八話
8
―――あんたのこと、実はわたしもどう思っていたんだろう?
………狂おしいほどのその想いから、今はまだ、目を逸らす。
毎日が実感無く、非現実的に過ぎていく。それはイアラ自身がその日常から
離脱したいという願望の現われなのか、そもそも日常が意味を無くしてしまっ
たのか。
恐らく後者だろう。
血しぶきも怒声も悲鳴も屍も何もかもが色をなくした戦地で大剣を抱え、足
元に視線を落とす。見ているうちにだんだんと色を取り戻してく世界を見てい
ると、虚しくなった。少し視線を上げれば死屍累々と続くのはまさに自分が通
ってきた道のりで、それは大して長くないことが判った。後ろに大群を引き連
れ、前を見れば敵陣から第二軍がこちらに突撃してくるのが見えた。何気なく
騎兵など従えている様が、やけに滑稽に思えた。どうせ潰してしまうのだから。
――この大剣が。
小隊を引き連れた背中が、ざわつく。
一人なのだと、改めて実感する。
上官の背中を撃つ輩は居るだろう。しかし護ってくれるような兵士は居ない
のだ。ガラフが居なくなって少しだけ階級が上がり、イアラは隊長でありなが
ら、この中で一番幼いのだから。
妬み。嫉み。それと好色。間違った興味。好奇の視線。今まで、自分が彼に
随分護られていたんだと、改めて認識しため息をつきながら。
大剣を構える。
そして、衝突。
騎馬を優先的に叩き潰しながら、あわよくば自分を撃ち殺そうとしている味
方の銃口の気配を感じて逃げるように場所を移す。敵に囲まれる形になったが
銃は持っていないので特に恐れるでもなく大剣を振り下ろす。目の前の男を両
断し、地面に突き刺した剣の柄を軸にして横に飛び、後ろからの矢を回避しつ
つ右から斬りつけようとした少年兵の手首を蹴り上げて剣を飛ばす。腰から引
き抜いた短剣で真っ直ぐにその喉を貫いた。中腰になって左からの殴打をやり
過ごし、大剣を引き抜いて地面に平行に一閃して大半の敵兵を上下に分割、残
りを追撃に走る。
瓦礫の山を視界の端々に捕らえながら、燃える町を駆け抜ける。剣を持って
いないほうの腕で汗を拭い、振り返って背後を確認。壁に背中を押し付ける。
――まるで、戦いに逃げているみたいじゃないか。
自嘲気味にそんなことを考えながら。もう見回すと敵は散り散りになってい
た。
撤退の合図を出し、踵を返す。酷使した体は疲労を訴えていたが、それもど
うも現実味に欠けるものだったので、無視して空を見上げる。空だけ見ている
とてっぺんまで透き通るような晴天で、こんな争いとは無縁のように思われた。
いつしか、トラックで話した少年も隣を歩いていた。会話は無い。沈黙は破
れることも無いようだったが、意外にも隣を歩いていた少年の声と背中の痛み
が彼女を現実に引き戻した。
「イアラ!」
「な……っあ…?」
膝をつく。口内で、鉄の味がする。背中を撃った弾は彼女の薄い体をやすや
すと貫通するに至ったらしく、腹部にも赤い斑点が、やがてじわじわと広がっ
た。
少年が慌ててイアラの肩を支え、抱え上げられた所に第二撃が襲う。腹部を
もうひとつ、弾丸が貫通する。
少年の怒鳴り声を最後に、暗転。
「仲間からだってな」
リックが、苛々と指で机を弾いているのが見える。イアラは悪かったよと投
げやりに言うと、目をとじた。
「あいつさ、新入り、だったん、だ。わたし、は大丈夫……だから」
そこまで言うと、不意に痛みに顔をしかめる。怪我したところを抑え、図書
館でガラフはこんな傷を負ってまで地下に駆けつけたのかと、半ば感動まじり
に考えていた。何が辛いかと言うと、信頼が篤いとはいえ中には”こういう”
輩も居るのだと言う事。
「そこまでして庇うほどの相手かよ?」
「あんだけ肝が据わってれば、大物になれるよ」
苦笑する。
リックは尚も不服そうに、イアラの顔を覗き込んだ。
「……お前、また泣かなくなったな」
また、というのは恐らく、ガラフに拾われた当初と比べて言っているのだろ
う。
「そうかな」
「人は本当に悲しいときには泣けないらしいぜ。――イアラは、悲しいんだ。
ガラフのことが、好」
「嫌いだ」
リックが言い切らないうちにそれを遮ったイアラの声は、どこか必死さを感
じさせた。寝返りを撃ったその背中がやけに小さいのは、何かを恐れているか
らか。
「……わたしは、親しい人を傷つけたりしない」
そうでも思わなければ、結果はあまりに残酷で、受け入れがたかった。
「――傷つけた、か」
ゼロの自嘲するような声が、リックの後ろで聞こえた。彼は黙って頭をふり、
それを否定した。それでもゼロにはやはり、自分の想いさえもイアラの重荷に
なっている気がしてならないのだった。自分さえ居なければ、イアラはガラフ
のことを父のように、兄のように慕っていたのだから。
「―――わたしは……ガラフに酷いことをした」
「今のてめえはなんなんだよ!」
突然の大声に、少女の肩が小さくはねた。リックは構わず胸座を掴んで自分
の方に引き寄せ、多少強引に彼女の上半身を起こす。イアラは小さく呻き、両
腕で腹部を抑えた。
「オレらは何も話してもらえずに、どうすりゃいいんだよ!」
「……っ、ごめ……」
「謝るんじゃなくてさ、もっと……オレでもゼロでも頼れないのかよ、なあ…
…」
イアラの両肩に手を置き、下を向いたきり黙りこんでしまった彼を、やはり
見ているだけだった彼女の目にようやく感情らしきものが揺れる。
――後悔、であった。
「……情けねえな。そんなんじゃ頼り甲斐もなさそうだ」
「明日はいくなよ」
「ああ。……頑張るからさ、少し、一人で居て良いか」
リックは顔を上げ、そうか、と微笑ってイアラに背を向けた。横に居たゼロ
もちゃっかり連れていかれたらしく、甲高い苦情の声が暫く聞こえていた。彼
女は扉が閉まったのを確認すると、すぐに毛布を頭から被って、背中を丸め。
シーツを力いっぱい握り締める両手からは、取れなくなった血の匂い。止め
処ない涙は後悔するのが遅すぎたことに対する後悔。痛いのはガラフに抉られ
た肩ではなく、別の人間に向けるはずの憎悪を彼にぶつけてしまった心。胸が
苦しいのは、ガラフに対して抱いていた、淡いどころか自覚もしていなかった
想いを自分の手で砕いてしまったから。許せないのは、側で支えてくれていた
人たちをないがしろにしていた自分自身。
握り締めた手に、力がこもる。
―――――信頼してた?
