此岸花
鬱々と堆積した汚泥が目覚めようとする体に重くのしかかる。細い体に白い肌、今にも折れそうなそれらを必死で動かしていく。その姿を少し離れた所から見上げている自分がいる。目の前で頑張っているのも自分だというのに。冷めた目で見上げ、見下ろし、視線を交わす。
−−さよなら。
どちらともわからない自分はそう呟いた。
目覚めは意外なほど穏やかだった。体は軽く思考もはっきりしている。昨日の薬がまだ効いているのだろうか。摂取量が多かったのが良かったのだろう。
とりあえず暗闇から頭を出す。最近はコタツの中で体を丸めて寝ている。電源を付けないコタツの中は光も音もない世界だ。そこには温もりだけ。それも自らの体温で暖めた半畳程のもの。いつからか、ここでないと眠れなくなっていた。
視線を周りに向けても、相変わらず部屋にはコタツ以外何もない。冷蔵庫も洗濯機もテレビもゲーム機も全て売り払った。読み終わった本も積んでいた本も売ったし、服も今着ているジャージ以外は古着屋に売り払った。それで手に入れたわずかなお金で薬と栄養調製食品と水を買い込み、家から、コタツから一歩も出ない生活をしていた。そんな非生産的と自覚しつつ充足感に満ちた生活も、終わりを告げている。
長く住み着いていた穴蔵からゆっくりと這い出る。無を感じさせる闇を孕んだコタツも、外から見るとちっぽけな箱に過ぎなかった。それが今の自分を揶揄しているようで自虐の笑みが漏れる。そんなコタツを一瞥し、部屋を出た。未練は無いが、半身を置いてきた寂しさだけはどうしようもなく湧いてきた。
久しぶりに見た太陽は空に黒い穴を穿っているだけの円だった。周りの家も道路も木も草も色がない。真っ白に黒の線で縁取りされただけの味気ない世界だ。その中で太陽だけが質量を持った黒だった。頭がおかしくなったのか、それともこんな世界なのか。−−考えても答えが出ない。だから興味が失せた。よって散策することにした。
家から少し離れた名前も知らない小さな公園のベンチに腰を下ろす。そこの砂場が太陽と同じ質量を持つ黒だった。砂場で子供たちが遊んでいる。版画で描かれたような黒を白で縁取りした姿の子供たちが黒い砂場で遊んでいるのは、戯画さながらの絶景だ。眺めていても飽きがこない。子供たちは黒い砂で山を作っている。なかには小さな山の上に乗って、自分の背丈以上の山を作っている子供もいた。版画の顔は動かないのでそこから感情が読み取ることができない。出来の悪いパラパラ漫画のようにカクカクと動き続けるだけだ。黒、黒、黒−−黒。吸い込まれそうな黒の砂山。奥が見えず、じわじわと膨らんでいくようなその様に、体の奥から震えが来る。気づけばベンチから立ち上がり、砂山を蹴り崩していた。体が黒に吸い込まれることもなく、砂山はいとも簡単に霧散する。それを相変わらず感情の読めぬ子供たちが見ていた。ただ砂山を蹴っただけだというのに、全身の力を振り絞ったかのように肩で息をした。その横で糸が切れていた子供たちも動き出し、こちらには興味も示さずにまた砂山を作り始めた。
手出しする気も失せ、子供たちを呆と眺めていると、静かな公園を劈くような音がした。首だけ振り向くとそこには一台の黒いタクシーが停まっていた。クラクションが五月蝿く鳴り響いている。耳を軽くふさぎ、逃げるようにベンチに腰を下ろした。しかし鳴り止まない。砂場の子供達はいつの間にか姿を消していた。残っているのは黒い砂山だけ。寂しく騒々しい公園にため息を一つつき、車に向かった。ついでに出口に向かう途中で砂山を蹴り崩した。
タクシーの中は概ね快適だった。体を柔らかく包むシートに文句はなかったが、車内の温度が半袖には寒すぎた。運転手はこちらに気を使う様子もなく、ただ前を向き運転をしていた。金額表示は814と出ている。勿論所持金などない。
