前だが、本人に聞く訳にはいかない。
そんな訳で、半年近く前、結婚式から数日後、ご芳名帳、席順表、出欠席の葉書等を雑多に放り込み、クローゼットの奥底にしまい込んでいた、余った引き出物を入れる紙袋を引っ張り出した。
コーヒーを入れて、まずはご芳名帳をぱらぱらとめくる。インチキ臭い編集者とアシスタントの女子大生以外は、見た事も聞いた事もない名前の羅列が、それぞれ勝手気侭な住所に住んでおり、何の関連性も見出せない。当然だろう。郷里の友人とは言え、今となっては、就職、結婚、転勤その他諸々の大人の都合で、各地に散らばっているのだろうし、勤め先の同僚にしても、全員が全員、会社から程近い辺りに住んでいるとは限らない。そんな勝手気侭な烏合の衆の名前を眺めていたところで、相関関係が解ろうはずがなかった。
表紙に鶴と亀が描かれ、金文字で寿と烙印された、センスの悪いご芳名帳を放り投げ、出席、欠席で分けて各々輪ゴムで纏められた、出欠席の葉書の束に取り掛かる。
さっきのご芳名帳もそうだが、インチキ臭い編集者のアシスタントの女子大生、夫婦者、香田姓、即ち親戚筋の者以外で、女性の名前は一つもない。浩介が案外昔ながらの慣習を重んじるタイプなのは解ったが、出席の束を見終えても、それ以外に得るものは何もなかった。
引き続き、欠席の束を繰るうちに、おかしな葉書が目に留まった。宛先がここ、香田浩介宅の住所になっている。しかし、よく見るとそうではなく、都道府県、市町村、何丁目何番地、マンション名、部屋番号の上二桁まで同じだが、下一桁だけが違っている。そして宛名も違っている。
丸山 正勝・真理子 様。
まるやままさかつ・まりこさま? その刹那、何とも不思議な色合いの目が、記憶に鮮明に蘇った。そうだよ、お隣じゃん、丸山さんちじゃん。そうか、丸山さんの奥さんは真理子さんと言うのか。じゃなくて、何で丸山夫妻が呼ばれているんだろう? 他にもマンションの住民を呼んでいるのだろうか? 何となく、糸口を掴んだような気がして、更に葉書を繰ったが、ご近所の人、マンションの人で呼ばれていたのは丸山夫妻だけだった。
コーヒーを入れ直して考えてみる。
私を見る丸山さんの奥さんの、不思議な色合いの目について考えてみる。
丸山夫妻がお隣に住んでいる事について考えてみる。
丸山夫妻だけがご近所の中で結婚式に招待されていた訳について考えてみる。
私を見る丸山さんの奥さんの視線。
何だか蟲を見るような、って言うか珍獣? 珍しいものをみるような、それでいて、少し哀れみもあるような。
口に運んだコーヒーがひんやりとしていて、慌てて辺りを見回すと既に日暮れが近い。私は、丸山 正勝・真理子 様宛の出欠席の葉書だけを抜き出し、その他、ご芳名帳、席順表、出欠席の葉書等を、余った引き出物を入れる紙袋に、元通りとは言わないまでも、それに近い雑多さで放り込み、クローゼットにしまい、ノートブックパソコンの電源を落とし、浩介の帰りに備えた。
それから一時間もしないうちに、上機嫌で浩介は帰って来た。
「ほら、ここ、此間、俺がぶつけて痣になってたとこさ、今日の気功のお陰で薄くなっただろ?」
嬉々として、ジャージをめくり上げ、脛を私に見せるが、ぶつけて痣になっていたのを知らなかったので、私にはよく解らない。
取りあえず、糸口は見つかった。
見つかったのだが、さて、どうしよう? いそいそと隣家へ出向き、奥さん、何時も私を、何だか蟲を見るような、って言うか珍獣? 珍しいものをみるような、それでいて、少し哀れみもあるような目でご覧になりますよね? それは如何なるご事情からでいらっしゃいましょう? それともう一つ、香田浩介と私の結婚式に、このご近所、このマンション内で唯一、お宅様ご夫婦だけが招待されていらっしゃる。それも疑問でなりません。お宅様ご夫婦と香田浩介との間に何があるのですか? なんて聞く訳にもいかない。何故なら、丸山さんの奥さんの目を考えると、単なるご近所付き合いの一環としての招待とは思えないし、じゃあ、もめ事があったとして、それがゴミの出し方とか、回覧板の回し方とか、そんな些細なトラブルだったら、まだ聞き出す事も可能だろう。しかし、例えば丸山真理子さんと香田浩介が不倫関係だった、とか、丸山正勝さんが香田浩介から真理子さんを略奪婚した、等と言う、ドロドロとした生臭い話だったら、話を聞き出す事は、困難を極めるに相違ない。しかも、私の今の立場は、ルポライター・美山美雪ではなく、香田浩介の妻・香田美雪である。つまり渦中の人の妻である。そのような人に、このような事を聞かれては、警戒心は抱いて当然であり、それこそ、それが例えゴミの出し方とか、回覧板の回し方程度の些細なトラブルであっても、容易に語りはしないだろう。それを思うと、傍観者の立場として、取材を許されていた独身の頃が懐かしい。
自由な昔を懐かしみ、今の我が身の不自由さを嘆き、しかし、懐かしみ、嘆いているばかりでもいられない。これは私の起死回生への第一歩なのだ。逡巡しているだけでは、私の真っ当なもの書き復帰への道は遠のく一方だ。ここは一つ、知恵を巡らせて、そうだ、ついでの用の振りでもして、と思ったが、ぐるりと辺りを見渡しても、回覧板は昨日回してしまったし、別にお裾分けする頂き物もないし、ついでになるような物がない。
