アナザーサイド・起章一話
ここから主人公が変わります。一章ごとにバッドエンドなので、いやんな方は本編で留めておきましょう。
Side:"King"
…起章
1.
彼と対を為す彼女がまだ幸せであった頃の噺。
国には、独自の文化というものが往々にして存在している。他国の者からしてみればくだらなさ過ぎ
て笑うしかないようなことすら彼等現地の人間にとっては死活問題なのである。ある国では邪神が崇め
られていた。ある国では学問こそ心理であると信じられ。
またある国では、”変化”すること、他人と違うことは禁忌とされていた。しかしあるとき、それを
乱す者が現れた。彼の力は強すぎ、彼の心は純粋すぎ、彼の自我は臆病すぎた。故に力を封じられ、忌
むべき者達の”王”とされた。禁忌は更なる厄災を呼び、厄災は人に滅びをもたらす。
故に憎め、人よ我らが王を追い、厄災を払うべく殺すべしと。翠の瞳に黒髪の、目印を探す。
それは終わりの無い壮大な宿業であった。王は追われ、民は追ったとて強すぎる王を殺すことかなわ
ぬからである。
そして、幾百年の時を彼等は過ごしていた。
凍えるような雪の中、彼の歩いた後にだけところどころ紅が落ち、深い白を吸い取っていた。
少年は十にも満たない年齢であると思われた。背格好から見て七つか八つほどの、幼い姿。小さな手
で押さえている肩の傷は凍りついていて、そのお陰でいつしか血は止まっていたのだった。真っ黒な髪
は肩より少し長く、乾かして梳かせばさぞ美しかろうと思われた。小さな足跡が彼の幼さを強調する
が、それは少年の後ろ、はるか遠くから続いているのである―――。
それから何時間経っただろうか。少年――シンの肩が小さく震えた。前方に見えた人影が、こちらに向かっているのが、彼の目に映った。
――逃げなきゃ。
そうは思っても硬直して思うとおりに動かない体が憎たらしい。途方に暮れる彼の視界に、人影はどんどん大きくなっていく。近付いて来る。緩慢にではあったが、少年の目にそれは風より速く、そう、その、眼前にまで迫っていた。
その影は、女の形をしていた。それは彼の姿を確認するなりシンに向かって走り出した。恐怖と猜疑
に見開かれたシンの目は深い翠――王、なのだった。
「……あ……」
とっさに後じさった彼を殴るでもなく斬りつけるでもなく、女性はシンの前にしゃがみこんだ。目と
髪の色に気付いていないのか。否、そんなはずは無い。恐怖に竦んだ彼を、女は心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
差し出された手が、悪夢のように脳裏に焼き付いていた。
――大丈夫?
そんなわけない。今度は何の罠なのか。ろくでもない仕掛けが、その背後にはいつもあった。王であると知っていても優しく接してくれた人たちも、ふとしたきっかけでシンを殺そうとした。誰かが死んだ時、何か大切な物が壊れたとき、全てが王の所為だと、シンが生きているからなのだと、狂ったように叫んでは殴りつけ、剣を振りまわした。良い目など見たことがない。肯定は拒絶の前提でしか成り立
たないのだから。
厄災を断ち切れ?
わが身を守る為に?
