シーン4
心臓が口から飛び出るかと思った。
驚きで竿につながっていた浮きが激しく揺れる。
「驚いた?」
そんな僕の目の前に、にやけ顔の彼女が顔を出した。
人の顔と名前を覚えるのが致命的に苦手な僕でも、さすがに朝に会ったただ一人僕に話しかけてきた人間ぐらいは覚えていられる。名前を知らないけど、彼女だ。
すでに授業の始まっている時間、どうしてここにいるんだろう。だとか、驚かせやがってという怒りだとか、そう言った色々なことを言ってやりたくなるけど、何をまだ驚きで思考が落ち着かない。
「どうしたの?」
何も言わなくなった僕を見て、少し不安になったのだろうか、彼女が聞いてくる。
心配しなくてもいいと、首を横に振った。
「驚いた」
「そんなに……?」
僕は頷いた。
大きく深呼吸して、どうにか気持ちを落ち着ける。
待っていたのだろう。何度かの深呼吸の後、ようやく落ち着いたころに、彼女は僕に話しかけてくる。
「ねえ、何してたの?」
「なにって……釣りだよ」
竿を見ればわかるだろう、と彼女に竿を振って見せた。
「ここ、魚いるの?」
「残念ながらいないんだよな。いっそ放してみようかと思ったときもあるけど、世話できないし、死んじゃった時面倒だし」
勝手に釣り堀に改造してやろうと思ったけど、この汚い水の中で生きていけるのか疑問だ。
「じゃあ、釣れないのに釣りしてるの? なんで?」
「ただぼうっとしているだけじゃ暇だろう? 釣り糸を垂らしていると自然と思考に没頭できるんだよ」
そう、よく考えれば何も考えずにいられる時間が好きなのであって、魚の釣れる釣れないはそれほど問題じゃないんだ。
というより、なぜ僕は彼女にそんなことまでしゃべっているのだろうか。
久しぶりの会話でテンションが上がっているのか?
考え込んでしまいそうになった時、彼女が尚も話しかけてくる。
「じゃあ、今は何を考えていたの?」
「世界中から争いをなくすにはどうしたらいいのか考えてた」
「意外と壮大だった!」
ツッコまれた。楽しい。
そう思う自分に意外さを覚えながらも納得する。毎日毎日、クラスメイト達は何をそんなに話すことがあるんだろうと思っていたけど、こういうことだったんだな。
僕は彼女と向き合った。
釣竿は一旦脇に置く。
「あれ? 釣りはもういいの?」
「ああ」
すると彼女はニヤリと笑って見せた。
「私との会話が楽しくなった?」
どうしようか。彼女が正解だが、認めるのも癪だ。
「あ……」
「どうしたの?」
「世界中から人間を失くせば、大きな争いはなくなるよな」
結論として、誤魔化してみた。
「どうしよう、魔王が誕生してるよ……」
口元がにやけてしまう。
久々すぎて忘れていた。そうか。これが会話なのだ。
「あのさ」
少しだけ勇気を出して僕は言う。
「楽しいよ。お前との会話」
別に言う必要なんてなかっただろう。でも、言葉にしたかった。
「えっ、あ、うん。そう?」
しどろもどろになった彼女。
でもそう言えば、彼女はきっとこのままクラスから村八分になった僕みたいな人とでも話してくれる。そう思ったから。
「えっと、本当に坂井くん?」
「僕が僕以外に見えるのか?」
「だって、印象が全然違うんだもん」
顎に手を当てて考えてみる。
確かに自分でも、こんな感情を持っているなんて知らなかった。
「さっきからすごいドキドキしてるんだけど……」
「心臓発作?」
「そんな持病ないよ!」
慌てたように言う彼女に、僕は笑ってしまう。
僕が何か言えば反応してくれる。そんな当たり前のことがこんなに楽しいんだ。
「結構不安だったんだよ? 馴れ馴れしすぎないかとか、それで嫌われたらどうしようだとか」
「……そう言えば、どうして僕に話しかけようとしたんだ?」
朝から疑問だったそれを、ちょうどいいので聞いてみる。
すると彼女はまた傷ついたような顔をする。
「ごめん、言いたくなかったか?」
「ううん、そうじゃなくて。
本当に……覚えてない?」
またしばらく考えてみるが、僕は首を横に振ることしかできなかった。
「そう……」
「あ、あのさ!」
悲しそうな声。
僕は一つ提案してみる。
「名前、教えてくれないか? もしかしたら、それで何か思い出すかも」
「うーん」
しかし、彼女は考え込んでしまった。
どうしたんだろうか。名前を教えるくらい、そう大変なことじゃないと思うのだけど。
「それは、また今度にしようか」
「なんでさ」
「今のままじゃ、すぐ忘れちゃうでしょう?」
僕は反論できなかった。
たしかに。なんて思ってしまったから。
「ね、釣りについて教えてよ。どんなところ行ってるの?」
「え、ああ……」
露骨に話題を逸らされたのはわかる。
「主に休日に釣り堀なんかに行くくらいかな」
「海釣りとかしないの?」
「冬休みに行ければなと思うけど……」
それでも、彼女の話題振りに乗った。
なんとなく、こうして会話を続けていって、彼女のことを知って、彼女に僕のことを教えていけば、忘れないんじゃないか。そう思ったからだ。
でもその一方で、その必要なんてもうないんじゃないかと思う。
気づいたのは今さっき。
ちょっと自分に優しくしてくれたからと言って、バカみたいに単純だっていうのはわかっている。
それでも、人間の気持ちというものは自分で思っているより、自分で制御できないものだ。
端的に言って、僕は彼女に恋をしていた。