七話
7
「ただいま」
部屋のドアを開けるなり倒れそうになったイアラを支え、リックは叱りつけ
るような目で彼女の痣だらけの肌を見下ろす。
「……今日で何日目だ? また何も食わないのか」
「明日は食うって」
「もうそれを五回は聞いたぞ」
イアラは彼の不服そうな顔を見上げ、苦笑する。
ガラフが行方不明になってから十日も経たないうちに彼女は戦場に復帰した。
食事を撮らずに、もう二週間にはなるのではなかろうか。そろそろ限界を迎
えてもいいはずの体で、彼女の戦果は華々しく、仲間からの信頼も篤かった。
イアラは殊更、護ることに長けているそうだ。だから何だと、リックは思う。
幼い少女が毎日のように荒野を駆り、ぼろぼろになって帰ってくるのに、彼
は気が気ではない。見ていられなかった。それはゼロも同じようで、毎日のよ
うに帰って来た彼女に急いで寄って行っては心配そうな顔で首をかしげる。場
合によっては目に涙を貯めて、今のように。
「明日は休もう? イアラ、体が持たないわ」
「ゼロ。残念だけど」
そう言うと何とか自分の力で立ち上がり、寝室に行く。その後姿を見ながら、
リックは何事か呟いたが、ゼロには聴こえない。心を読むことも出来なくは無
かったが、今彼がどんな気分でいるか痛いほど判ったので、やめた。
彼は机に肘をつくと、大きくため息をついた。その目は宙を彷徨い、結局は
いつもそうするように食器棚に飾り程度に置かれている一輪挿し、それに生け
られた白い花を力ない目で見つめるのだった。
一方でイアラは自分の寝室に入ると、部屋の隅に置かれたベッドの前までふ
らふらと歩いていき、力なく膝をついた。マットにに寄りかかり、大きくため
息を吐く。ベッドに載った右腕でシーツを手繰り寄せ。
……判っては、いる。
リックが心配していること、ゼロが自責の念を抱いていることも。
完治していない肩の傷を抑える。無意識にその左手は傷を深く抉るように指
を食い込ませていたが、彼女はシーツに顔をうずめてそれを気にする様子もな
かった。自分の肩さえ握り潰さんばかりの勢いで肩を締め付けていた少女の手
を、リックが後ろから止めた。やんわりと。
その手の感触とは裏腹に、彼の声色は厳しかったが。
「何してた」
「何も」
「傷が開いてる」
「今日は特に暴れたからかな」
「……明日も行くって言うならオレはお前をベッドに縛り付けても止めるぜ」
イアラが、悲しげに顔を上げた。生気の無い金の瞳が、揺れる。その目はリ
ックはおろか、その向こうの景色さえ映っていないようで、彼は悲しかった。
たった数日前までは、誰よりも強く気高いと思っていたその瞳が。縋る相手を
無くしただけでこんなにも。
もっとも、それは自分も同じなのかも知れないが。
彼の深海の目には今、目の前にいる少女しか映っていないと言うのに。イア
ラは小さく頭を振ると、哀しそうな目で彼を見上げる。
「なんでそんなこと言うんだ?」
「こっちが聞きてえよ。何処見てんだ? こっちを見ろよ、いつからお前はそ
んな目をするようになったんだよ!」
そう言って、イアラの冷たい頬を両手で包むようにして自分の方を向かせる。
体勢が変わる際に治りきっていない右肩に激痛が走り、彼女は顔を歪めてそ
の手を振り解いた。
「痛ってえよ」
リックは悪かったと手を離して立ち上がると、イアラに包帯を放って寝室を
後にした。
彼女は包帯を握り締め、再びシーツに顔を埋める。白い着衣の右肩部分に、
黒く血が滲んだ。
雨の中。
半分意識を失いかけていた彼女を抱え上げ、覗き込んだリックは、その顔を
見るなり何も言えなくなった。思い立って外に出て来るタイミングが後れてし