致し方ない、もう、これはなるようになれだ、いそいそ隣家に出向いてやる、と、ジーンズの尻のポケットに丸山 正勝・真理子 様宛の葉書を捻じ込み、ドアを開けると、今、正に我が家の呼び鈴を押そうとしている形で男性が立っていた。
これはお互いに大分気まずいだろう、と思っていたが、男性は少しも慌てた様子がなく、
「あ、お出かけのご予定でいらっしゃいましたか?」
と丁重に頭を下げる。私個人としては、大分気まずくなっていたので、
「あっ、あー、いや、出かけるって程では… あー、あーとー…えーと… どちら様?」
しどろもどろで切り返す。
「あ、ご挨拶が遅れまして。始めまして、丸山です。」
丸山? と言うと、丸山 正勝・真理子 様の正勝さん? そう言えば、丸山正勝さんは、今まで一度も、会った事も見た事もなかった。
年の頃は、浩介とほぼ同年代と思われる。カジュアルだが、品の良い、多分ブランド物であろう、シャツとチノパンを、さらっと厭味なく、着こなしている。
今日が月曜日で、今の時間が九時二十五分。と言う事は、この人は、本日は有休、或いは代休、或いは欠勤、まさかサボりって事はないだろう。
「あ、これはどうも。始めまして。」
「恐れ入ります。ご結婚の節には、折角にご招待頂いておりましたのに、生憎の欠席となってしまい、大変申し訳ありませんでした。その三ヶ月程前から、長期出張致しておりましたもので。その上、ご挨拶も今更となってしまい、重ねてお詫び致します。」
丸山正勝さんは、その服装から、その言葉遣いから、その立ち居振舞いから、出来る男の匂いをぷんぷんさせている。これは私も居住まいを正し、丁寧に応対せねばなるまい。
「お忙しくてらっしゃるのに、態々のご挨拶ありがとうございます。ご出張からは、何時お戻りになられたのですか?」
「昨夜の便で帰国致しました。これはつまらない物ですが。」
と、菓子折りらしきの入った紙袋を差し出す丸山正勝さんはやはり出来る男。出来る男の長期出張と言えば海外出張。しかも、昨夜の便で帰国して、時差ぼけも治っておらぬであろう、その翌日の午前中に、結婚式に欠席した隣家に、菓子折りらしきを持ってご挨拶に来るとは、礼節を弁えた人物とも想像出来る。
そんな、全てのベクトルが好人物を指す丸山正勝さんだが、このタイミングでは、正に葱背負った鴨。大変失礼に当たるのは重々承知の上だが、このチャンスを逃す手はない。もし、秘密の妻の不貞であれば、無駄骨になるかもしれないが、そうと決まった訳じゃなし、話を聞き出す価値はある。私は頂いた菓子折りらしきの入った紙袋に、素早く目を走らせる。海外出張の手土産だから、当然、店名、商標その他の類は英語で書かれているが、内容を示す単語を探す。予測に反して菓子折りでなく、食材やら缶詰やらハンカチだったら次の句が継げない。幸いCAKEの単語が目に入った。ケーキ、予測に違わず菓子折りだ。
「ご丁寧に済みません、ありがとうございます。丁度、コーヒーを淹れておりますので、お時間宜しかったらご一緒に如何ですか?」
菓子折りを頂いたら、くれた人に茶と共に振舞うのは、礼儀の一つであったはず。
「奥様もいらっしゃいましたら、是非にお誘い下さい。」
更に尻軽な退屈した人妻が、隣家の亭主を不貞に誘惑している訳ではない事を強調すべく、しかし、その本心は、出来れば奥さんからも情報を得たい故の一言を付け足した。
「ありがとうございます。生憎、妻が外出しておりますので…」
一瞬私の動悸が早まった。折角のチャンスを潰してしまったかもしれない。
「私だけでもお言葉に甘えさせて頂きます。」
丸山正勝さんは、にっこり笑って、二つ返事で誘いに応じた。どうやら私は追い風に乗っているらしい。やはり文学界は私が返り咲くのを待っているのだな。
私は自分の分のコーヒーは入れ直し、丸山正勝さんの為にコーヒーを入れ、
「大層な物をありがとうございます。」
一言添えて、ケーキと共に出した。
「あ、態々恐れ入ります、頂きます。」
丸山正勝さんは、コーヒーを啜り込んだ。私はケーキを突付きながら、ここまで上手く運んでいる。ここで不躾な態度を取る訳にも行かない、と慎重に言葉を吟味した。
「十ヶ月もの間、お一人でご出張なされていたのですか?」
「そうですね。」
「まあ、じゃあ奥様の事、さぞやご心配だったでしょう?」
丸山正勝さんが少し動揺したように感じたが、
「ええ。そうですねえ。」
それは私が期待し過ぎているせいなのか? と思わせる何とも掴みどころのない返事をして、丸山正勝さんは、又、コーヒーを啜った。
「最近は物騒ですものねえ。でも、もうこんな長期の出張はなさらないのでしょう? 一安心と言ったところですね。」
コーヒーカップを持つ手が僅かだが震えた。私の期待し過ぎではない。明らかに動揺している。
「いえ、今回の出張で正規にワシントン支社への転勤が決定致しましたから、来月からは、妻と共に向こう暮らしですよ。」
今度は私が大いに動揺した。
「あら… じゃあお引越しなさるんですか?」
「ええ、折角なんですが。」
来月までって後五日じゃん。待ってくれ。辞めてくれ。折角掴んだ糸口なのに、ワシントンなんて、そんな遠くに逃げないでくれ。やはりチャンスは今しかない。それは解っているのだが、二の句が継げない。継げなくはないのだが、動揺した私に思い付く二の句は、
