花かほる
「――もし、」
後ろから声をかけられたので、もう少しで指先が触れそうだった売り物を諦め、私は振り返った。
目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤。朱や紅色といった、様々な赤であった。それが着物だと気付いたのはもう少し経った後で、彼女の顔にまで視線が行き届くのには更に時間がかかった。そして、思わず息を呑む。
似ていたのだ。猫のような目元や、結い上げられた髪から覗く耳の形だとかが、今は亡き、私の大切な女性に。
しかし、この女は幾分若く、二十そこそこといったところだろう。
「あの」
目の前の女が、遠慮がちに問う。
「その鏡、買われないのですか」
「あ……あぁ」
先ほど手に取り損ねた手鏡を指差され、私は曖昧な返事をした。買おうという強い意志があったわけではないが、なんとなく気になっていた品であったので、どうも歯切れが悪くなる。
「……いや、どうぞ。私はただ見ていただけですから」
「本当ですか。うれしい」
綻ばせた表情などは、ますます似ていた。
女は棚に並べられた他の品には目もくれず、花柄のあしらわれたその鏡をそっと手にする。
「贈り物かい」
「いいえ、自分用に。出掛けの思い出に一枚、欲しかったので」
「ご旅行中ですか」
「はい」
「なるほど」
それならば、と。私は店の人間を呼びつけ、呆気にとられる女を余所に、ぴったり鏡の金額を支払った。
「そんな……申し訳ないわ」
「いや、偶然の好意だと思って受け取ってください」
さらりと嘘をついてしまった自分に、ほんの少し嫌気がさした。純粋な親切心からではないと、自覚しているからだ。
初対面の彼女に亡き女性を重ね見て、できなかったことへの後悔を消そうとする、都合の良い行動に過ぎない。
「……変わった方」
軽く握った拳を口に当てて、くつくつと笑った彼女は、ふと思い至ったように両手を合わせた。
「あのう、この近くに立派な八重桜があると聞いたのですけれど、場所をご存知ですか」
「桜……ああ、」
記憶を探れば、ひとつ思い当たる場所があった。
死んだ彼女が桜を愛していて、よくあちこちへ花見に行ったのだが、そんな彼女が特に気に入っていた桜が、小さな神社の裏に植わっている一本の八重桜だった。立派に腰を据えているにもかかわらず、その存在を知る者は僅かで、本当にひっそりと咲くのだ。その八重桜が今でも一番好きで、毎年この時期がくると決まって足を運んでいる。
「案内しましょうか。少し淋しい所だし、口で説明するのは難しいから」
「それなら……お言葉に甘えて。お願いします」
再びそっくりに微笑んだ彼女に、私は複雑な心地で笑顔を返したのだった。
恋人の小春が死んだのは今からちょうど三年前のことで、あの時の私はとにかく現実が受け入れられなかった。何をするにも息苦しく感じ、日々を気の抜けたように過ごしていたのだ。そうした日常の中で唯一心安らげる場所が、小春が愛した八重桜の木の下であった。
そこは、私と彼女が初めて出会った場所でもある。花見の時期に少し遅れて――丁度、八重桜が花開くころ――何気なく辺りを散策しているうちに神社を訪れ、社の裏に見え隠れする八重桜に惹かれて近付くと、そこには先客がいた。それが、小春だった。それから私たちは、示し合わせることもなく同じ場所で逢瀬を重ねた。程なくして互いに想い合えるような関係になれたのも、あの桜があったからこそ起こり得たことではないかと信じている。私にとって、あの八重桜は小春との思い出そのものだ。
その、半ば聖域のように感じている場所へ、小春に似ている女を案内するというのは、一体どのような縁であるのだろうか。
どことなく落ち着かない気分のまま、私は女を連れて店の外へ出て、左右に伸びた道を右に進んだ。
隣を歩く女の仄かな匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。そうするともう一度彼女のことが気になりだして、私は、ちらりと視線を横に流しては空を睨み、流しては睨みを繰り返すこととなった。
「どうかしましたか」
不意に声を掛けられ、私は当然たじろぐ。
何か、さり気ない会話でも、と焦って思考を巡らせれば、女の赤い着物が目に留まった。
「その……綺麗な柄の着物だね」
「母から借りたんです。わたし、こういう柄物は持っていなくて」
ぎこちない問いかけでも、女はきちんと返してくれた。
「派手なものが苦手なのかい」
「ええ。着飾ると自分を偽っているような気がして、どうにも。実はこの着物、母に押し付けられるようにして着たんです」
心臓が、きゅうっと締め付けられた。
小春も似たようなことを常に口にしていたからだ。派手な着物や髪飾りで見栄えをよくしても、所詮は偽りの姿なのだ、と。故に、彼女は化粧も苦手としていた。
私はあまり深く考えることなく、咄嗟に、
「化粧、とかも?」
言ってしまってから、口元を歪める。
いつの間にか、彼女と小春を同一視してしまっていることに気付いたのだ。
いくら小春に瓜二つだからといって、性質まで同じとは限らない。その証拠に、彼女の顔には、そこまで濃くはないにしろ化粧が施してあった。
ところが、隣を歩く彼女は不審がる表情すら浮かべなかった。
「そうですね、できれば素顔でありたいです」
「……似てるなあ」
