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二話

「どうしてラキスは一人なのにこんなに広い家に住んでるんだ」


 シンがずっと考えていた事を言うと、皿を洗っていたラキスの手が止まった。一瞬考えてからそうね、と笑う。

「また、時間のあるとき話すわ」

 シンはそう、と関心を無くしたように俯いて、視線で床の、分厚い板の目をなぞる。それは、不満、

だろうか。例えて言うなら。ラキスは曖昧な点が多すぎた。実際のところ、時間なら有り余るほどある

のだ。ラキスが、なかなか家を出ないからであった。そのことについても理由を話す気は無いらしく、

平和や幸福に浸るでもなくただ淡々と、二週間ほどが過ぎた。



      



 ”かなしい”がわからない。

 ”くるしい”をしらない。

 手を伸ばし、周到に罠を張る大人達は、苦しかったろう、悲しかったろうとシンの気を引きたがったが、そもそも彼はその意味を知らないのだ。裏切られた時の胸の傷み、それを悲しみというのだと。誰

もが王を見るときにする視線を一身に受けること、その気持ちを苦しみというのだと、誰が教えてくれ

たのか。

 今でもそんなことを、シンはしらない。感情はあってもその概念を知らないのだ、生まれたばかりの

赤子のように。

 ……それとも、他の子供は知っていて当然なのだろうか。知らないから、追われ、殺されそうになる

のか。

 そう考えたこともあった。

 いつも答えは同じ、そうではない。気付けば独り、人気の無い小道に息をひそめているのだった。


「シンの黒髪は綺麗だね」


「……え?」


 シンは聞きなれない言葉に顔を上げ、ラキスの笑みを見上げると、彼女は不議そうに小首をかしげ

た。

「どうかした?」

「なに……今の?」

「なにが?」

「……綺麗?」

 聞きなれない語句を繰り返すと、ラキスはその青い目を驚きに見開いたが、すぐにその表情も消え

た。何ともいえない顔をして、そう、まるで、シンが自分を殺さないのかと聞いたときのような。

 言ってはいけなかった?

 聞いてはいけなかっただろうか。そんな思いに懊悩しているシンの顔を彼女は心配そうに覗き込ん

だ。

「大丈夫? あの、なんて説明していいかわからなかっただけなの」

「大丈夫……だと思う」

「そう」

 ラキスはほっとしたように笑み、立ち上がる。後ろに立っていた本棚のほうに向き直り、その中から

銅色の表紙を選び出して手にとり、シンの横で開く。

「感情は自分で覚えるしかないの。ほかの事は教えられるわ。字とかね」

「じ?」

 シンが首をかしげると、彼女は本の中の一文節を指差す。それは覗き込むと、赤と緑の二色で刷って

構成された――なにか意味があるらしい――文章の中、緑色の語群の一番上の文章であった。ラキスが

それを丁寧に読み上げる間、シンは左の頁の挿絵らしきものを眺めていた。たくさんの細い線とその上

に描かれている白い蛇のような絵は、ラキスの読んでいる文章から、くもの巣のようなものに絡め取ら

れた白銀の竜だと思われた。

「細かいんだね」

 ぽつりと感想をもらすと、ラキスは顔を上げてにっこりと笑う。

「ええ。この本の絵って綺麗ですきなの」

 シンは再び、その挿絵に視線を移す。

「……綺麗……」

 ちらりと見上げたラキスの髪の、燃えるような紅が、目に付いた。



      



 しんしんと、雪が降っていた。ほたほたと落ちては積もっていく雪のなかを、女は歩いていた。そ

の、作業用の長靴を履いた足がすねまで積雪の中に埋まっては歩を進め、埋まっては歩を進める。さく

さくと軽快な音を立てながら、まちまちに並んだ街灯の明かりだけを頼りに、暗い夜の道を。

 やがて家出でもしたのか、少女が一人、前の道を横切るのが見えた。

 すると、女の足は止まっていた。

 再びゆっくり歩き始め――今度は街灯ではなく、それに照らし出された足跡を頼りに。広場で項垂れ

ている少女を見ると、口元に小さな笑みを浮かべた。



      



