シーン2
バイトに遅れそうだ。
僕が教室に入ると、クラス中からの視線を浴びた。
先ほどまで楽しく喋っていたのであろうクラスメイト達は、その瞬間だけ押し黙り、僕のほうを見る。
ため息を吐いてしまいたくなる気持ちを抑えながら、僕は教室の片隅、誰も座っていない机のほうを見る。
机の上の花瓶。そろそろ一週間が経とうとしているのか。花瓶に生けてある花も心なしか萎れてきている気がする。
僕は萎れかけているその花を抜き取って、家から持ってきた造花を生けた。
本当は毎日新しいものに変えてやるのがいいとは思うけど、僕は物忘れが激しいから。
いや、ただ単に面倒くさいだけなのかもしれない。
僕がこうして死んでしまった彼女のために花を生けているのは、ちょっとした偶然からだ。
正直言えば、死んでしまうまで彼女の名前すら知らなかった。西城美紀。今でも顔は思い出せない。
彼女と最後に話したのが僕だそうだ。一応、どんな話をしたのかは覚えている。
告白された。ずっと好きだったって。
僕が返事する間もなく、照れたのか走って行ってしまったから、返事もできなかった。
そして、そのすぐ後に西城は車に轢かれて……。
そんなインパクトのある出来事だったっていうのに、その僕は彼女がどんな喋り方をして、どうやって怒って、どんな顔で笑っていたのか、声や顔すら覚えていないのだ。
なあ。と、彼女の机に向けて、思う。
僕の何がよかったんだ?
ふと顔を上げると、周りの視線は未だに僕の周りにうっとおしく纏わりついていた。
苛立ちが募る。
お前らには関係ないことだろう。
顔も名前も知らないお前らに責められる謂れはない。
大体僕の何が悪いんだ。
僕はただ最後に話をしただけだ。
告白の返事だって、出来なかったのはたまたまだ。
彼女の顔と名前? そんなもの知らなくたって、困りはしない。
大体、大体……っ。
まあ、いいや。
苛立ちすらも握り潰す言葉。
「まあ、いいや」
そう呟くと、近くにいた名も知らぬ男子生徒が何かもの言いたげな顔をしていた。
何か言われる前に僕は教室から逃げ出す。
授業に出る気になんてなれなかった。このままどこかへ行ってしまいたいけど、僕の行動範囲はそんなに広くない。
僕の逃げ場所は一つしかなかった。
数年前に飛び降り自殺未遂があったとかなんとかで、屋上は常時施錠されている決まりになっているけど、実はちょっとコツを掴めば簡単に鍵は開けられたりする。
ちょっと上に持ち上げて思いっきり押す。それだけで鍵が外れてしまうのだ。
これを見つけた時、僕は喜んだ。
学校というものは人のいない場所と言うのがたいへん少ない。
特にうちみたいな、狭い敷地面積に無理やり生徒を押し込んでいるような学校だと、空き教室なんてものもないから一人になれる場所と言えば、トイレの個室ぐらいだった。
しかし、屋上なら普段は鍵がかかっていると思われているから人が来ることはないから安心して一人の時間を過ごせる。
グラウンド……とまではいかないまでもその半分ぐらいある空間が、僕たった一人の居場所になるのだ。とても嬉しくて、誰かに自慢してみたくもなるけど、自慢してしまったら僕一人の居場所じゃなくなるし、何より自慢する人なんていない。
結果としてはよかった。
僕に対してのクラスメイト全員の感情が、無関心から敵対に変わったこの状況で、この場所まで取られてしまったとなれば僕は学校に行く気もなくなってしまっていただろう。
そしたら、机の上の花瓶に花を生けることができなくなってしまう。
別にやらなきゃいけないことでもないんだけど、やらなきゃいけない気がしていた。
その仕事も終わった今、休暇を取ってもいいだろう。
そして休暇と言ったら、僕は釣りをする。
別に屋上に釣り堀があるわけじゃなく、小さなため池。魚の姿はついぞ見たことがないその小さな水たまりに竿を垂らすのだ。
沈むはずのない浮きを見つめている間は、何も考えずに済む。
いつものように視界がぼやけるくらいに浮きを見つめていると、ふと、後ろから声をかけられた。
「ねえねえ」