「あの、実はお話したい事がございまして…」
その、私の継ぎたかった二の句は、何故か丸山正勝さんからの口から発せられた。
私と丸山正勝さんは、暫し無言でコーヒーを飲んでいた。話をしたいとは言ったものの、その内容はかなり話し難い事なのだと察せられる。と言うことは、香田、或いは香田と丸山真理子さんに纏わる話だと思って良いだろう。
「お話と言うのは、香田に纏わる事でしょうか?」
丸山正勝さんは、ゆっくりとコーヒーカップから目を上げた。
「やはり、香田から何か伺っておりますか?」
声に不安が入り混じる。
「いえ、何も。実は私は香田の事を余りよく知らないのです。」
ここで突っ込んだ話をする必要もないだろう。見合いだとか、カップリングパーティだとか、結婚相談所だとか、よく知らない男女が知り合い、結婚する機会は公的にも結構ある。その辺は想像にお任せさせて頂こう。
「そうでしたか。実は…」
7
香田とは高校三年の時、同じクラスでした。
と言っても、高校の三年ともなると、各々の進路で受ける教科も指導も違いますし、私は大学受験、香田は美大推薦を目指していましたから、余り接点もなく、あくまでクラスメートの一人、それ以上の親しい関係ではありませんでした。
東京の大学に進学が決まり、私は高校卒業後、上京しました。
それから五年位してから、最初のクラス会が開催され、郷里に帰省致しました。
幹事曰く、
「大学生だった奴も、順調に行けば、卒業して、社会人になって、会社入って… まあ、それでも、入社して一年位しないと落ち着かないだろ? だから、最初だけは五年後にしたんだよ。」
との事で、それからはクラス会は毎年行われました。
その、最初のクラス会で、私は香田と再会しました。
「丸山は、東京の大学行って、そのまま東京で就職したんだって?」
香田は、そう私に話しかけて来ました。何となく、参加した誰もが思い出を共有しているような感じが、誰しも仲の良かった友達だったような気にさせたのでしょう。私もそうでしたから。
「ああ、何とか就職出来たって感じだよ。香田は? 確か美大目指してたよな?」
「ああ。でも流石に二浪したからさ。すっぱり諦めてこっちで就職したよ。」
「じゃあ社会人としては俺より先輩か。」
「何、大して変わんないよ。」
香田は明るく笑いました。
それからは、私も香田も毎年参加しておりましたので、都度、顔を合わせると話をするようになりました。
そう言う間柄でしたから、二年程前に、私が結婚した際も、郷里の懐かしい友人として、その他の郷里の友人と共に招待致しました。
私と妻が知り合ったのは、今の会社での事で、所謂、社内恋愛と言うやつです。ですから、郷里の友人で、それまで彼女に会わせた人間はおりませんでした。勿論、香田も、です。
その後、一年程しまして、香田がこちらのお宅に引っ越して来たんですよ。いやあ、私は大変、驚きましてねえ。
「香田… 香田じゃないか。」
「丸山って… 丸山んちだったのか。驚いたな。」
香田も同じく驚いた様子で、表札と私の顔を交互に見比べていました。
「何だ。じゃあ偶然か。こんな事ってあるもんなんだなあ。でも一体どうしたんだ? 転勤にでもなったのか?」
「会社が倒産して、再就職した先に近いからここにしたんだ。」
その時は私も、そうか、そんな偶然もあるのだな、としか思いませんでしたが、その後調べましたら、前の勤務先も倒産していないし、今の勤務先もここからだと、距離としては遠くはないですが、乗り換えが四度もあって、通勤圏内として適しているとは言い難いのですよ。
勿論、それを調べたのは、本当にずっと後になってからの事ですが。
私は妻にも香田の話をしました。
「まあ、それは驚いたわね。」
今にして思えば、妻の反応には何となく覚めたものがありました。
その後も、妻は何処となく元気がないような感じがありましたが、お恥ずかしい話ですが、当時の私は、仕事で新しいプロジェクトの責任者に任命されておりまして、自分の事で手一杯、と言った有様で、それ以上、何の疑問も持たなかったのですよ。本当に自分の愚鈍さには呆れますよ。
それから数週間が過ぎたある日、妻が鍵を増やしたいと言い出しました。理由を聞くと、
「ご近所で空き巣があったみたいだから。」
それが嘘か本当かは、未だに定かじゃありませんが、私は、それで元気がなかったのか、確かに物騒なご時世だし、それ位で、又、元の元気な妻に戻るなら、と思い、ピッキング防止用の鍵を取り付けました。
しかし今度は、自分の妻を指して、人様にお話するのも何ですが、家事から家計の管理までしっかりこなす、安心して家を任せられる女で、家は何時もきちんとしていたのですよ。
それが、初めはゴミの出し忘れが増え始めた。ちょっと気になり始めたのですが、
「ごめんなさい。うっかりしちゃって。」
としか言わんのです。
次第に夕飯は店屋物が多くなる、冷蔵庫に買い置きの食料がない、それどころか日用品の買い置きもない事が多くなった。流石に私も、ちょっとどころか、大いに気にかかり始めました。
その週の半ばでしたか。マンションの管理組合の組合長と、偶然エレベーターに乗り合わせまして、その時、
「最近、お宅で回覧板が止まると苦情が来ているんですよ。奥様も全然お見かけしないし… 何かトラブルでもありましたか?」
