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二話

      2


 闇、だった。

 イアラは一人でそこに立っていて、真っ白な影が一本、その足元から伸びているのだった。歩いていた足を停め、後ろを振り返ると無数の手が闇から伸びている。

 思わずあとじさった彼女の足を、冷たい手が掴んだ。

「……ッ!」

 全身が、引き攣るような。

 そんな悪寒を感じた。

「……放、せっ」

 必死に動かす足はしかし、決して振りほどくことは出来ない。聞こえてくる、というより頭の中に

直接流れ込んでくるイアラを責め立てるようなその声は、父の、母の、近所に住んでいた人たちの。

 ―――イアラ

 ―――イアラ

 ―――イアラ

 ―――イアラ

 ――来い

 ―――イアラ

 …………何故、お前だけが、生きている


「生きてたくなんかなかった!」


 直後。堪らず叫んだイアラの頭の中に、流れ込んでくる感情の濁流。

 おまえにわかるものか。おまえにわかるものか。おまえにわかるものか。死にたくなかった。死にたくなかった。死にたくなかった。死にたくなかった。腕を引き千切られ、頭蓋を砕かれる痛みがお前にわかるか。家族の死体を抱いて殺戮者を見上げた、この絶望がわかるか。

 何故お前だけがおまえだけが、


 お前だけが!


「どうして!わたしだけが!」


 ……音が、消える。


 形容しがたい音とともに、座り込んだ彼女の周りに真っ白な壁が出来た。

 その中でゆらゆら揺れる影、影、影。そして断末魔のような笑い声。耳を劈くような。

 やけにリアルな音を出して、あるものは足が千切れ、頭から両断され、切断された首はあらぬ方向へと飛んでいき―――

 ふと。自分の手に、人を斬った時の堪らない感触が蘇る。筋肉の繊維に噛み付かれ、なかなか抜けない刃と、抜けたときの堪えがたい音。

「……やめろ」

 一歩。

 知らずに、後退。

「……嫌だ……」

 二歩。

 嘲るような笑い声も、惨劇の模倣も止まず。

 「……いや……ぁ」

 後じさりながら両のこめかみを手で押さえ、しかし惨劇から目を逸らすことも出来ず、やがて目前の景色が歪んで頬を滑り落ちる。

 壁が背中に当たって、後が無いことがわかると、その場に泣き崩れた。


 目がさめて最初に見えたのはテントの天井。月の薄明かりの中でリリアは顔にかかった髪を掻き揚げ、体を起こした。

 ……眠れない。

 寝直そうかとも考えたが、無理だということもまた自覚はしていたので、仕方なく起き上がり、所在なげにあたりを見回す。

 少し離れたところで自分に背を向けて寝ているイアラの方へ、視線が泳いだ。

「ね……起きてる?」

 リリアは遠慮がちにそう言うと、イアラの近くへ寄って行って、彼女の様子がおかしいことに気づいた。

 呼吸も浅く、汗だくになって毛布を握り締めていたイアラはリリアの手を払いのけ、飛び起きる。意識が混濁している所為か目の焦点もはっきりしてはいないが、怯えていることはその様子でわかる。

「……ッ」

「イアラ?」

 名前を呼ばれた少女の肩がびくっと痙攣する。よほど酷い夢を見ているのだろう。

「……や」

「どうしたの」

 逃げようとしたイアラの腕を掴むと、彼女はその手を振り払おうと、ひどく暴れた。

 短剣を握った手を押さえつけると引き攣った悲鳴を上げる。

 リリアはそれも構わず抱きしめ。

「―――ぃやだああぁっ、放せ……!」

「怖くないよ、落ち着いて。……大丈夫だから、ね?」

 イアラの耳元に優しく声を掛けると、次第にその抵抗も弱々しく、小さくなった。リリアの服を掴んで喘いでいた彼女は、やっと落ち着いたのか小さく震えた。

「……………リ、リア……?」

 イアラはリリアの服をぐっと掴んで彼女を見上げた。リリアは涙目で見上げてくる少女に笑顔で頷くと、その頭を優しくなでた。

 イアラはいつになく弱気な目を逸らし、ごめん、と呟いた。

「大丈夫。誰でもあることだよ」

 リリアはきっぱりとそう言って、申し訳なさそうな顔のイアラを見下ろす。腕の包帯が赤く滲んでいるのに気がつくと、替えようかとその手を取った。


「……あたしはもう、慣れてしまったけれど」


 ポツリと聞こえた独り言にイアラが顔を上げても、リリアはただ笑い返した

だけだった。




 蹴倒した兵士の胸に大剣をつきたてて、肩で息をする。

「……百九十……」

 四方から走ってきた者たちも剣で薙ぎ、体を上下に別った勢いで続く銃口を射手ともども切断した。後ろからの者の腹部に短剣をつきたてて振り返ると、うろたえ、機動力を殺がれた彼に向かい、大剣を振り下ろした。

