シーン1
改稿なう
「ねえねえ」
そう呼びかけられたのは、いつもの通学路。
いくらカレー好きでも毎日三食カレーだと飽きてしまうように、毎日通るその道に僕はいい加減慣れてしまっていて頭の中を別のことでいっぱいにして退屈を紛らわしているところだった。
だから、その呼びかけが自分に向けてのものであることに気づくまでに、数メートルほど歩くぐらいの時間を要した。
そもそも、最近の僕に話しかけるものは何か用事がある意外には皆無で、無意識的にこんな通学路のど真ん中で話しかけられるという可能性を除外していたからかもしれない。
そして、ようやく気づいて振り返ってみても、そこに立っていたのは見知らぬ女子生徒だった。制服は僕と同じ高校のもの。言うまでもなく女性用。
とはいっても、クラスメイトである可能性を僕は否定できない。二学期が終わりに近づいた今でもクラスの中で顔と名前を一致させている人間が一割を超えていないのだから。
それでもやっぱり、クラスメイトであったとしても僕に話しかけるような人がいるとは思えない。それが接点のなかった見知らぬただの同じ学校に通う生徒だったとしてもだ。
念のために僕の後ろの誰かに話しかけたのではないかと考えて、僕は後ろを振り返る。
朝の通学路だというのに誰も歩いていない。
ここには、僕と彼女の二人きりだった。
もう間違いない。
彼女は僕に呼びかけていた。
「なにか用?」
別に無視してもよかった気もするけど、なんとなく僕は彼女に聞いてみた。
「うわっ、しゃべった」
彼女は口をあんぐりと開けて、驚いた顔でそう言う。
軽く傷つく。たしかに、最近は家でも学校でも口を開くことは少なかったが、しゃべれないとまで思われていたのか? 思わず眉根を寄せる。
「ごめんごめん」
彼女は両手を重ね合わせてごめんのポーズ……って言うのだろうか。少し、いやかなりあざとくそんなことをしてくる。
余計に苛立ちが湧いてくる格好だが、喧嘩するのも面倒だ。やっぱり最初に無視しておけばよかったと後悔した。
「大丈夫。慣れているから」
とはいえ、それも事実だ。
珍獣扱いと言うか。いや、珍獣のほうがマシか。ゲームで言うスライムのような存在が今の僕だ。経験値のために剣で殴ったり炎で炙ったりしても許される。そんな認識。
「その割には、結構傷ついた顔をしていたけど?」
しかし、彼女から見るにそうでもなかったようだ。
「どんな顔してた?」
試しに、自分がどんな顔をしていたか聞いてみる。
「世の中のすべてに絶望したような顔」
ずいぶん酷い顔をしていたようだ。
「あ、それは元々か」
「ほっとけ」
確かに元から酷い顔だった。
「それで、何の用だよ」
「用がなきゃ話しかけちゃダメなの?」
「駄目だ」
なんだこの女。ずいぶんと親しげに話しかけてくる。
いたずらか罰ゲームか……。それにしては周りに人の気配がない。誰もいないのにわざわざ罰ゲームを実行する馬鹿もいまい。
「酷い……私のこと嫌い、なの?」
変なしなりをつけてそう聞いてくる彼女。
なんだか馬鹿らしくなって、僕は考えるのをやめた。
罰ゲームでもなんでも付き合ってやろうじゃないか。
「嫌いも何も、初対面だろう?」
しかしそう言ってやると、今度は彼女が傷ついた表情を見せた。
「初対面じゃないんだけど……」
「そうなのか?」
思い出せるとは思えないが、彼女の靴の先から頭の先までじっくりと眺めてみる。
細い脚。結構大きいお尻。まな板。そして顔。
「ごめん、覚えてない」
殴られた。
「お尻はじっと見たのに、胸は全然見なかった!」
「気のせいだろう?」
「鑑賞に堪える価値はないことは自分でもわかってるけど、それでもやっぱりムカつく」
「ごめん……」
「謝られるとさらに惨めになるんだけど!」
「僕が……自分の欲求に素直すぎるのが悪かったんだ。君は悪くない」
「む・か・つ・く!」
大きな声で叫んだ彼女は、僕の足を蹴った。
先ほどのパンチもそうだったけど、それほど痛くないどころか、本当に高校生なのだろうかってくらい彼女の攻撃には力がこもっていなかった。
それでも何回も蹴って、息を切らしてきた彼女がキックをやめて僕に聞く。
「本当に覚えてないの?」
少し切なそうな声音に、わずかな罪悪感を覚えながらも、本当に何も覚えていない僕は頷くしかない。
「そう」
「ごめん」
頭を下げる。
そもそも名前を覚えてほしければ、もうちょっと僕との接点を作ってほしいだとか、そんなことを一瞬考えはしたものの、彼女の泣きそうな表情にその考えは吹き飛んだ。
「私、先に行くね」
そう言って彼女は走っていく。
追うわけにもいかずに、僕はただそれを眺めていた。