と言われました。回覧板も回していない。
そこで、今までの全ての事象を照らし合わせると、つまり妻は殆ど外に出ていないのではないか? と思い当たりまして、その週末に妻と話し合う時間を持ちました。
初めは
「何でもないの。」
「ちょっと疲れていて。」
等と言って、頑なに妻は話そうとはしませんでしたが、私が、その、妻の不貞を疑っているのではないか? と感じたのか、まあ、正直、その可能性も疑っておりましたが、それで、妻もぽつりぽつりと話し始めました。
「去年の二月から、一年間、ずっと香田さんから、お手紙を頂いているの。」
「香田が君に手紙を? 一体何故?」
「その… 始めはね、ちょっと個性的な結婚式に招待した事へのお礼状かしら? って思ったのよ。」
「ちょっと個性的って? 君はその手紙をまだ持っているのか?」
「ええ。」
そう返事をすると、妻はクローゼットの中から、大判の紙袋、多分結婚式の引き出物を入れるのに使った余りでしょうかね、それを出して来ました。
中を見て、驚きましたよ。勿論、ご存知でしょうが、結婚式の引き出物を入れる紙袋は、通常の紙袋より、大分大きめじゃないですか。その紙袋の口いっぱいいっぱいまで、封書が詰まっているのですよ。それが全て、香田から妻に宛てた手紙なのです。一日に二通や三通受け取った日もあったのではないでしょうか。
私は何気なく一通を手に取りました。
『… これ程までに僕が筆舌を尽くしているのです。そろそろ気がついても良い頃でしょう? 本当は誰を愛しているのか? 本当は誰と結ばれるべき、運命にあるのか… このまま貴方がご自身を騙し続けていては、丸山も可愛そうです。…』
「何だ? これ。」
私は、日付の新しい別の一通を手に取り、又、読み進めました。
『… 好い加減にしないか! 俺にはちゃんと解ってる。そう、ちゃんとお前の気持が解ってるんだ。お前は俺を愛している! 今すぐ俺の胸に飛び込んで来たいと思っている! それ程までに俺を愛しているんだって事がな!』
私は手紙から目を上げて、妻の顔を見ました。
「一番最初はね、結婚式の時の私が綺麗だったとか、よく夫を立てていて偉かったとか、そんな内容だったのよ。だから、ちょっと個性的だけど、結婚式のお礼状かしら? と思って、私もお礼のお手紙をお出ししたの。でも、その翌日には、又、お手紙が来ていて、内容もだんだんそう言う… ラブレターっぽい… ラブレターよね? になって来て。私、困ってしまってお返事出来ずにいたのよ。そうしたら、その、今見てるような内容のが来出して… それから… それから…」
妻が言いよどむので、私は一番新しい日付の、つまり香田が引っ越して来る前日のものを読みました。
『丸山は屑だ! 丸山は屑だ! 丸山は屑! 俺が助けてやる! いつも側にいて、お前を助けてやる!』
太い油性ペンでそれだけ書かれていました。
「何で僕に言ってくれなかったんだ?」
「だって、貴方は今、お仕事大事な時期なんでしょう? こんな事で煩わせるのも、と思って。」
毎日、こんな手紙を受け取っていながら、私に気遣って自分一人の胸に収めていた妻が不憫で、それなのに、ずっと気付かなかった自分が不甲斐なく、その上妻の不貞を疑っていた自分の浅はかさに悲しくなりましたよ。全く、酷い夫です、私は。
当然、私は、香田の元に怒鳴り込みました。
しかし、その時の香田は、平身低頭平謝りと言った感で、私も若干拍子抜けし、まあ、反省しているようだし、何せ同年代ですからねえ、三十過ぎての一人身の寂しさから、つい魔が差したのも解らぬでもない、と、その場を治めました。
やはり、お互い長く隣人同士となるのだし、蟠りをなくそうと、その後も香田には、以前と変わらぬ態度で接し、始めは余所余所しかった香田も、次第に気持の良い態度で私に接するようになり、挨拶を交わす間柄から、時には談笑する間柄にまでなりました。
その半年後、妻が倒れて、 救急車で病院に運ばれたと会社に連絡がありました。
取るものも取り合えず病院に駆けつけますと、胃潰瘍と、そして何か大変なストレスがあってノイローゼ気味だと言われました。
私はすぐに香田の事が頭に浮かびました。幾ら蟠りがないように、と思っていても、やはり、ねえ… 完全に拭い去る事は出来ませんよ。
すぐに妻に話を聞いて、と、思いまして、病室へ行ったのですが、憔悴し切った妻の顔を見ると、これ以上、香田の事で苦しめる気にはなれませんでした。
それでその日は、面会時間のぎりぎりまで、病院で妻に付き添い、それから帰宅して、今度は自宅の家捜しですよ。明け方までかかりましたが、妻は私に心配かけまいとしたんでしょうね、全て台所のゴミ箱から、その、見つけました。
今、思い返しても吐き気がするような物ばかりを、ね。
私の顔写真を貼り付けた猫の死体、精液の入ったコンドーム、それから妻に宛てた手紙… あれでも手紙って言うんですかね? 太い油性ペンで猥褻な語を書き殴っただけの。私に対する呪詛の言葉を書き殴ったものもありました。
ぞっとしましたよ。
ストーカーって奴ですよね、これってもう。
勿論、警察にも言いましたが、こんな瑣末な事件じゃ警察は動いてくれません。桶川事件が良い例です。
妻が退院してから、今後どうするかを話し合いしました。