ほとんど無意識に漏れ出た言葉に、私は慌てて口元を手で覆った。なんて失礼な独り言だろうか。いや、誰に、とは言っていない分、まだ良いのかもしれない。
「似てるって、どなたにですか」
女が柔らかく微笑んで訊いてくる。若さ故の好奇心を恨めしく思った。
しかしここで無理やり話を切るのも後味が悪そうなので、私は諦めて苦笑した。
「私の想い人にだよ」
「まあ」
「不思議な価値観をもっていて、お嬢さんみたいにお洒落が苦手でね」
くすりと笑う彼女に、私は遊ぶように言った。
「特に、笑った表情がそっくりだ」
「愛していらっしゃるんですね、その人のこと」
勿論だとも。深く頷いた私を見て、彼女は、苦しいような眩しいような、なんとも形容しがたい微笑みを浮かべた。が、それも一瞬のことで、すぐに楽しげなものに変わる。
「……もしかしてこの鏡、その人に贈るつもりでしたか」
「ああいや、確かに最初はそうしようかと思ったけれど、さっきも言った通り化粧気のない女性でね。買っても逆に困らせてしまうだろうから」
それに例え鏡を買ったとしても、直接あの手に渡ることはない。花と一緒に墓に供えに行くのは、あまりにも寂しい。
そんなふうに密かに感傷に浸りながら、つき当たりを左に曲がった。
目指している神社までの距離は遠くはないが、なにしろ道がややこしい。加えて社が、狭くて長い階段を上った所に建っているため、それなりに体力を使う。そんな場所に、綺麗な着物姿で挑んで大丈夫なのだろうかと、少し心配になった。
ところがどうだろうか。目的地前に到着し、いざ社へと続く階段を上り始めると、女は少しも呼吸を乱さずついてくるではないか。一段一段の高さがあるため、嫌でも息が荒くなる私とは大違いだ。ここまでくるともう半分くらいは意地で、私はできる限り減速しないように石段に足をかけていった。
ようやっと社の前に到着したとき、私の額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「大丈夫ですか」
後ろから、気遣うような声がかけられる。ちらりと女を見やれば、彼女は頬の血色が良くなるどころか、汗一つかいていなかった。
まるで彼女だけこの世から切り離されたような、そんな感覚に陥る。
「きみは――」
大丈夫なのか。
そう言おうとして、ふと思い至る。
そういえば、彼女の名前をきいていなかった。私も自身の名を名乗った覚えがない。お互いに、相手の名も知らぬまま、ここまで歩いてきてしまったらしい。かといって、今さら訊くにはなんとも面映ゆい。
私は腹の底にたっぷりと空気を取り込むと、ぴんと背筋を伸ばした。
「そんなに老けたつもりはないんだけどね……」
ぼやきながら、私は女を連れて社の裏にまわった。そうするとすぐに、薄桃が眼前を埋め尽くす。
この時期に満開になる、太い一本の八重桜。大きさに比例せず儚げなその立ち姿に、私は毎年言葉を奪われる。
「きれい……」
女が、呟いた。
「上品で華やかなのに、どこか寂しげ……。だからこの桜は、こんなにもきれいなのだと、そうは思いませんか」
衝撃に、私は目を見開いた。
紡がれた彼女の言葉。それは、亡き私の想い人が囀ったものと、全く同じものだった。
困惑する私の横をすっと通り抜けて、女は木の根元にしゃがみこんだ。
何をするのかと見ていれば、例の鏡を紙袋から、更に着物の袖口から簪を取り出して、それを鏡を覗きながらすでに結われた髪にゆっくりとさしたのだ。
その姿に見とれていると、彼女は立ち上がり、心の底から幸せそうな笑みを浮かべる。
「あなたに、一番に見せたかったの」
愛する者へと捧げるように。
それは紛れもなく、私に向けられた笑顔であった。
「お嬢さん……きみは、一体」
言いかけ、彼女がさした簪を見て、はっとなる。
控え目だが、それでも充分に上品な桜の花があしらわれた――私が大切な女性に贈った、簪。人と同じものは嫌だと言う小春の為に、店に注文して作らせたものだから、見間違えるはずもない。
「小春……」
名を呟いた私に、今まで声を発していたはずの彼女は、ただ無言で笑ったのだ。
笑って、笑って、そうして。
蛍火のようにさらさらと、消えてしまった。
私は目の前の出来事が信じられず、ただ茫然と立ち尽くした。それから暫くして、ふらふらと彼女が消えた場所に歩み寄り、膝を着いた。
そこには、彼女がつけた簪と鏡が落ちていた。
私は恐る恐る簪を手に取り、握りしめて、拳を額に押しつけた。
まさか、そんなはずがない。彼女は――小春は、三年前に不慮の事故で死んだのだ。それに、先ほどの人物が小春ならば、なぜ私は小春だと気づかなかったのだろう。いくら派手な着物や化粧をしていても――いや、そうか。そうだった。
そこで私はやっと思い至った。小春が綺麗に着飾った姿を、見たことがなかったのだということに。
もともと整った顔立ちであったから、化粧をしたらそれは美人になっただろう。それこそ、ふわりと消えてしまった彼女のように……。
「ああ……小春」
君だったのか。すぐに気づいてやれなくて、すまなかった。
嗚咽と共に胸中で囁いたとき、私は簪を受け取った彼女が言った言葉を思い出したのだ。
使うかも分からない髪飾りをもらったにもかかわらず、本当に幸せそうに微笑んで。
その後に命絶えるとも知らなかった小春は。
――あなたに、一番に見せに行くわ。
目じりから溢れ出た想いは、頬を流れて顎へとつたう。
風が、満開の八重桜と一緒に私の涙をさらっていった。