先程は公園の出口に向かったが、はたと特に行きたい所がないことに気づき、考えもなく騒々しいタクシーに乗ってはみたものの、手段が変わっただけで特に行く当てもなく、どうしたものかと口を開けたまま言葉に詰まったが、幸いなことに何かを伝える前にタクシーは動き出し、今は目的地などわからずただ流れる風景を眺めている。見知った町から見知らぬ町へ。ただ全てが白黒の味気ない町だった。
カチリ、と音を立て金額表示が1円上がった。運転手は道の真ん中で車を止め、細い道にも関わらず強引にUターンをした。今来た道を少し戻り左折する。後は同じ。行く先は未だわからない。
いつしか眠っていた。夢は見ていない。車はすでに停まり、いつからそうなっていたのか、扉が開いていた。扉の外には緩やかな丘陵が見えた。相変わらず白に黒で縁取られた風景だった。白い土には無数の盛土があり、それが黒い稜線まで延々と等間隔で並んでいる。まるで何かが埋められているかのように。
タクシーの中に運転手の姿はない。よって、無一文が表示されている金額を払う必然も無く一歩足を外に踏み出した。途端、足が白い土にめり込んでいった。ゆっくりと埋もれていく足に力を入れてみたが動きそうに無い。水に沈んでいくように腰までつかり、ずぶずぶ、胸の高さに達し、ずぶずぶ、視界が半分埋もれ、ずぶ、闇に消えた。
ずぶずぶとゆっくりと生え出したのは見知った懐かしい畳だった。毛羽立ったい草の感触も匂いも全てが懐かしい生家の和室である。生え終わった自分の姿は薄く白く光り、足首から下は畳に埋もれていた。そしてその足元には携帯電話があり、枕があり、布団があり、母がいた。皺も増えめっきり年老いた顔であったが、その寝顔は昔を思い起こさせるには十分なものであった。
昔は良い子だった。両親の言うことは聞いていたし、目立った反抗期もなかった。素直に両親が好きだったし、尊敬もしていた。それが今ではどこでボタンを掛け違えたのか親不孝者になってしまっていた。大学の研究室にも長く無断で休み、親には連絡も寄越さず、仕送りのみで怠惰に過ごしていた。腐りゆく落果は輪郭を崩し、甘く鼻につく匂いを垂れ流し始め、種無しであるがゆえにその成れ果てはただその身を崩すだけであった。悲壮感も自己嫌悪も麻痺した頭で、心を揺らすこともなく、ただ申し訳なさから深々と頭を下げて、穴に入るようにまたゆっくりと埋没していった。
硬く無機質で冷たい床に生え出すと不思議と体まで冷たくなるように感じた。もう半年は顔を出していない研究室の机の前だった。そこにはもう自分を感じさせるようなものは何も無い。おそらく私物はダンボールか何かに詰められ、無造作にどこかに置かれているのであろう。ここで何かに取り付かれたように研究をしていたのも遠い昔のことのように思えた。ただ、それは幸せであったと今では思う。何かに駆り立てられるような日々は全てに見捨てられた日々よりかは幾分とマシに思えたからだった。
ふと会いたい顔が浮かんだ。行く先が決まった。
ほこりの被った畳の上には乱雑に置かれた本の層があり、その上にはさらに衣服が散らばっていた。部屋の空気は紫煙で満ち、半分消えた蛍光灯の光をなお遮る。その穴蔵のような部屋の中に男が一人いた。机に向かい、咥え煙草で数枚の紙に目を通している。それは以前見た無機質な部屋での後姿となんら変わりないものだった。
「こんばんは」
久方振りに音を聴いたような気がする。自分の口から出た震えではあったが、どこかで聴いたことのある懐かしい音としか思えなかった。男は振り向き、驚く様子もなく上から下まで見下ろし、そしてまた机に向かった。
「久しぶりだな。なにか用か」
男の声色には感情が篭っていないように思えた。