まったことを改めて後悔した。
相変わらずの豪雨。傘を投げ出した彼のシャツもすぐにびっしょりと濡れて
肌に張り付いた。リックは着ていた厚手の上着で薄着のイアラを包むと、もう
一度走って来た道のりを振り返る。遠くにさっきまで自分のいた兵舎が見える。
急いで帰ると少し、彼女に痛い思いをさせてしまいそうだ。そんなことを考え
ている間にも雨は勢いを増して視界を遮った。
「リ、ク、ごめ……」
「イアラ、ガラフは」
彼の声にイアラの肩が大きく震える。思うように動かない腕を伸ばし、リッ
クのシャツをつかんだ。頬を流れた雫が雨なのか涙なのか、今はどうにも判然
としない。リックはふと見下ろした地面に大きな足跡が続いているのを、そし
てそれが先のほうでは既に雨に流されているのだと知ると、どうしようもなく
虚しい気持ちに駆られて腕の中の少女を見下ろした。
「……ガラフは、居ないのか……」
背中あわせどころか。
手の届くところには。
「………なさい……。わた、し」
震える両腕が顔を覆う。
――わたしは、リックからガラフを取り上げてしまったんだと。
「いい」
腕を突っ張り、腕から逃れようとするように足掻くイアラの冷え切った体を
半ば強引に引きとめ、彼が呟く。強がりに違いなかったが、きっとイアラが謝
り続けたならリックの腕は彼女に何をしでかすかわからなかったし、なにより
痛々しかった。
二度も置き去りにされ、今度こそ本当に心の拠り所を亡くして壊れかけてい
る姿が。
暴れる彼女の小さな、細い体を抱く両腕に力をこめ。
「もういいから」
「―――ッ」
尚も抵抗して左腕を地面につくが、右腕を引き、寄せられる。リックの腕が
上半身の動きを制限するのが酷くもどかしく、初めて自分の異常に小さな体を
呪った。
「戻ろう、イアラ。風邪を引くし腕も駄目になる」
彼の声の優しさに、改めて湧き上がってくる後悔が、少女を脱力させた。元
から、もうそんなに体力は残っていなかったのである。
ただ、わからない。
何をしたかったのかが、わからない。
何故、別の人間に向けられるべき憎悪がガラフに向いたのかがわからない。
何故今この胸を占めているのが”悲しみ”なのかが、わからない。
「いらない……」
「いらなくない」
リックは静かに言い切って彼女を抱き上げた。
こんなのいらない。
両手が、意図せずに顔を覆う。
胸にわだかまるのは吐き出して捨ててしまいたい嫌悪感と。
それがなにに対してのものなのかすら理解できない苦しみと。
そんな感情を持つ資格など無いという自責の念と。
如何すればこの憾みを言葉に出来ただろうか。そうするにはまだ彼女は、幼
すぎたのだ。
「……ゼロ!」
走ってきたリックに、ゼロが申し訳なさそうに頭を振る。結局振り切られた
ようであった。
リックはそれを確認するなり、壁を思いっきり殴りつけた。その手には、千
切れた太いロープを持って。
「まさか……怪力も此処までとはな」
「本当に縛ってたの? 信じらんない。手首が擦り切れてたのってそれのせい
? 最悪」
「無駄だったけどな。……あいつが戦に行ったところで何を得るんだよ。もう、
何の意味も無えんだぞ!」
ゼロはぐっと言葉に詰まり、下を向く。灰色の廊下が嫌味に目に付いて、腹
立たしかった。彼が、一番苦しいのだろう。判っているつもりなのだ、彼女は。
あの二人ほど力が無いが故に。そして、何より誰を責めることも出来ないが故
に。
一言、小さな謝罪の言葉を聞いて、リックは下を向いた。覗き込むゼロの眼
に、笑っているような、疲れきって眉を顰めているような、表情が少しだけ映
った。
「ゼロ。ガラフはさ、優しいだろ」
「ええ」