引越しも検討しましたが、もし又、香田に見つけられたら… 警戒し過ぎとお思いになりますか? しかし、私達夫婦は、もう日本国内で香田から逃れられる土地がないように感じておりました。
それで、今はプロジェクトも落ち着きましたし、上司に事情を説明しまして、ワシントン支社への転勤を希望致しました。但し、条件が事前の十ヶ月の出張。勿論、死ぬ程心配でしたよ。妻には実家へ戻るように言いましたが、必ず香田は追って来る、そうすると親兄弟に迷惑がかかるから、と言って拒みました。私は気休めにしかならないのは、重々承知でしたが、WEBカメラを使って、インターネットで二十四時間体制で自宅を見張りました。
ところが、私達の不安を他所に、ぴたりと香田の行動は修まりました。その内、香田から結婚式の招待状が来た、と妻から電話がありました。
私は、私達はそれでも安心出来ませんでした。正直言って。この結婚にも何か裏があるんじゃないか? と考えていました。その後、妻は何度かスーパーでお会いした時に、奥様にお話を伺いたいと思っていたようなのですが、何も知らなかったら… むしろ歪められた何かを知っていたら… 失礼になるのは重々承知の上ですが、奥様も何か関わっていらっしゃる、グルなんじゃないか… と思い詰めてしまい、中々お話をお伺いするに至らなかったらしく、今回、私の方からお話をさせて頂いた次第なのです。
8
以上が、丸山正勝さんが語った香田浩介像である。
なる程、浩介がまともじゃないのはよく解った。
今日、火曜日、九時五十一分。私は、既に冷たくなっている三杯目のコーヒーを片手に、只、薄らぼんやりノートブックパソコンの画面を見ている。
しかし、只、薄らぼんやりノートブックパソコンの画面を見ている訳ではない。この香田浩介像が、どう自己啓発セミナーやら気功やらに嵌っている事に関係するのか、を深く考えているのである。そもそも、浩介に限らず、人が、あんな露骨で白々しい、如何にも洗脳しています、なんて風情のものに、行ってみようと考える発端は、一体、どう言う時だろう? 私が思い付く範疇では、例えば、何か精神的に大変な痛手を受けた時とか、人生追い込まれた時とか、後は、それこそ私のような、全くの適当な、成り行き任せの人生を歩いて来た者に対し、必要であると考えた何者かが連れて行くとか、しかし、そうなると、その連れて行った何者かは、やはり何か発端があって行ってみた後の人な訳で、そうなると、だから結局、その人も何か精神的に大変な痛手を受けた時とか、人生追い込まれた時とかが行ってみようと考えた発端だったのか? と思考は、只、堂堂巡りを繰り返す。
例えば、浩介を考えた時、多分、丸山正勝さんにストーカー行為が知れたのは、精神的に大変な痛手になるのだろうか? 或いは、人生追い込まれた事になるのだろうか? そうして自己啓発セミナーやら気功やらに通い、丸山真理子さんへの思い、と言うか、執着を断ち切るに至った。だからストーカー行為も止み、私と結婚する気にもなった。つまり、私は勘違いをしていて、浩介は、自己啓発セミナーやら気功やらに嵌って、まともじゃなくなった三十代独身男ではなく、元々まともじゃないから、自己啓発セミナーやら気功やらに嵌った三十代独身男が正解と言う事になる。だとしたら、自己啓発セミナーやら気功やらに通い出したのは、丸山正勝さんの長期出張の頃だろう。なる程、何となく筋道が通って来ている気がして来た。
私は冷たくなっている三杯目のコーヒーを一気に飲み干した。
行動する、時である。
自身の推測の裏付けを取る為に、私は約五週間ぶりに小奇麗なオフィスビルのワンフロア、あるのはホワイトボードと無数のパイプ椅子のかの地、自己啓発セミナーを訪れた。
「香田さんの奥様、お久しぶりですねえ。最近すっかりお見えにならないから。」
私を迎えたのは、懐かしい件の男。爽やかな笑顔、でも目は獲物を狙う獣のような鋭さを放ち、更に今回は、逃げた獲物に対しての憎々しい態度がプラスされている。しかし、そんな事に構っている程、申し訳ないが暇ではない。私はさっさと用件だけ切り出した。
「あの、香田がこちらに通い始めたのは何時位なのでしょうか?」
折角の憎々しい態度をスルーした私に、些か、気分を害した様子で、只、素っ気無く
「少々お待ちください。」
とだけ言って、何やらパソコンに打ち込み始めた。
「カリキュラムの開始は四ヶ月と二十四日前、奥様とご一緒のスタートです。ご予約にいらしたのは… その前、五ヶ月と一週間前ですね。」
その応えが、私の推測を無に返す音が聞こえるようだった。
それでも手ぶらで帰ってなるものか、と、私は、記憶を辿り、懸命に突破口を探した。五ヶ月と一週間前というと、それは結婚する二週間前。つまり
「そうそう、思い出しましたよ。」
人が記憶を辿り、懸命に突破口を探していると、件の男は、心からの好感を滲ませて話し始めた。
「確か、ご結婚の直前に、奥様の為にお申し込みになられたんですよ。専業主婦になっちゃうと、中々自分を高める機会もなくなってしまうだろうからって。」
そして最後に、厭味たっぷりに、語尾を強調した一言を付け加えた。
「よく出来た方ですね、ご主人様は。」
しかし、折角の、その厭味たっぷりに、語尾を強調した一言も、私にはそよ吹く風囁き程度にしか響かなかった。正確には既視感とは言わないが、既視感のようなものが私を捉えていたからだ。