 血糊や脂で鈍器と化した大剣は兵士の頭を叩き割り、その中身をイアラの足元にぶちまける。

 それを避けるように少し下がると、矢で左腕を射抜かれた。ぐっと歯を食いしばって振り返りざまに大剣を振るい、横薙ぎに頭を斬り付ける。

 頭蓋を砕き、脳漿を散らす嫌な音。

 死臭。血の臭気。

「…………にひゃ、く……っぐ」

 その場に崩れ落ち、嘔吐。吐くようなものは残っていないのに、と地面に爪を立てた。

 胃液が喉を焼いて、痛い。

 イアラは少しの間だけ泣くと、再び立ち上がって大剣を振るった。

 同時に肉に食い込む手応え。後ろから斬りつけようとしていたらしい男が口から血泡を吹いてがくんと体の力を抜く。イアラもそれにあわせて大剣を振ると、筋肉を引きちぎる堪えがたい音と共にその体が地面に倒れた。

 ――あいつは、この行為をどう思っているのか。

 行く手に、青味がかった銀の髪、鉛の瞳を持つ大男の姿が見えて、ふと、そんなことを考えた。ガラフはちらりとイアラを見たようだったが、すぐに目を逸らした。

 足元まで追いつくと、視線も向けずに呟いた。

「大丈夫なのか」

「まあね」

 努めて明るく笑って見せる。ガラフは対比のようにばかでかい大剣にこびりついた血糊を見つめ、

そうか、と呟いた。

「あんたはさ。こういう所にいて、帰りたいとか思ったことないのか?」

 イアラの言葉に考え込むような素振りを見せると、ガラフは思い出したように大鎌で少女の頭上を薙いだ。驚いて棒立ちになっているイアラの後ろで敵側の兵士が倒れるのを確認してから、こともなげに前を向く。

「今居る場所が居るべきところだ」

 彼のそれが彼女の問いに対する答えだと気づいたのは、向かってきた兵士を全部斬った後だった。


 よろけたイアラの肩を、大きな手が支える。

「大丈夫か」

「……悪い」

 ガラフは。

 体勢を立て直した彼女の頬についた血を親指で拭い、その小さな肩の向こうに瓦礫と死人の山を見つけ、酷く不愉快な気分になった。

 一方でイアラは。

 彼の肩越しに空を見上げ、流れていく雲の銅色が綺麗だと、思った。

 折っていた膝を立ち上げ、踵を返して歩いていくガラフの背中を、重たい体を懸命に引きずって追

う。

 周囲にはこの夕日さえ穢れたものに見せる死体の山が積みあがっていた。

 そんな、瓦礫の山も累々たる屍も見ない振りして。

 緩くなっていたゴムで髪を高く括り直しながら、イアラはガラフを見上げた。

「なんとなく、だけど」

 ガラフは小さな声に気づくと足を停め、彼女を振り返る。言葉は必要ないと判断されたのか、わずかに、沈黙が流れる。

「わたしはきっと、”生きて”いたかったんだ。死んでいたわたしの心、ガラフだけが見つけて助けてくれたから」

「――心?」

 ガラフはいつもと変わらぬ無表情でイアラを見下ろす。イアラもまたまっすぐに彼を見上げ。彼はその表情を鬱陶しいと思う反面、それに何かを期待している自分に気がついた。

 また、イアラは彼の考えなど知りもせず、尊敬だか畏怖だか慕情だかの篭った視線を逸らさずに居た。

 どうせ死んでしまう心なら、貴方とともにありたいのだ。

 ガラフはばかばかしいと背を向け、再び歩き出す。後ろの小さな足音を聞きながら、唐突に、何かを、変えてみたいと思った。

 漠然と。


「……お前を死なせないと、約束してやろう」


 ほんの小さな変化を与えてみようか。背を向けたまま言った彼を、イアラは暫く呆然と見つめ。

「――同じく」

 皮肉で返した口元には笑み。


 ただ、嬉しかった。






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