「だからオレを体良く人質に捕られて此処で雁字搦めになっていた。その必要
が、無くなったんだよ。イアラがガラフを憎んで、殺そうとしたから――あい
つはオレに気兼ね無く、逃げられた。……一方でオレは、あいつを失ったけど
イアラを憎めない。事情を知ってるからだ」
「……ええ」
彼女は、不意に顔を背ける。
何となく、縋っていた手から伝わっていたあの日、ガラフから感じた嫌な感
情、その正体が、彼の言葉かと思うと。
リックはそのままずるずるとその場に座り込み、下を向いた。ゼロはそれを
見下ろし、小さく頭を振った。
――こんなに、肩入れするはずではなかった。
最初、イアラに対峙したとき、ゼロは他の人間達と同じように崩壊させるこ
としか考えていなかったのだから。――こんなに肩入れしなければ、自分がこ
んな罪悪感を覚えることも無かったのに。
「……馬鹿ね、貴方の頭は何の為にあるの」
精一杯の虚勢とともに、声を張り上げる。リックははっと顔を上げ。
「無理やりここから引っ張り出したらどうなのよ? イアラはあんた以外に頼
れる人がいないのよ。だったら――上層部に得意分野の脅迫でも何でもやって、
此処から連れ出して。探しに行ったらどうなのよ!」
リックは暫し呆然と彼女を見上げていたが、やがて元の表情に戻り、立ち上
がった。いつものように軽薄では無かったが、それがあるいは彼の素の顔なの
かも知れなかった。
「……考えとくよ」
そう言うと、両腕で目元を拭う彼女の、人間よりも小さな頭を撫でた。
「ガラフ=Gは、相棒置いてどこ行っちまったんだろうな」
「おい――本人居るんだぞ、聞こえたら――」
「うわ、やべっ。そういえば!」
慌てて口を塞ぐ兵士が視界の端に映る。イアラは別にそんな噂話を気には止
めなかったが、車内は少しだけ気まずかった。どうも、イアラとガラフは”相
棒”と言うより”恋人”に近しい関係だと思われていたらしいことが、最近に
なってわかった。男女の組み合わせだからそう見えてしまうことは仕方が無い
のかもしれないが、イアラにしてみれば、何故子供にしか見えない”自分と”
なのかが不思議でならない。イアラも含めその他大勢の兵士たちがこれから向
かうのは激戦区、自分達が出て行くのはその最前線だと言うのに、皆呑気なも
のである。楽観――よりは諦念に近いものではあるが。
イアラは擦り切れた手首をグローブで隠すと、前を見据える。瞳の金は野生
を帯びて、戦い、狂う、魔物のように。
「みんな怖がってんぞ、イアラ=ノエル」
後ろから肩を叩いたのは以前ルームメイトだった少年であった。我に返った
彼女が周りを見回すと、周囲の兵士の、怯えた視線が突き刺さった。苦笑して、
悪い、と少年を見上げると、彼は別に、と手を振った。彼女の内心に関しては
理解があるらしい。
「――で、おまえさ、ガラフ=Gのことどう思ってたんだ?」
「信頼してたよ。――きっと、誰より」
「そ」
少年は素っ気無く答えると空を見上げ、イアラの頭を軽く撫でた。イアラは
――ガラフのそれに比べると小さな、その手の下でふるふると頭を振る。本当
は、その腕に抱きついて、縋って、大声で泣いてしまいたかった。
ひときわ大きな、揺れ。トラックが止まる。
少年は去り際に、小さく呟いた。
「ガラフ=Gはおまえのこと、どう思ってたんだろうな」
イアラも後に続き、やはりぼそりと答える。
「今は、まだ」
―――知りたくないよ。
大地に足を下ろした彼女の目は、野生のそれであった。
そして今回も、きっと痣だらけ、傷だらけになって帰るのだろう。救いよう
の無い光の中より今はまだ、安寧の闇に身を委ねながら。