「でもさ、専業主婦になっちゃうと、中々自分を高める機会もなくなるじゃん。」
その言葉と帯電した空気の感覚が鮮やかに記憶に蘇る。私は、その生々しい緊張感の記憶を抱え、自己啓発セミナーを後にし、引き続きショッピングモールに向かった。
「癒しと気功のさろん・高輝舎」
「日本に古来より伝承する高次元のエネルギー・“気”を高める事によりあなたを新しい世界へ導くさろんです。」
「五ヶ月と一週間前に一度お話にいらしております。」
ここでも返事は同じだった。
「でも、ご無沙汰してます、とか言ってたし、貴方も香田をご存知のようでしたが?」
「私どもは、常に精進し、気を高め、高次元のエネルギーを得る事により、通常の人の能力を超越しておりますので、一度お会いした方を忘れるような事はございません。」
そんな不気味な発言はどうでもよく、又しても、付け加えられた一言に同じ既視感を抱く。
「それに、専業主婦になると、中々自分を高める機会もなくなる奥様の為に説明を伺いに来るなんて、なんてお優しい方なのかしら? と思いましたので、ご記憶しておりましたの。」
9
何故、発端が私なのだろう?
最近は、こんな田舎のショッピングモールにもあるのが嬉しい、スターバックスコーヒーで、飲んでいく先から、砂糖が骨を溶かしているような気にさせる、甘ったるいキャラメルマキアートを飲みながら考える。
何故、私なのか? しかも、五ヶ月と一週間前と言えば、必要経費として仮払いされた一万円を使い、漫画喫茶のパソコンで出会い系サイトに「ミユミユ、二十七歳、フリーター、性格:さばさば系。男っぽいかも。趣味:読書と映画鑑賞。音楽は洋楽なら割と聴く。メッセージ:三百万円であなたのお嫁さんになります」とのメッセージを掲載したところ、「僕じゃ駄目ですか?」とメールをして来た位の頃だ。それは出会い系サイトのプロフィール欄から得た人となりしか解らない頃で、普通、そんな相手の為に、自己啓発セミナーやら気功やらが必要だと考えるだろうか? いや、何も解らなくはないのか。どう転んでも怪しいのは確実。
「そう言う人って、結局何も始めないんだよ。」
そう、どう転んでも怪しいのは確実なそう言う人って、つまり私。
「屑の癖に生意気に俺に逆らいやがる。」
そう、どう転んでも怪しいのは確実なそう言う人である私は、つまり屑。
屑だから、自己啓発セミナーやら気功やらに行かせるべきだと考えた。しかし、そうなると今度は必要性が全く解らない。じゃあ逆はどうだろう。つまり、自己啓発セミナーやら気功やらに行かせるべき屑だから食いついて来た。理由は、「香田浩介、三十四歳、銀行員、性格:自分じゃ判らないけど、よく良い人ねって言われます。趣味:これと言ってないけど… ボランティアとか人の役に立つ事が好きかな?」そんな自分を成立させる為、人が嫌がる事は強制せず、何をしても怒らず、優しさで性欲もねじ伏せる、そんな自分であらねばならないから、だ。そうする事で得られるもの、それは、自己啓発セミナーやら気功やらの反応が証明しているように、良い印象。となると、必要性は、やはり丸山真理子さんへの思いと執着に行き着く。即ち、良いイメージを得る事で、丸山真理子さんを振り向かせる事が出来る。
平行線だった情報が一つに繋がった。
時刻は一時四十七分。まだ時間はある。
私は、薄く残ったキャラメルマキアートを溶けた氷が薄め、今や只の茶色い砂糖水となっている、だから、元・キャラメルマキアートを捨て、丸山家に向かった。
10
明らかに怪訝な顔をされている。
そりゃそうだ。火曜日のおやつの時間の少し前、前ぶれもなく訪ねて来て、婚前に夫が横恋慕していた、それどころかストーカー行為に及んでいた相手に、証拠の手紙を見せて欲しい、と言う妻もそうそういないだろう。
それでも、そんな怪訝な妻に、丸山真理子さんはコーヒーと高そうなクッキーを振舞ってくれた。なる程、出来た人である。
私は、確証を掴む為、浩介の手紙を見るべく、丸山家を訪ねた。
丸山正勝さんの弁により、相当、気色の悪い手紙だったと推察できた故、棄てられている可能性もかなり高いと踏んでいたが、
「何かあった時、証拠になるかと思って。」
ありがたい事に丸山夫妻は手紙を捨てずにいた。
『この恥知らずの淫乱が! お前は間違ってる あの屑は間違ってる…』
『あの屑野郎にいつか真実を思い知らせてやる!』
『愛してる 愛してる 愛しています 早く気が付いて欲しい』
『俺の邪魔ばかりする屑には…』
『屑だ! 丸山! 屑野郎!』
『屑がまた俺達を邪魔してるんだ 何故まだ解らない? この馬鹿女』
確かに、読めば読む程、気色の悪い手紙だった。しかも、手がかりになるような事は何もなく、確証を得るにも至らない。
それでも四百三十四通を数える頃、私はある傾向に気が付いた。
丸山正勝さんに対しては、私同様、屑と言う言葉が用いられている。しかし、丸山真理子さんに対しては、淫乱とか馬鹿女とかを用いていても、屑と言う言葉を用いる事はない。どっちにしろ、罵倒してるのには変わりはないのだが、しかし、屑とは決して言っていない。それが、浩介なりの愛情表現なのか? それとも、むしろ、この屑と言う言葉の方に、特別な何かがあるのだろうか?