――否、それは理由の一端でしかないのだ。大体は最初からサンドバックにする予定であったりもする。そして、やり場の無い怒りは全て王へ帰結する。
どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。
ただ、走り続けた。自分と同じくらいの子供が傍らでは慈しまれ、祝福を身体一杯に浴びて走りまわっているのに。それを横目で見ながら走り抜け、もっと、もっと先へと。誰も居ない場所目指して。
全ての人間に憎まれることと孤独であること、いったいどちらがより耐えがたいのだろう?そんなことを考えながら。
銃の音。世界が反転し、目を覚まして肩の傷の痛みを思い出す。
「ぅあ……っ」
飛び起きようとしたシンは左肩の傷を押さえて背中を丸めた。肩を流れ落ちた黒髪を忌々しげに見つめ、その存在を否むように目を閉じた。
「…………いらない」
「まあ! なんて失礼な子だろう、見もせずにいらないだなんて!」
大きな、嫌味の無い笑い声。
恐る恐るあけた目に最初に映ったのは、赤毛を背中で纏めた若い女性の姿。両手のマグカップを部屋中央の机に置くと、まっすぐに彼の方へ歩を進める。改めて見まわすと、シンは長方形の部屋の、窓際のベッドに寝かされていたようである。質素なつくりではあるが流石に女性の部屋、きちんと整理された本棚や壁にかけてある小さな絵などが印象的だ。
女性はベッドの横に置いてあった椅子に腰掛け、シンの顔を覗き込んだ。
「もう大丈夫そう? 酷い状態だったのよ。あっちこっち擦り切れたりひび割れたり……肩の傷もね」
「……大丈夫」
「動かないで。治ってないんだから」
「すぐに……なおるよ」
半ば無理に出て行こうとするシンを引きとめ、頭を撫でようようと女性が手を伸ばし――
「――ぁ、ぁあああっ!」
ものすごい悲鳴をあげつつシンがそれをはたいた。勢いで左半身から倒れ、肩の痛みにしばし声にならない悲鳴を上げる。肩を押さえる手は傷みにか恐怖にかひどく震えていた。弾かれた手を何処にもやりようが無くそのままの体勢で立ち尽くした女性を、怯えきった少年の目が見上げた。先程までの態
度、物静けさは嘘のようで。
彼女は暫くそのまま茫然としていたが、やがて我に却ってシンを見下ろす。
「ご……ごめん? 私なにか悪いことした?」
女性は肩に巻いてあった包帯に血が滲んだのを見ると慌てた素振りでシンを抱き上げ、ベッドに戻す。
少し落ち着いたのか、女性を見上げた彼の目はそれでも涙ぐんでいる。
「……いい。……怖い。放っとけば、死んだのに。そんなに、憎いか。おれが、おれが……」
無表情に繰り返す、覚えたばかりの言葉の羅列。その意味よりもこめられた負の感情の方がひしひしと伝わってくるようで、女性は何ともいえない表情をした。せめて泣いたりするならばまだ人間的といえたが、それすらしないのはひどく、不自然な気がして。
「王なの、わかるくせにどうして助ける……」
女性はなんと答えようもなくすっくと立ち上がると、扉に向かい歩き出し、思い出したように少年を振り返った。
「ココア、冷めちゃったかな。飲めるようなら、飲んでおいてね」
私はこんな小さな子に酷いこと出来ないからと、吐き捨てるように言って部屋を出た。ぱたりとしまった扉を、シンはしばらく見つめていた。やがて視線はカップから立ち上る細くて白い湯気へと移る。――それが、正しいこと? 本心だと?
―――今更何を信じろと?
シンは南へ、南へと逃げていた。遠い、ひたすら人の居ない場所をめざし。それなのにこの呪力の少
なさとタイミングの悪さときたら。誰が考えるだろう、”幻視”で違う色に見せていた髪と目の色が不意に人前で戻ってしまうとは。
同行していたのは大道芸で生計を立てている家族であった。大人たちは子供のすばしっこさには追いつけず、ただ一発の弾丸が逃げる少年の左肩を貫通した。ほかの国にも行ったことがあるんだと、自慢気に見せてくれた銃。奇しくもそれが、シンの肩を貫いたのだ。たった一回だけ火を噴いて。
降り積もる雪に足をとられながら、シンは走り続けた。防寒具一つ身に付けず、碧道直下の極寒の雪原を。
一時間ほどしただろうか。ラキスと名乗った赤毛の女性は野菜スープと焼きたてのパンを並べただけ
の質素な食卓にシンを連れ出すと、有無を言わせずに椅子に座らせた。
「あ……あの」
「うん? いらないってのはナシよ?」
にっと笑ったラキスに向かって小さく頭を振り、下を向く。表情の変化は見て取れない。
