シーン1
「ねえねえ」
最初は自分が呼ばれているとは思わなくて、ようやく彼女が読んでいるのは僕だってことに気づいたのは、彼女の横を通り過ぎて数メートルほど歩き去った後のことだった。
振り返ってみても、やっぱり知らない女の子だった。制服を着ている。僕と同じ高校だ。もしかしたら同学年。本当にもしかしたらクラスメイトかもしれない。顔を覚えていない人が三学期にもなって半数以上いるから、その可能性はある。
そして、その彼女は間違いなく僕のことをじいっと見ていた。
念のため僕は後ろを確認する。
やはり僕の後ろ、彼女の視線の先には彼女を見ている人間はいなかった。
そこでようやく僕が彼女に呼ばれているのだと確信できた。
どうしよう。久しぶりに誰かと話すことになるかもしれない。
「え、えっと……」
自分でも声が掠れているのがわかる。気恥ずかしくて、それ以上言葉を吐くのをやめようかとも思ったけど、それ以上に、なぜ僕を呼び止めようとしたのか、知りたかった。
「なにか用?」
「うわっ、しゃべった」
口をあんぐり開けた驚いた顔を彼女は作った。
そんな驚いた顔をしなくても……。
軽く傷つく。たしかに、家でも学校でも口を開くことは少ないけど……そう考えると、驚かれて当然のような気がしてきた。そう言えばこの前、母さんにも自分から話しかけたら驚かれたような気がする。
まあ、いいや。
「ごめんごめん」
彼女は両手を重ね合わせてごめんのポーズ。
「大丈夫。慣れているから」
「その割りには、結構傷ついた顔をしているけど?」
「どんな顔?」
「世の中の全てに絶望したような顔。あ、それは元々か」
うっさい。ほっとけ。
「で、何の用なんだよ」
「用がなきゃ話しかけちゃ駄目なの?」
「うん」
「酷い! 私のこと嫌いなの?」
「嫌いも何も……」
初対面の相手に話しかけられてどうしろと言うんだ。
「初対面じゃないんだけど……」
「マジで?」
一歩下がって、彼女を下から眺めていく。
細い脚、結構大きいお尻。まな板。そして顔。
「ごめん覚えてない」
殴られた。
「お尻はじっと見たのに、胸は全然見なかった」
しかも怒るところはそこか。
「鑑賞に耐えうる価値はないことは自分でもわかってるけど、そこはかとなくムカつく」
「ごめん」
「なんか、謝られるとさらに惨めになるんだけど!」
「僕が自分の欲望に素直すぎるのが悪いんだ」
「む・か・つ・くー!」
彼女はそう大きな声で叫ぶと、僕の足を蹴った。さっきのパンチもそうだけど、それほど痛くない。まあ、彼女にそんな瓦割りとかできるくらいのパンチ力とかあっても怖いから嫌だけど。
「本当に覚えてないの?」
肩で息をしている彼女が真剣な声音で聞いてくる。
少し罪悪感を覚えながらも、僕は頷いた。
「坂井くんってさ」
彼女が僕の名前を呼ぶ。ってことは本当に初対面じゃないのか。もしかしたらクラスメイトか、同じクラスになったことがあるのかもしれない。
「本当に酷い人だよね」
悲しそうな声音。
なんと言っていいのかわからず、言葉は頭の中でぐるぐると回っているだけで、口から出てこない。
ただ、何か言わなきゃいけない気がして、結局僕の口から出てきたのは、
「うん。知ってる」
という、彼女に謝る言葉でも、言い訳の言葉でもなかった。
彼女がきっとこちらを睨みつける。
ああ、僕は彼女を怒らせたな。
そう思った瞬間、彼女は僕の頬をグーで殴った。
痛くないんだけど、痛いような気がする。
そのまま何を言うでもなく、彼女は僕に背を向けて走っていく。
僕は何を言えばよかったのだろう。
わからない。まだ言葉は頭の中でぐるぐる回っている。
そしてそれは結局一つの言葉に上書きされるのだ。
「まあ、いいや」