「あの」
そこで丸山真理子さんに声をかけられた。
「はい?」
「何故そんな事なさるんですか?」
一体、何と答えれば良いのだろうか。未だ手がかりになるような事は何もなく、確証を得るにも至らない、そんな現状で答えるとするならば、どうしても、私がここにいる理由、つまりは余りに非人道的な企画、余りに不純な動機から話すしかない。後二日で日本から離れ、多分それきりになる人に、その僅かな期間に、敢えて嫌な人間だと思われる話をする必要性があるだろうか? しかし、私にだって良心はある。
「先だってご主人様からお話を伺いましてから、少し色々気になって調べているんです。」
「気になって、と申しますと?」
丸山真理子さんの表情に翳りが射した。
「香田は、まだ奥様への思いや執着を断ち切っていないのではないか、と考えられる節があります。それで、何かその手がかりになるような事があれば、と思って手紙を見せて頂きたかったのです。」
「そうなんですか…」
「まだ確証は得られていないですけど。転勤まで、後二日間でしたっけ?」
「ええ。はい。」
「くれぐれも注意して下さい。」
丸山真理子さんは、暫し呆然とし、両の手で顔を覆った。
四百三十四通全てに目を通した頃には、一万五千飛んで三六回、丸山正勝さんに対して屑は用いられ、その内、一万三千七百六十五回は邪魔とセットで使われている事が解った。
「屑の癖に生意気に俺に逆らいやがる。」
私には逆らうと言った。浩介にとって、屑とは、邪魔をする者、逆らう者、つまり、自分に反する者だと言う事か。
私が丸山家を後にする頃には既に夕闇が迫っていた。私は概略を纏めつつ、明日の行動を考えつつ、自宅の鍵を開けた。はずだった。しかし、ドアはびくともしない。鍵をかけ忘れて出かけただけなら良いが、と、用心深く、再度、鍵を回し、私は家に入った。
当然、丸山家の隣家に当たる我が家も同様に夕闇が迫っている。そんな薄暗い部屋の中で、何かしている人がいるとは思えないが、確実に誰かいる。何よりも、聞き覚えのある音がしている。そして、聞き覚えのある震動が室内を震わせているのが、玄関先でも感じられた。
11
かたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたが… ずが… 屑が… 屑が… 屑?… 屑… 屑! 屑! 屑が! 屑が! 屑が! 屑が! 屑が! 屑が! 屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑が屑があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!
だんだんに震動が大きくなり、遂には鼓膜を揺るがし、その時、初めて、私はそれが
「屑が」
と言っている声なのだと認識した。
私は慌てて居間に駆け込んだ。音の主、震動の主、浩介は、居間のソファに座っていた。その前では私のノートブックパソコンが青白い光を放っていた。夕闇迫る薄暗い部屋の中で、只、光源は、青白く光るノートブックパソコンの画面のみ。その光源が浩介の顔を白く光らせて、私からは表情がよく見えない。
震動は声に昇華し、それも納まって、数秒の後、突如、浩介は握り締めた両手でノートブックパソコンを叩き始めた。キーボードからキーが弾け飛び、からんからんと乾いた軽い音を立てて床に落ちている。冗談じゃない! とは、思っても、今の浩介は、空気を帯電させても、火花を散らす程、空気の電圧を上げても、震動と紛う声で毒づいても、それでも見せる事はなかった姿、新聞沙汰に発展し兼ねないと私に予測させた姿、激昂している姿をありありと晒している。そんな浩介に近付き、ノートブックパソコンを救出する事が私に出来ようか。いや、他の誰でも出来まい。
しかし、センチメンタルな言い方かもしれないが、あのノートブックパソコンには、私の未来の希望が詰まっている。例え、意地汚い行動の集積だとしても。とにかく何とか、そうだ、せめて、ハードディスク。ハードディスクさえ無事なら何とでも出来る。だから、壊されても、その壊れたノートブックパソコンは何とかこの手に取り戻さねば。
私は居間に踏み込んだ。浩介は私を見た。
「この屑が!」
図らずも私の願望は叶った。但し、手ではなく、頭に。
浩介は、半壊したノートブックパソコンを私に投げつけたのだった。生憎、さして運動神経も反射神経も優れていない私は、素直に頭に喰らい転倒した。
「お前はな! お前のような屑はな! 俺に救われるんだ! 救われなくちゃいけないんだ! 解るか? 解るか? 解らんだろう? 屑だしな、屑だからな!」
頭が非常に痛い。しかし、のんびり寝ている訳には行かない。
「逆らいやがって! 邪魔しやがって!」
喚きながら、浩介は居間のソファを蹴倒し、テーブルをぶん投げる。テーブルは食器棚に当たり、砕け散り、又、食器棚のガラス戸も砕け散り、辺りはガラス片だらけになった。
「屑が、又、台無しにしてくれた!」