 シンは大きく伸びをして、ベッドから身体を起こした。正直まだ毛布からは出たくないが、そうも言

っていられないので、思い切って冷えたブーツを履き、上着を多めに重ね着して部屋を出る。ラキスは

この寒さの中で水仕事をしているだろうから、手伝ってあげなくてはと、食堂へ向かう足が自然と速く

なる。

「……おはよう」

 声をかけてもいつものような元気のいい返事が無い。どころか水の音すらせず――食堂は、無人なの

だった。シンは不安を感じて家中探し回ったが、やはり彼女の姿は何処にも見えない。漠然とした焦り

を感じて玄関へ向かい、扉を開けようとし―――開かない。

 仕方なく窓から外に出ると、外開きの玄関扉に背を持たせかけて、ラキスが寝ていた。

「……なにしてるんだ」



「あはは、ごめんなさい。私ってどうも夢遊病の気があるみたいなの」

 明るく笑うラキスを見てほっとする反面、真の胸中を何ともいえない思いが満たした。彼は呆れ顔で

大きくため息を吐く。

 朝、ラキスが身につけていたものは全てびしょ濡れで、洗濯場に直行せざるを得なかったのである。

厚手のコートからマフラー、手袋に至るまで、水が滴るほどで、彼女が一晩中あそこで寝ていたとしか

考えられなかった。

「風邪を引いてるじゃないか。おれが何か作ってくるよ」

「出来るのー?」

「見て、覚えた」

 意地悪そうに笑っていたラキスは意外そうに目を大きくした。

「そういうもの?」

「……おれ、おかしいのか」

「というか、個人差があるの、こういう事は。羨ましいわ」

「そう、なんだ」

 言葉を選んでくれているのが判って、妙に居たたまれなくなった視線を逸らし、シンは俯いた。


 ラキスは今日一日眠っている方がいいだろう。

 少し退屈になるな、なんて考えつつ、玄関の前に落ちていたローカル誌を広げ。少しだけ、否、ラキ

スのお陰で大分字を読めるようになってから、彼は書物を種類問わず読み漁ることに楽しみを見出すよ

うになっていた。物語から近代の学術書にいたるまで、特にこの”新聞”というのは周りで何が起きて

いるのかも描いてあるし、とにかく、暇つぶしにはもってこいなのである。

 開いた紙面の真ん中、大きな文字が目に付いた。新聞に噛り付くようにして読みふけっていたシンの

視線が、そこで、止まった。

 ―――”真夜中の蛇”

 夜毎出歩く人間を絞殺する極悪非道の殺人鬼。よくある話ではあるが、一晩中外に居たラキスがも

し、と思うと――ぞっとした。

 新聞紙を握りつぶすようにしてゴミ箱に投げ捨てると、彼はそのままの足取りで洗面所に向かった。

出されたままになっているコートとマフラーに違和感を感じたものの、やはりその正体は掴めなかっ

た。

 そしてふと思い出す、裏庭の景色。それは――そこにあったものは。

 ―――何か見えた?

 ―――何も。


 砂嵐。

 がばっと、身体を起こしたのは夕方頃だろうか。がんがんする頭の傷みに顔をしかめながら窓の外の

風景に目をやると、真っ白な雪の上に斜陽の橙が広がっていた。お互いに手を振り各自自分の家に帰る

のであろう子供達の姿がその中に一際映えていて、ああ、”あれ”に憧れた時期もあったな、なんて考

えていた。

「シン! よかった、起きたのね?」

「……ラキス?」

 シンが見上げると、彼女は安堵の表情で頷く。

「廊下で倒れてたの」

「………おれは」

 ラキスを見上げる少年の、その人形のように可愛らしい顔が悲しげな表情をかたどったが、彼はそれ以上は口を噤んだ。

 思い出したように後頭部が痛んだ。



      



 ところで、此処は世界で一番寒い地方らしい。らしい、というのはシンがあくまでこの国の中しか知

らないからだが、実際碧道の近くは何処もこんなものである。南の方が寒いのは、その度合いは違えど

万国共通なのだから。同じ国の中でも年中雪と氷に閉ざされた不毛の地。なればこそ、この世界で南の

果てに住む人々は肉を主食とし、狩りを生業にしている。最近は北からの商人が野菜や穀類を売りに来るようにもなったが、それ以前は食糧不足になったら人を喰うだのなんだのと噂され、蔑視されること

も多かったという。それを主に南北間問題と騒いでいた者たちも居たらしいが、その頃はそれもあなが

ち嘘ではなかった。そうでもしなくては生きていくことすらままならないのだから。


 本で読んだ内容を反芻しながら、シンはその町のメインストリートを歩いていた。昼なので人通りも多いが、上着の上からさらに褐色のマントを羽織り、フードで顔を隠すようにしているので、目の色ま

ではわからないのである。

 丁度武器屋の前で足を止める。道の端では、人のよさそうな商人の若者が商売の合間の息抜きがてら

操り人形で芝居をしていた。それを見に行っておいでと、ラキスが言っていたのを思い出した。

「……狼は最期の力で少年に噛み付きました。少年は必死にそれを離そうとしましたが、そうしている間にも”虚無”は迫ってくるのです……」

 周りで聞いていた子供達が続きを催促したが、商人はまた明日、と笑いながら人形の片付けを始め

た。子供達がけちとかいじわるとかブーイングを飛ばしながら去っていくのを眺めつつ、シンは初めてラキスと読んだ本の内容を思い返していた。芝居の内容はそれと同じで、だからラキスは行ってるように勧めたのだろう。

 ”虚無”に飲み込まれる寸前で少年を救いです白銀の竜。

 ――おれにも、いてほしかった。


 商人は一人ぽつんとそこに残っているシンを見つけると、下を向いたままの彼の前まで歩いてきて膝

をついた。

「少年が心配かい?」

「えっ……えと」

 たじろいだ少年になおも青年は笑いかける。人好きのする笑み。

「それとも悩み事かな? 暗くしてるとかわいい顔も台無しだ」

「……なんでも……ない」

 可愛いと言われたことが少なからず堪えたのか、シンは小さくそれだけ言ってその場を離れようとし

――ふと、立ち止まった。商人を振り返り。

「真夜中の蛇って知ってる」

 抑揚の無い声でそう聞く。

「……? いや、なんだいそれは」

「夜は危ないから外に出ちゃ駄目って、新聞に書いてあったから」

 商人は子供の冗談とでも判断したのか、気をつけるよと苦笑して歩き去った。あとは、ただ、点々と足跡。

 周りで遊んでいた子供達の姿も、道を歩いていた人たちさえ忽然と姿を消し、家の中から息を潜めて

外を窺う気配がする。

 ”王”だからではない。もっと別の―――よそ者を、他者を拒絶する何か。


 雪の白が、映えている。一面を覆う、純白と、その下で息を潜める悪意。

 シンか商人が”蛇”だと睨んでいるのだろうか。


 その場はさっさと踵を返したシンの内心に、少しの焦りが生じた。


 もし、ラキスが今夜も昨日と同じようにしていたなら、次に危ないのはラキスではないか。そう思った。

 自然と、早足になった。






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