「驚かないんですね」
素直な感想を口にしたが、男が特に興味をひかれた様子は無い。後ろ髪を結んだ頭を小刻みに揺らしながら、紙に書かれた英字に目を落としている。しばし沈黙が漂ってはいたが、その空気は昔から変わらないものであった。
「まだ用があるのか?」
ふいに言葉をかけてくる。男の聞いてるようで聴いてなくて聴いてないようで聞いてる賢しさは往々に周りを困らせるものであった。
「少し話がしたくて−−」
「−−前から言っているが」
流れを切るように言葉を被せ、男は顔だけこちらに向けた。
「俺の興味は生物学にしかない。しかも今晩中に論文をあと六報読み、自分の実験系を仕立て上げなくてはならない」
何度も釘を刺されたことをまた打ち付けられた。昔はその度に狂人だの人非人だのと影で揶揄していたが、今ではその極みが美しくすら感じられた。何の事はない、昔から狂っていたのはこちら側だったのだ。
言い知れぬ充足感に満ちた胸を悟られぬよう、失礼しますと一言残し、その場を去ることにした。
「俺はな」
ずぶずぶと首まで沈んだところで、紫煙の向こうから穏やかな声が届いた。男は新しい煙草に火をつけ、顔を向けずにそのまま続けた。
「俺は少なくとも、お前がいなくなったことを喜びはしなかったよ。帰ってくることを望んでいたわけでもないがな」
そう言うと煙草を灰の山に火が消えぬように突き刺した。紫煙が真っ直ぐに立ち昇る。
「ありがとうございます」
それ以上重ねる言葉はなかった。
女は見知らぬ男に抱かれ、幸せそうに眠っていた。かつては自分がいた場所に他人がいるというのは複雑な気分ではあるが、自ら壊したものに対して慙愧はあれど嫉妬などは何一つない。むしろ喜ばしいことであった。思い返せば、ひどく傷つけ合い、ひどく求め合った女との関係性は、愛などという美しい言葉では飾るようなものではない。単なる共依存に過ぎなかった。鉄条網で囲われた小さな世界で、互いに自らを傷つけまいと寄り添っていただけだ。結局、針より肌という打算で成り立っていた関係におぞましさを感じた自分が針に飛び込み、針を纏い、無理やりに終わらせたわけだ。そこに反省はあれど後悔はない。
寝顔を見つめ追懐していると、女が寝返り、小さく名前を呟いた。男の名前を。自分ではない名前を。
都合のいい話だが、それを免罪符にし、そっとその場を発った。
見渡しのいい場所を求めて顔を出すと、自分が通っていた大学の屋上だった。11階建ての貯水棟の上からは勝手知ったる街が一望できる。ネオンやテールランプが目映く、空の黒さを一層色濃く見せていた。
もう何もない。何も。後はただ朽ち果てるだけ−−その時だった。眼前の建物の屋根に白い植物が咲き始めた。ゆっくりと頭をもたげ、葉を広げ、蕾が綻びていく。花は白く、淡い光を出していた。それは伝播するように、次々と次々と芽吹いていく。瞬く間に俯瞰風景は淡白い光で包まれていく。その光景に魅入られていた。黒い太陽が昇るまで。ずっと。ずっと。
カチリ。メーターの上がる音で気がつくと、そこはタクシーの中だった。メーターは816を示している。窓の外は白と黒の簡素な世界。見渡せば、前も後ろも右も左も同じようなタクシーで渋滞していた。それでもゆっくりと進んでいる。一息つき、何も告げずとも進むタクシーに身を任せ、自分はもう少しだけあの光景に浸ろうと、ソファーに身体を沈め、そっと目を閉じた。
自分で言うのもなんですが、暗喩に暗喩を重ねまくって何が何だか状態です。
夏祭りでは奇特な方に気に入っていただき、評論家よろしくに時間をかけて読み解いていただいたこともあって、伝えたいことやちょっとした仕掛けも丁寧につまびらかにしていただきました。
そういった方に出会える喜びを知る気っかけとなった思い出の一作です。