のんびり寝ているわけにはいかない、と言いつつも、中々頭の痛みから立ち直る事が出来ない私に浩介が歩み寄って来る。
ガラス片を踏み拉いて、足を、血だらけにして。
「そんな事したって、丸山真理子さんはあんたのもんにはならんでしょうが。」
丸山真理子さんの名前を出した事で、浩介が動揺して、歩みを止めるかもしれない。逆に更に激昂するかもしれない。でも、生き延びられるなら、それに越した事はないし、殺されるならその前にせめて言いたい事は言いたい。
「丸山、真理子? 何だ、それ?」
あまりに自然にきょとんとしている、それでも歩み寄って来る浩介を、私は呆然と見上げた。
「ストーカーしてたじゃん。 丸山正勝さんのお…」
私の言葉は、わめき声に遮られた。
意外にも、浩介の感情を揺るがしたのは、丸山真理子さんではなく、丸山正勝さんの名前だった。
「丸山正勝! 屑! 常に俺の邪魔をしやがる!」
現在、私は非常にピンチだ。殺されるかもしれない。それなのに、それなのに意地汚くも真実を知りたがっている。
「何を邪魔した?」
「何もかもだ! 屑が何もかも、俺の人生を邪魔して何でも横取りしてるんだ!」
12
この人は、浩介は、まともじゃない。
私は、理解した。
香田浩介は、丸山正勝さんが屑の癖に自分の邪魔して、本来なら香田浩介が得るはずの人生の成功を横取りしていると考えている。何時から? そんなのは解らない。ひょっとしたら、生まれた時からかもしれない。その箍が外れたのが、丸山正勝さんの結婚。推測だが、結婚願望が強かったのだろう。だから、箍が外れる程の衝撃を受けたと想像出来る。
丸山真理子さんに執着したのも、それが丸山真理子さんだから、ではなく、横取りされたから取り戻す為だった。それがストーカー行為に至った経緯である。
それも丸山正勝さんに邪魔された時には、既に香田浩介の感情は、丸山正勝さん個人ではなく、屑全体に向けられていたのだろう。だから、屑である私と結婚し、私を屑でなくする事、救う事で屑に打ち勝ち、人生を取り戻そうと考えた。
しかし、理解したところで、危機的状況は改善される訳もなく、案の定、動揺ではなく、更に激昂した浩介の歩みは淀みなく、止まる事なく近づいて来る。
人間と言うのは、凄いな、と思う。
私は、それまでノートブックパソコンのハードディスクを外した事がなかった。このノートブックパソコンを買った時に、ざっくり取扱説明書に目を通しているものの、その着脱方法まで詳しく読んだかは定かではない。だが、その追い込まれた咄嗟の刹那に、ノートブックパソコンから、ハードディスクを外したのである。俗に言う、火事場のくそ力と言うのがこう言う事なのだろう。そして、半壊した本体を浩介に投げ付けた。ここでも、又、火事場のくそ力は発揮され、さして運動神経も優れていない私が、見事に、浩介の目のやや上程にヒットさせ、怯ませる事に成功した。私はハードディスクだけを抱え、立ち上がり、玄関に向かって駆け出した。浩介は、そうそういつまでも怯んでいる様子ではなかったが、私は玄関を飛び出し、後は振り返る事なく、ずっとずっと、只、駆けて行った。
13
そこまで命がけで綴り守った「美女作家・美山美雪の暗黒都市紀行! 危険必至のギリギリルポ!」多分最終回に当たるであろう作品だが、それが収まったハードディスクは私の手元に未だにあり、そして、私は今は沖縄でのんびりしている。
玄関を飛び出し、後は振り返る事なく、ずっとずっと、只、駆けて行った私は、手近の電話ボックスに駆け込み、件のインチキ臭い雑誌のインチキ臭い編集者に電話をかけた。
「おかけになった電話はお客様のご都合により現在使われておりません。」
全く魂の欠片も感じられない声が繰り返す。
「くそ!」
私は、手荒く受話器を置き、今度は件のインチキ臭い雑誌社に電話をかけ直した。しかし、又も結果は同じ。
「お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません」
魂の欠片も感じられない声が繰り返す。
結局、私が約半年間、ルポルタージュの為に人生を費やしている間に、件のインチキ臭い雑誌は立ち行かなくなり、インチキ臭い編集者も含む関係各位はケツをまくってしまい、私の手元には、このデータが入っているハードディスクと三百万円だけが残った。
残念ながら、香田浩介のようにまともじゃない訳じゃない私は、文学の世界への返り咲きも、真っ当なもの書きへの返り咲きも、未来の希望も誰かに横取りされたと考える事は出来ず、当座の生活費をさっ引いて、残金二百八十七万円、ああ、沖縄にでも行ってのんびりして来ようかなあ、と考えた。
その後、香田浩介がどうなったか? 又、丸山正勝・真理子夫妻がどうなったか?
そんな事は知らない。
「美女作家・美山美雪の暗黒都市紀行! 危険必至のギリギリルポ!」多分最終回に当たるであろう作品だが、それが収まったハードディスクをどうするか?
それも考えていない。
それらは全て、屑が気にするような事じゃない。