………きっと他の誰よりも。
「たとえばさ」
中央図書館の中庭を歩きながら、イアラはうんと背伸びする。右肩にはゼロ
が陣取り、後ろではリックが首をかしげた。
「わたしが壊れて戻れなくなったって、あいつなら殺してくれるだろ?」
「迷惑な信頼だな」
少女は子供のような笑みを浮べて彼を振り返る。その金の目には、言葉と裏
腹の真っ直ぐな光と優しげな色。
「わたしはあいつが、大切だった。故郷とおんなじくらいに」
リックは立ち止まると、暫くその後姿を眺めていた。深海の色の瞳は小さな
背中を捉えて小さな波を立てたが、それもやがて収まり、思考は別の方向へ漂
っていく。
――知っているだろうか、彼女は。
結果いろんなものを失いながら、一番慕う人に一つの地獄から逃れる道を自
分が与えたことを。……否、知らないだろう。それは自分のエゴから生まれた
悲劇と信じてやまないから。ガラフが、そう考えているのと同じように。
「必然だったのかしら」
いつしかリックの側を飛んでいたゼロが、羽音とともに小さく、呟いたのが、
聞こえた。
「だとしたらどちらが犠牲になって、それを土台にして幸せを掴もうとしてい
るのはどっちなのかしら」
「むずかしいな。……ガラフはイアラの心を砕いて自由を掴んだ。イアラはガ
ラフの贖罪の気持ちを踏みにじって”生きて”いられた。そしてどちらの胸に
も確かに残っている後悔。オレは、どうにも平行線のような気さえするよ」
ざわざわと草木が踊り、唄う。何もかも忘れさせてしまうような晴天の中か
ら、あの巨漢を追って行き着く先もまた晴天であれと、願う。イアラは今日に
でもこの町を出たがるだろう。十六の誕生日にガラフを探しに出ようというリ
ックの提案を、彼女はすんなりと受け入れた。リックもまた、それを口実に軍
や、その役割から逃げるつもりなのだと知りながらも。
石畳の感触が靴裏に伝わる。こんな晴天は何日か振りである。
「オレに出来るのは、この代償がきっとあるって信じることくらいか」
花が舞う。出発前にドナから貰ったものだったが、どうにも自分には合わな
いようで。イアラはふっと微笑み、もう一本、花を手放す。風に舞い、遠のい
ていく花を眺めて、トラックの荷台に背中を預ける。
「久し振りだ。畦道を車で行くのは」
「へえ? イアラは何してたんだ?」
がたがたと、心地良い揺れを感じながら、リックの方に視線を移す。
「わたしは――……」
「何?」
聞き返した彼に返ってきたのは流れた言葉の内容ではなく、笑みであった。
思い出したくないのか、ただ良い感情は無いのだろうという事をなんとなく察
して、それ以上は何も聞こうとせずに同じように周囲の風景を眺める。郊外ま
で来ると、もうとんでもない田舎に来たような風情ののどかな景色。両側に広
がる田園風景が、イアラの故郷と重なるのなら、彼女は今どんな気持ちで居る
のだろうか。
過ぎていく風景を見ながらそんなことを考える。
「………わたし」
「うん?」
「皆のこと大好きで、」
ゼロは彼女の頭の上でじっと動かない。ただ、ただ、そうしているだけで、
イアラの想いは痛いほど伝わってきて、どうしようもなく、切なかった。
「村が大好きな、普通の、」
「うん」
「普通の、女の子だったよ」
詰まりそうな声を押し出したイアラの頭を抱き寄せ、リックは敢えて彼女の
顔を見ないようにしながら。
遠のいていく道の向こうに、もう今までぼんやり見えていた町は無い。緑と
青の境界線もじきにぼやけ、流れて落ちた。