「……こういうのは初めてで……なんて言ったらいいかわからないんだ……」
シンの目線が所在無さげに、膝の上でそろえられた両手に落ちる。ラキスは意外そうに目を見開くと、ありがとうって言うんだよと苦笑し、それを真剣に復唱するシンの横顔をいとおしげに見つめた。
彼はこんなにもふつうの、少年なのだ。
そう思うと、少しだけ安堵した。彼女もまたこの国の人間で、「異質」を無意識に恐れていたから
か。
「それで、そろそろ名前くらいは教えて欲しいものね」
少年ははたと顔を上げ、シン、と一言呟いた。
「……多分」
「多分?」
「……そう、呼ばれたような気がするから」
誰にかは覚えていない。
ぼんやりと。誰かの影を追うように、顔を上げた。
「ラキス……は、おれを憎いとおもわないのか」
不意の問いにラキスは怪訝そうな顔をして、シンを見下ろした。
「私は、そんなの間違ってるって思うから」
シンはその真剣な視線から逃れるように、窓の外へ目を向けた。吹雪も大分収まってきたからか、周
囲に民家があるのがおぼろげに判る。
「皆、おれが生きているのは悪いことだって言う。おれのせいで悪いことがあ
るんだって」
「シンの所為で起きた悪いことって何なの?」
「………知ってたらこんな」
「うん?」
言葉に、詰まる。
声が出ない。目元を覆った両手にぐるぐるに巻かれた包帯に、じわじわと無色の染みが広がった。
「泣いてるの?」
「……わからな、い」
「そう」
酷なことを聞いただろうかと、ラキスの胸中を複雑な思いが満たす。こんなに普通で――こんな基本
的なことも、彼は教えてもらえなかったのだ。
会話は、無い。暫く、小刻みに震える小さな肩を撫でていた。
カーテンの隙間からの光で、目が醒める。その頃には雪も止んでいて、見通しの良い雪原にある町並
みが窓の外に広がっていた。どうやら此処はそのはずれに位置しているらしいことが距離でわかる。高
床式の家が何軒かごとに一つのエリアを構成し、それは町の広場と、そこにあるひときわ高く、白い壁
が印象的な時計塔を中心に広がっているようである。
町は上空から見下ろすならば円か、それに良く似た形をしていることだろう。やがてちらほらと人が
屋根に登って行きを降ろし始めるのが見えた。この家ではラキスが一人でやっているのかと思うと、シ
ンはなんとなく悪い気がして台所に足を運んだ。
「……おはよう」
「あら? 早いのね」
「……屋根」
シンが何を言いたいのか良く理解できないらしく、ラキスは首をかしげる。シンはというと語彙が極
端に少ない為、なんと言えばいいかわからないので、おもむろに窓の外の風景を指差した。やっと理解
できた彼女はそれを見て笑う。
「ああ。うちはまだ大丈夫よ。それより、朝食の準備を手伝ってくれる?」
シンが頷くと、食器棚からとった皿をシンに手渡し、ラキスは自分の作業に入った。ふと見上げたそ
の背中に違和感を覚え、シンはその場に立ち尽くした。
部屋全体に充ちる”異質”を、感じた。
何が、と特定はできないが、広い台所。大きすぎる食器棚。玄関の、大小二つある扉。漠然と。
台に食器を並べ終わると、シンは広い家の中を歩きまわった。良く見ると裏口の扉が少し開いていて、それを閉じようとして伸ばした手が思わず止まった。裏口から出るとそう広くない庭があったが、
扉の隙間から見える風景の中にかなり場違いなものを見つけたのである。
それは、人の、
ばたん、という音で我に返ると、その風景はもう目の前には無かった。ラキスがシンの後ろから手を伸ばし、扉を閉めたのだった。
呆然と自分を見上げるシンに穏やかに笑いかける。
「何かみえた?」
「何も」
「そう」
特に怖がる様子も無く頭を振り、シンは彼女を見上げたが、ラキスはそれ以上何も言わずに朝食が出
来たから呼びに来たのと、笑った。踵を返して歩いていく彼女のあとを追いながら、妙にほっとしたよ
うな気分になっていた。ああいう光景を見慣れているだけかもしれないが。
それは、人の、屍体であった。
というか恐らくそうなのだろう、と思う。雪がその部分だけ紅く、溶けていたところを見ると、出血
も只者じゃないだろう。仰向けに転がっていたそれは上から硬いもので何度も殴打されたのか、頭は割
れて眼球も軽く飛び出していた。
その、開ききった瞳孔に、吸い寄せられるように目が行った。
そして唐突に閉められた扉。ラキスの言葉。
……安堵。
信用、しなくて、いいんだよ。
そう囁いているようなその背中を、暫くじっと見つめていた。




